JR京浜東北線「大森駅」(東京都大田区大森北一丁目6 map→)の中央改札を西側に出ると正面に、「天祖神社」(同山王二丁目8 map→)のこんもりとした緑が見える。そこに刻まれた階段は、知るかぎりでも3つの作品で描かれている
昭和14年12月13日(1939年。
映画「空想部落」が公開されました。
原作は尾﨑士郎(41歳)の同名小説(Amazon→)で、3年前(昭和11年)に「朝日新聞」に連載されたものです。かつて当地(東京都大田区の馬込・山王あたり)をたくさんの作家らが往来しましたが、その一人一人(尾﨑士郎、宇野千代、東郷青児、萩原朔太郎、川端康成など)が連想される人物が登場します。
当地の具体的な場所を連想させる表現もあります。この小説の舞台の「牛追村」は馬込村(現・東馬込、西馬込、南馬込北馬込、中馬込)をひっくり返したようなもので(馬→牛、込→追)、「新しくできたホテル」といえば大森ホテルでしょう。
|
|
大森ホテルは現在の山王公園(山王三丁目 map→)あたりにあった。樹木は当時からのものか |
在りし日の大森ホテル ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:古絵はがき |
尾﨑の『空想部落』は当地を連想させるだけですが(当地をモデルにしたのは確かだろうが)、高村
薫
さんの『レディ・ジョーカー』(Amazon→)には当地の実際の地名がたくさん出てきます。薬屋を営む片目が不自由な実直な男は糀谷
(「糀谷駅」(map→))に住んでおり、 「蒲田署」(蒲田本町
二丁目3-3 map→)の刑事は萩中三丁目( map→)のアパートに住んでいます。その競馬仲間の青年は
東
糀谷五丁目(map→)の町工場で働いています。発端となる事件も、「イトーヨーカ堂」(現・スーパー「オオゼキ」(東京都大田区山王二丁目4-1 大森駅前ビル B1 map→))が入っているビルの脇の坂道を上った山王二丁目16 (map→)の住宅街で発生。
ずば抜けたセンスと情熱(狂気)で犯人を追いつめていくのが「大森警察」(大森中一丁目1-16 map→)の合田雄一郎
刑事です。彼は当地(東京都品川区八潮五丁目)のアパートに住んでいます。午後10時55分に電話で事件を知り、自転車で飛ばし、午後11時7分には山王二丁目の現場に到着します。その間12分。
『レディ・ジョーカー』 には、その他にも当地の「山王交番」(山王二丁目 map→。作中では「大森駅前派出所」。実際の「大森駅前派出所」は大森北一丁目にある map→)、山王二丁目バス停(map→)、京浜急行大森町駅(大森西三丁目 map→)、ルーテル幼稚園(山王二丁目 map→)、池上警察署(池上三丁目 map→)、NTT蒲田営業所(蒲田本町一丁目 map→)、カトリック蒲田教会(新蒲田一丁目 map→)、環状七号線、夫婦
坂バス停(
上池台
一丁目 map→)、カトリック
洗足教会(上池台四丁目 map→。作中では「聖ヨハネ教会」 )、京浜急行平和島駅(大森北
六丁目 map→)、本門寺(池上一丁目 map→)、それと、このページの冒頭の天祖神社の階段も出てきます。
|
|
山王二丁目16番。ここで事件が起こる |
山王二丁目バス停近くの交差点。合田ファンにとっての“聖地” |
範囲が少し狭まりますが、
絲山
秋子さんの小説『イッツ・オンリー・トーク』(Amazon→)にも当地・蒲田のいろいろな場所がでてきます。小説の書き出しからして、
直感で蒲田に住むことにした。
ある日、いい加減冬に飽きた頃、山手線に乗って路線図を見ていると「蒲田」という文字が頭のなかに飛び込んできた、それで品川まで行って京浜東北に乗り換えた。ホームに降りると発車ベルの代わりに蒲田行進曲のオルゴールが鳴っていた。
ずっと東京に住んでいながら蒲田に来るのは二度目だった。小さいころに夏物のスカートの生地を買いに来たっきりだ。
けれども街はどこか懐かしく、夢で歩いたことがあるかのようにしっくりきた。・・・(絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』より)
と、「蒲田」炸裂です。「夏物のスカートの生地を買いに来た」のは手芸ファンならおそらく知らない人のいないJR蒲田駅近くの「ユザワヤ」(ユザワヤ 蒲田店 7号館 map→)でしょう。他にも、雪が谷、ヨーカドーの上の映画館、サンマルク・カフェ(西蒲田店だろうか)、羽田空港、「大森駅」北口、「蒲田駅」、大田区役所、タイヤ公園、
呑川
、熊野神社、環八沿いのデニーズ(下丸子店か)などが出てきます。
猥雑
な町で、傷ついた優しい者たちが出会い、そして、別れていきます。
『イッツ・オンリー・トーク』の当地(大田区)はどちらかといえば“旅人”としてのそれで、それはそれで味わい深いものですが、先祖の代から当地に根を下ろし、自身も長らく当地に住まい、当地で51年間旋盤工をしながら書きつないだ小関智弘さんの作品群(『羽田浦地図』『錆色の町』など)は重く、深いです。当然、当地の歴史的なことなども出てきます。
昭和30年の「ナイロンザイル切断事件」を題材にした井上 靖の小説『氷壁』の主人公は、天祖神社の階段(冒頭の写真を参照)あたりに住んでいる設定になっています。
天祖神社の階段は、藤浦
洸の随筆「新文学準備倶楽部
」(随筆集『海風』(Amazon→)に収録)にも出てきます。宇野千代がこの階段の段数を数えると62段だったとのこと。先日数えたら48段になっていました。かつては「池上通り」(階段前の通り)から階段が直上していたんでしょうね。
青木 玉 ( たま ) さんの『帰りたかった 家 ( うち ) 』(Amazon→)にも天祖神社の階段が出てきます。切ない話です。
・・・駅の前に急な石段がある。途中に踊場があって、それを上るとお宮さんがある。
石段の下に立って、母は石段は何段あるかと聞いた。頭から水をかぶったように喉がつまった。母さんは算術の稽古をするつもりなんだ、一生懸命数えて、踊場まで十五段かしら?
と言った。
「じゃ上って数えてごらん」
数えて上りながら、不安になった。
夕方の石段を、勤め帰りの人が足早に上ってゆく。一番上までゆくのかな。下の母を見ると、こわい顔をして私を見ている。立ち止ると、手を振って上へゆけ、と言っている。上まで上り切って、何段だか解らなくなってしまった。
ぐずぐずしていると、母は上って来て、どんどん歩いてゆく。もう、さっきのように袂の先を握ることも出来ないし、半歩後ろからそっとついてゆく。・・・(青木 玉『帰りたかった家』より)
幸田 文(上の文章の「母さん」)にもこんな一面があったんですね。
当地が出て来る他の作品を列記すると、恩田
陸
さんの『給水塔』(作品集『象と耳鳴り』(Amazon→)に収録)、石坂洋次郎の『海を見に行く』、宇野千代の『色ざんげ』、夏目漱石の『虞美人草』
や永井荷風の『腕くらべ』、徳富蘆花は『富士』・・・
|
|
高村 薫『レディ・ジョーカー〈上〉 (新潮文庫)』。犯行集団、警察、検察、企業、犯罪組織が黒く渦巻き、それに差別や格差や貧困の問題が絡まってくる。本格社会派ミステリー |
「やわらかい生活」(松竹)。原作は絲山秋子の『イッツ・オンリー・トーク』。監督:廣木隆一。出演:寺島しのぶ、豊川悦司、松岡俊介ほか。蒲田の様々な表情が堪能できる |
|
|
松本清張『砂の器〈上〉 (新潮文庫) 』。「JR東日本 大田運輸区」(旧「国鉄蒲田操車場」 map→)で事件が起こる |
松本英亜
『小さな旅『鬼平犯科帳』ゆかりの地を訪ねて〈第1部〉』(小学館スクウェア) |
■ 馬込文学マラソン:
・ 尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
・ 宇野千代の『色ざんげ』を読む→
・ 萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→
・ 川端康成の『雪国』を読む→
・ 小関智弘の『大森界隈職人往来』を読む→
・ 井上 靖の『氷壁』を読む→
・ 藤浦 洸の『らんぷの絵』を読む→
■ 参考文献:
●「空想部落」(日本映画データベース→) ●『レディ・ジョーカー(上)』(高村 薫 毎日新聞社 平成9年発行)P.184、P.207-208 ●『レディ・ジョーカー(下)』(高村 薫 毎日新聞社 平成9年初版発行 同年発行3刷参照)P.103 ●『帰りたかった家』(青木 玉 講談社 平成9年初版発行 同年発行4刷参照)P.78-79
※当ページの最終修正年月日
2022.12.13
この頁の頭に戻る
|