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松竹が配給した現存する最古の映画「路上の霊魂」(大正10年公開)の一場面 ※「パブリックドメインの映画(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/地上の霊魂(平成30年11月8日更新版)→ ※タイトルの「虹の都〜」は、「松竹(キネマ)蒲田撮影所」の所歌「蒲田行進曲」の冒頭。作詞:堀内敬三
大正9年6月11日(1910年。 「松竹(キネマ)蒲田撮影所」(以下、「松竹蒲田撮影所」)の看板が掲げられました。 場所は、第一次世界大戦でしこたま稼いだ中村化学研究所が戦後の不況の波の中で手放したところ。現在、区民ホール「アプリコ」(東京都大田区蒲田五丁目37-3 map→)と「ニッセイアロマスクエア」(同37-1 map→)が建っている場所です。
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松竹は、明治28年、大谷竹次郎(18歳)が、新京極の阪井座を買収し、その経営者になって、創業。京都生まれの大谷は、母親が同地でやっていた芝居小屋の売店を手伝ううちに大の芝居好きになったとのことですが、それにしても18歳で芝居小屋を買収するとはすごいやり手ですね。 5年後には双子の兄弟の兄・白井松次郎(白井家の養子になった)と合流し、大阪にも進出、30歳頃には京阪神の興行界を制覇します。二人の名から一文字ずつとって、「
その後大竹は、京阪神を兄・白井に任せ、東京築地に事務所を構え「松竹合名会社」を興し、そして、大正9年の「松竹蒲田撮影所」設立に至ります(大竹32歳)。
大竹は、「松竹蒲田撮影所」に先立って、「松竹俳優学校」を築地に設立。「自由劇場」の創立者で新劇のホープと目されていた小山内 薫を招いて校長にします。36名の一期生には後にスターとなる鈴木伝明や、後に「時代劇の父」と呼ばれる監督となる伊藤大輔もいました。 俳優学校の研究生を中心とする誇り高い小山内一派と他の所員との対立が表面化し、 小山内一派は独自に「松竹キネマ研究所」を東京本郷に設立することとなります。所側が小山内一派を切り離したのでした。「松竹キネマ研究所」の第1作が、「路上の霊魂」(大正10年製作・公開。上の写真はその一場面)。蒲田映画で現存する最古のもののようです。 総指揮を小山内がとり、監督は村田 実、脚本を
ヴィルヘルム・シュミットボンの『街の子』とゴーリキーの『どん底』が原作、テーマは「憐れみ」です。林業を営む家に育った息子が、父の反対を押し切って、フィアンセを残し、東京に出て、ヴァイオリニストを目指します。そこそこに成功し、名声を博する声楽家を妻にし子ももうけますが、音楽で行き詰まって自暴自棄になって、楽壇を追われることとなるのでした。職を失った彼は、妻と子を連れ、実家を頼りますが・・・。上の写真は、3人が徒歩で実家を目指す場面です。ロケ地は軽井沢、大正9〜10年頃の様子が興味深いです。軽井沢駅、(旧)軽井沢銀座と思しき場所も出てきます。 息子の役は後にスターとなる鈴木伝明(東郷是也の名で出ている)、父(伐木場の主人)の役は総監督の小山内、主人から気に入られている少年を監督の村田 実、ぶっ飛んでるお嬢様の役を「日本初の本格的映画女優」(四方田犬彦)と評される
クロスカッティグ(異なる場所で同時に起きたことを交互に映す)や、フラッシュバック(過去の場面・イメージが場面に現れる)、フェードアウトなど、いろいろ試みられていますが、この作品もその後の『山暮るる』『君よ知らずや』も興行的には不振で、「松竹キネマ研究所」は解散となりました。小山内は「路上の霊魂」の撮影中、心臓発作で倒れています。 以下のサイトで画質のいいファイル(文字がはっきり読める)がダウンロードできます。ウィキペディア/地上の霊魂(平成30年11月8日更新版)→ ------------------------------------------------------ 芸術家肌の小山内は、興行成績を重視する所内の雰囲気に馴染めず、大正12年松竹を去りますが、「松竹蒲田撮影所」に在籍した3年間、当所で絶大な影響力を持ちました。 小山内が去った年(大正12年)小津安二郎と斎藤寅次郎が入社、翌大正13年にはのちにカリスマ的存在となる城戸四郎が所長に就任します。同年(大正13年)より田中絹代も在籍し、昭和4年にはデコちゃん(高峰秀子)が登場、昭和6年には日本で最初の本格的トーキー映画「マダムと女房」が公開され、盛り上がってきます。 「アイアイ・コンビ」の上原 謙と桑野通子の入所は、撮影所が神奈川県大船に移転する1年前の昭和10年。
■ 参考文献: ■ 参考サイト: ※当ページの最終修正年月日
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