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案の定、お役御免のお達しでした。海舟は軍艦奉行と神戸海軍操練所御用の両役から下ろされて、今まで2,000石とっていたのが急に100俵となります。1石は兵士一人が一年間に消費する米の量とされ、2,000石といえば兵を2,000人養える禄高です。1俵も1石と同じ量を表しますが、身分が高くない者(役職についていない者)の禄高に使われたようです。およそ1/20の収入となりました。 なぜ、そんなことになったのでしょう? 黒船が来航した嘉永6年(1853年)に海舟(30歳)が提出した「海防意見書」が取り上げられ、その後、長崎海軍伝習所の生徒監となり、
罷免させられた海舟は、再び声がかかるまでの約1年半(海舟の『氷川清話』には4~5年間とある)、元氷川の邸宅(東京都港区赤坂六丁目10-41 Map→)で本を読みまくっています。 おれは、一体文字が大嫌ひだ。詩でも、歌でも、発句〔俳句のこと〕でも、みなでたらめだ。 何一つ修行したことはない。学問とても何もしない。ただあの四、五年間、塀居を命ぜられたお陰で、少々の学問ができた。源氏物語や、いろいろの和文も、この時に読んだ。漢学も、この時にした。たうとう二十一史も読み通したヨ。しかしほんの独学で、終始 不遇のときは、時間だけはたっぷりあったりするので、腰を据え、ふだんできないことに取り組むといいんですね!? 戦前は未開で、野蛮で、威張る人がのさばる時代だったので、みんな仲良く平等にと社会主義的(民主主義的)なことを主張すれば、すぐに監獄行きでした。 堺 利彦は5度は投獄されています。堺は獄中で洋書を含む多岐にわたる本を読んでいます。妻の
堺は友人の幸徳秋水、山川 均、森近運平、大杉 栄らの蔵書も把握していて、この本は誰それに借りるようにとか、買う場合はこの本を売って支払うようにとか、事細かに為子に頼んでいます。堺は有名な社会主義者なので、彼の名を出せば、送料込みで4割引きで買えたそうです。為子は裸体画があって発禁の本などは、その頁だけを引き抜いて製本し直すなど工夫しています。堺は「愛妻居士」とからかわれるほどの愛妻家でしたから、為子もそれに応え協力を惜しまなかったのでしょうね。 堺の獄中での凄まじい勉強姿に心打たれた監守の岡野辰之助は、その職を辞し堺の「売文社」の一員になっています。 大杉 栄も明治39年(21歳)から明治43年(25歳)までの間、監獄を出たり入ったりでした。やはり獄中で、フォイエルバッハの宗教論、『自由恋愛論』(アルベール)、『バクーニン全集』、トルストイの小説、クロポトキンなどアナキズム関係の著作、『老子』『荘子』などを読みまくっています。ことに語学習得に情熱を傾け、「一犯一語」と豪語し、監獄に入るたびに一つの外国語をマスターすることを自分に課しました。エスペラント語、ロシア語,イタリア語,ドイツ語、英語、フランス語をかじった形跡があるようです。 ・・・午後はエスペラント語を専門にやる。先月は読むことばかりであったが、こんどは、それと書くこととを半々にやる。つまらない文法の練習問題をいちいち真面目にやっていくなどは、監獄にでもはいっていなければとうていできぬ業だとおもう・・・(大杉 栄の書簡より。宛先は不明) 山川 均も19歳の時から4度は投獄されています。最初の投獄前まではキリスト教の平等・公平思想を広めて社会を変革しようと考えましたが、監獄で経済学の本を耽読してからは、労働運動を通して平等・公平を実現させようと試みるようになります。
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■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |