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昭和52年8月3日(1977年。
劇作家の真船 豊(75歳)が死去し、東京広尾の
真船死去の10ヶ月後(翌昭和53年の6月6日)、北園克衛(75歳)も亡くなり、同寺院に葬られています。 没年から予想されるように、2人はともに明治35年生まれです(真船の誕生日2月16日で、北園の誕生日は10月29日)。2人はほぼ同じ時代(時間)を生きたことになります。真船が8ヶ月前に生まれて10ヶ月前に亡くなり、北園の方が2ヶ月間ほど長生きした計算です。 2人とも当地(東京都大田区)で住んだことがありますが、面白いことに、両者が住んだ場所もごく近く。ともに南馬込五丁目(真船は南馬込五丁目11-4 Map→、北園は南馬込五丁目10-3 Map→)。真船はそこに昭和6年から昭和13年まで住み(一時、山王二丁目に移転)、北園は昭和9年から昭和53年まで住みましたから、昭和9年から昭和13年までは重複しています。2人に何らかの交流はあったでしょうか? 真船はどちらかというと「土に向かい」、北園はどちらかというと「土から離れようとする」作家でタイプは違いますが、どうだったでしょう?
真船と北園が生まれる3年前の明治33年は、ジャスト1900年で、この年には、当地(東京都大田区)にゆかりある人物がぽこぽこ生まれています。石坂洋次郎が1月25日、創価学会2代目会会長の戸田城聖が2月11日、初期の松竹蒲田撮影所(松竹キネマ研究所)の作品「地上の霊魂」で異彩を放った女優の
八百屋お七が鈴ヶ森刑場(東京都品川区)で処刑にされたとされる関係で、当地の
この「お七地蔵」が生まれた貞享2年(1685年)に、世界で、すごい音楽家が複数生まれています。ヘンデル(2月23日生)とバッハ(3月31日生)とスカルラッティ(10月26日生)。この頃、優れた音楽家が輩出するような、例えばあることで音楽の需要が急速に高まったとかいったことがあったのでしょうか? 身近なもの(例えば近所の地蔵など)と関連づけて、世界のことに思いを馳せるのも楽しいもの。 覚えとくといいのが夏目漱石の生年。慶応3年(1867年)生まれで、明治元年(1868年)に1歳となり、以後、明治の
オードリー・ヘップバーンは、昭和4年(5月4日)べルギーのブリュッセルで生まれ、父親がイギリスの市民権を持っていて、母親の実家がオランダだった関係で、3ヶ国を行き来しています。父親がナチズムの信奉者になって家庭を捨てたのを機に、母親はオードリーら子どもを連れてオランダに帰郷。オードリーは昭和14年(10歳)から昭和20年(16歳)までアーネム音楽院に通い、またバレーも学びます。昭和15年にはドイツ軍がオランダを占領。伯父は反ナチスのレジスタンス運動に参加して処刑され、異父兄も強制収容所に収監されました。バレリーナとして少しは稼げるようになったのでしょうかオードリーは反ナチスのレジスタンス運動に資金提供したり、伝令の役をしたりしたようです。少女時代のこういった体験が後の献身的な平和活動に結びついたと思われます。 『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクも昭和4年(6月12日)生まれです。彼女の一家はユダヤ系ドイツ人で、反ユダヤ主義のナチスの手からの逃れるため、オランダのアムステルダムへ転居しました。アンネは昭和9年2月に転居。第二次世界大戦は、昭和14年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻によって始まりますが、オランダは第一次世界大戦でも中立を宣言しており、安全と考えられていました。オードリーたちも、アンネの一家もオランダを目指したのはそのためでしょう。ところが、ヒットラーは、イギリス軍機の通過を許しているオランダは中立を放棄したと主張、上にも書いたように、昭和15年オランダにも侵攻、アンネの家族は隠れていましたが、密告があって昭和19年8月4日捕らえられ収容所送りとなります。労働可能ということでガス室送りは免れますが、アンネも丸刈りにされ、腕には囚人ナンバーを刺青され、検査・選別の時は丸裸。まともな食事もなく、チフスになって昭和20年3月上旬頃命を落としたようです。オードリーとアンネは、同じ年に生まれ、昭和14年から19年にかけてオランダで過ごし、ともにナチスの脅威を目の当たりにしたのですね。 日本はそんなナチスと手を組んでいた時代があり、な、なんと今でも支持している人がいること(著名な方もいます)、ご存知でしょうか?
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |