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大正12年9月1日(1923年。 午前11時58分、関東南部を直下型の巨大地震が襲います(「関東大震災」)。 建物の多くが倒壊し、昼食の準備時だったこともあって方々で出火、延焼して、日本災害史上最大級の被害がでます。約340万人が被災し、10万5千人近くの人が死亡または行方不明となりました。 当地(東京都大田区)も大きく揺れました。特に海に面した所は液状化現象が起きて大きな被害が出ました。 都心はさらに酷く、当地(東京都大田区)などの郊外に人が流れてきます。関東大震災をはさんで大正10年から昭和6年までの10年間で、馬込町は人口が8倍近くにふくれ上がりました。この頃当地で作家が増えたとされますが、増えたのは作家だけではなかったのです。 当地の大林寺(東京都大田区大森中二丁目 7-19 Map→)に震災の供養塔があります。
関東大震災のとき、当地(東京都大田区)にゆかりある作家たちは、どうだったでしょう? 宇野千代(26歳)は、大森駅近くの郵便局(現・「大田山王郵便局」。東京都大田区山王二丁目5-7 Map→)から出ようという時、揺れにあいました。尾﨑士郎(25歳)と住んでいた家(東京都大田区南馬込四丁目28-11 Map→)は無事でしたが、朝鮮人が襲ってくるとのデマが飛び交い、2人は恐れて天井裏に隠れ息をひそめました。徳富蘇峰(60歳)は出先の神奈川県逗子で揺れにあって当地に戻ってくる際、抜き身の刀をもつ自警団を見かけ、朝鮮人に間違えられて襲われないかと恐れました。 5歳の池部 良は、家(東京都大田区中央四丁目)の庭で弟と水遊びをしていたそうです。 父(池部 同年(大正12年)7月、5年間の外遊から帰朝した堀口大学(31歳)が当地の「 村岡花子(30歳)は、当地(東京都大田区中央三丁目12-4 Map→)の自宅で遭遇。長男の道雄(2歳)に物語を聞かせたあと昼食の準備に立とうという時でした。家は無事でしたが、夫が経営する「 質屋 「きねや」(現・銀座七丁目)の店員だった山本周五郎(20歳)は店の使いか何かで南麻布の天現寺に来ていて、そこで揺れにあいました。無事でしたが「きねや」 は焼失。新天地を求めて大阪方面へ旅立ち、そのおりに「大阪朝日新聞」に地震の体験記を書き、生まれて初めての原稿料を得ます。 佐多稲子(19歳)は、日本橋丸善で揺れにあいました。当時丸善の洋品部の店員だったのです。 丸善ビルは崩壊しますが、 「外に出ろ!」の指示に従って、危機一髪命拾いしています。 添田知道(21歳)は、東京 北原白秋(38歳)は、妻の菊子と生まれたばかりの長男隆太郎と、小田原の自宅で揺れにあいました。 2階にいた白秋は階下の家族を助けようと階段を降りかけますが、階段が崩壊。 運良く軽傷で済んだようです。小田原は震源が近く(震源は相模湾北部)、都心より揺れが大きかったようです。 今井達夫(19歳)は、東京神田の駿河台辺りを歩いていて遭遇。3日かけて神奈川県鵠沼の実家に戻りますが、家は壊れていました。遺体の焼却を手伝ったそうです。 堀 辰雄(18歳)は、この地震で母親を亡くします。北園克衛(20歳)は銀座でデッサン中でした。辻 潤(40歳)は、川崎で揺れにあったとか。「読売新聞」の記者だった子母沢 寛(31歳)は、新築されたばかりの社屋で遭遇。思わず 「号外、号外」と叫んだら、「号外どころでない!」とどやされたとか。堺 利彦(52歳)は、第一次共産党事件で市谷刑務所の未決監に拘留されており、そこで遭遇。芥川龍之介(31歳)は、東京田端の自宅にいました。家族の救出を妻の 小島政二郎(29歳)も初めての短編集『含羞』の初版2,000部を焼いてしまうなど打撃を受けますが、一冊の本を心の糧にして、苦難を乗り越えます。類焼火災に備え身重だった光子夫人を田端の芥川龍之介の家に預けています。 日本における登山の先駆者辻村伊助(日本人で初めてヨーロッパ・アルプスの厳冬期の4,000m峰に登頂)は、辻村もと子の伯父に当たる人です。彼は箱根湯本に自ら作った高山植物研究のための「辻村高山園」(「湯本幼児学園」の入口手前右手に「辻村伊助邸跡」の案内板がある(Map→ Photo→))で、ローザ夫人と3人の息子とともに被災、土石流に押し流されて5人とも亡くなりました。 大森貝塚の発見者モース(85歳)は、米国で、自らも教鞭をとった東京帝国大学の図書館も壊滅したことを知ります。 彼は一度書いた遺言を書き改めて、自らの全蔵書を東京帝国大学に寄贈しました。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |