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石坂洋次郎『海を見に行く』を読む(凄まじい夫婦喧嘩)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

題名がロマンチックなわりに、最初から激しい。

登場する夫婦は、当地(東京都大田区)の本門寺の近くに住んでいる。子どもが一人。夫はまだ大学生で、この三人家族は、親からの仕送りでなんとか生活しているのだ。妻もずいぶん若いようだ(おそらく10代)。

この夫婦が始終、激しく喧嘩している。 凄まじい悪態の応酬はとどまらない。 小説の書き出しからこんな調子だ。

トゲの多い小魚を上手に食べる女は世帯持せたいもちがよろしい、とみて来たような嘘を言つてのけるやつだ、馬鹿
 で、今朝もまたふくれつつらだ。
 祖末そまつな束ね髪、禿はげげあがつた額、とがつた鼻、耳だけは肉が厚くずい分と大きい。それで、皿小ばちがいつぱい散らかつたチヤブだい を胸にひきよせて、子供が食べ残した煮魚の骨をしやぶつて るのだ。ひどい舌なめずりだ。 ・・・

と、これは、夫が見た妻。ずいぶんこき下ろしたものだ。

妻だって黙っていない。 方言丸出しで 「フン、いいふりばかり吐いで何だベエ。言われて口惜しいんだら、かがや子供をやしなつてみせればええ、大学生ア」 と言い返し、 「まあ、どうしよう……ハルキチ、父さんがまた落第するよ、二度だと、私は 面目めんもく ない……」と聞こえよがしに子どもに話しかけたり、えんえんと泣き出す。 さらには夫の実家から仕送りされてきた1円札を吹いて飛ばしたりする(笑)。

で、この夫婦はなぜこんなにもいがみ合うのか?

実は、この新婚の家庭には、今、夫の同郷の友人が居候している。夫は困っている彼を何とかしてやりたいと思うが、妻は、仕送り頼りのいっぱいいっぱいの生活なのに夫が居候を許したことで頭にきている。

“無制限の友情”に郷愁を感じる夫。でも、実生活においては、腹をすかせる妻と子ども、だ。 妻をののしりつつも、夫の気持ちは揺れる……。


『海を見に行く』について

石坂洋次郎『海を見に行く (角川文庫)』

大正14年、慶應大学卒業直後に書き上げた石坂洋次郎(25歳)の初の本格小説。実際にも石坂は学生結婚し、当地(東京都大田区)に住んでいる。その頃のことがモチーフになっているのだろう。

掲載予定の「三田文学」が一時休刊になったため発表が遅れ、不掲載と考えて失望し帰郷。2年後の昭和2年、「三田文学」(2月号)に掲載され話題となる。

■ 作品評
●「この第一行の力強さに、特に『馬鹿奴』に私はどぎもを抜かれ、全篇を一気に読了して、狂喜した」(勝本清一郎
●「とにかく近来の傑作」(「三田文学」編集後記)
●「軽妙でゐて、人生の深淵を覗かせる含蓄に富む」(北原武夫)
●「巧妙な話術となんともいえぬおかしさ」(河盛好蔵)


石坂洋次郎について

石坂洋次郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 : ウィキペディア/石坂洋次郎(令和2年3月11日更新版)→
石坂洋次郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 : ウィキペディア/石坂洋次郎(令和2年3月11日更新版)→

作品が掲載されず、高校教師に
明治33年(ジャスト1900年。この年に生まれた作家は・・・)1月25日、青森県弘前市で生まれる。3人兄弟の次男。病弱だった。小学校高学年の頃から回覧誌を作って小説を試みる。中学生で詩や短歌や小説の地方新聞へ投稿を開始。大正6年(17歳)、 「時事新報」の懸賞小説で入賞した。

慶応大学文学部在学中、今井うら(子)と結婚。 石坂21歳、うら子17歳だった。二人の間には何度も確執があり、石坂は「私が強い個性の男だったら、十ぺんぐらいもお前と離婚していたろう」と語った。石坂作品の『麦死なず』では妻が左翼運動に熱中し、夫と子どもを置いて活動家の男と出奔する下りがあるが、同じようなことが実際にあったようだ。苦労は多かったが、うら子が石坂文学の源泉になる(上で取り上げた『海を見に行く』もそう)。うら子夫人は、 戦後、執筆に追われる夫を助け、出版社や映画会社との交渉などマネージャー的な役割も果たす。昭和46年(石坂71歳)、うら子が死去、石坂の作品数は減少する。

『海を見に行く』の不掲載に失望、郷里に帰って「弘前高等女学校」(現・「弘前中央高等学校」)の教師になる。1年後、秋田県横手に移動、「横手高等女学校」(現・「横手城南高等学校」)、「横手中学校」(現・「横手高等学校」)に勤務。むのたけじは「横手中学校」時代の教え子。『海を見に行く』が掲載されて初めから小説家になっていたら、学校を舞台にした青春モノ(『若い人』『青い山脈』など)は生まれなかっただろう。

筆禍を経て、人気作家へ
昭和8年(33歳)、 「三田文学」に『若い人』を連載。 爽やかな青春像が受けヒットする。しかし「皇室に対する不敬の個所と、軍人に対する誣告的個所」があるとして右翼団体から告訴された。予定されていた「朝日新聞」への連載は取りやめになり、教職員辞職に繋がる。昭和11年(36歳)発表の自薦の一作『麦死なず』は、反対に「左翼運動を誹謗している」と酷評された。 “波乱の少ない作家”のイメージがある石坂だが、右からも左からもそうとう叩かれている。 昭和14年(39歳)、「横手女学校」を退職、上京して執筆に専念する。太平洋戦争中は、陸軍報道班員としてフィリピンに派遣された。尾﨑士郎らと合流している。

『青い山脈』で国民的作家へ
昭和22年(47歳)、 『青い山脈』を「朝日新聞」に連載。 旧弊を突き破ろうとする若いエネルギーを描いて、終戦直後の開放感と相まって大ヒット。映画にもなり国民的作家になる。 翌年(昭和23年)発表の『石中先生行状記』も、成瀬巳喜男監督が映画化。 昭和31年(56歳)から「読売新聞」に『陽のあたる坂道』を連載。これも2年後(昭和33年)に石原裕次郎主演で映画化された。80もの石坂作品が映画になっている。

石坂作品の健全さは、13年間におよぶ教員生活などで培われた常識的なバランス感覚に由来するといわれる。無頼な生活を送った同郷の作家・葛西善蔵を敬愛したが、「文学のために家族に辛い苦しい思いをさせる人間ではありたくない」と語った。

昭和61(1986)年10月7日、86歳で死去。多磨霊園に眠る( )。

『石坂洋次郎 〜わが半生の記〜 (人間の記録) 』(日本図書センター) 石坂洋次郎 『若い人 (新潮文庫)』
石坂洋次郎 〜わが半生の記〜 (人間の記録) 』(日本図書センター) 石坂洋次郎『若い人 (新潮文庫)』

当地と石坂洋次郎

一浪して慶応大学に進み、大正10年(21歳)学生結婚後、当地(東京都大田区)近くの東京都品川区大井の水神下に住むが、肺炎にかかり療養のため家族と帰郷。翌年、単身上京、慶応大学国文科に入り直し、大正13年(24歳)、当地(東京都大田区南馬込三丁目39-5 map→)で妻子を迎えた。北村小松が借りていた家を譲り受けた。『海を見に行く』では「長屋」とある。幼い頃の池部 良が近くに住んでいてちょくちょく見かけたとか。北村とは慶応つながりだろうか。翌14年(25歳)6月に郷里に戻るので、当地にいたのは1年ほど。 再上京して住んだのも当地(東京都大田区田園調布)。最晩年に静岡県の伊東に転居するまで、長らく住む。

作家別馬込文学圏地図「石坂洋次郎」→


参考文献

●『大佛次郎石坂洋次郎集(現代日本文学全集80)』(筑摩書房 昭和31年発行)P.337-345、P.420、P.427 ●『海を見に行く(角川文庫)』(石坂洋次郎 昭和31年初版発行 昭和32年再版参照)P.207-208 ●『わが半生の記』(石坂洋次郎 新潮社 昭和50年)P.110 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.84、255-258 ●『馬込文士村の作家たち』(野村 裕 非売品 昭和59年)P.86、P.162-171 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.2-3 ●『わが町あれこれ 4号』(編:城戸 昇 あれこれ社 平成6年発行)P.23 ●『馬込文士村資料室・資料一覧』(大田区立馬込図書館 平成8年)P.1 ●『昭和文学作家史(別冊一億人の昭和史)』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.190-194 ●『風が吹いたら』(池部 良 文藝春秋 昭和62年初版発行 平成11年8刷参照)P.305-319 ●「「青い山脈」までの葛藤」(※「朝日新聞」(平成19年5月19日発行)/ 「be」愛の旅人 ●「青い山脈」(※「朝日新聞」(平成21年6月6日発行)/「be」うたの旅人)

※当ページの最終修正年月日
2020.7.24

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