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昭和12年12月27日(1937年。
、演出家の杉本
杉本良吉は昭和4年東京左翼劇場の委員長となり、昭和6年には非合法だった日本共産党に入党、地下活動に入りました。党では杉本と同志・今村恒夫とをコミンテルンと連絡を取るためにソ連に派遣することを画策、晩年の小林多喜二もそのために動いたようです。杉本は昭和8年に検挙され(今村と小林も同年検挙された)、懲役2年、執行猶予5年の判決を受けます。その保釈中の昭和13年、杉本は岡田を伴って、ソ連を目指しました。昭和12年といえば、7月7日に日中戦争が勃発。徴兵されたなら、杉本のように国策に抵抗する人たちは懲罰として真っ先に激戦地に送られ無事ではいられなかったでしょう。ならば今こそと、ソ連入りする“賭け”に出たのでしょう。 2人にとってソ連は、スタニスラフスキーの写実主義に反旗を翻して大胆な表現を目指した世界的な演出家メイエルホリドのいる憧れの国でもありました。 一方、岡田嘉子は、新劇のトップスターから日活映画のスターとなり、昭和6年(ソ連に向けて出発する6年前)、一時期舞台に戻っているところを、松竹蒲田撮影所(区民ホール「アプリコ」(東京都大田区蒲田五丁目37-3 map→)の場所にあった)に招かれ、蒲田に住みます。蒲田では「泣き濡れた春の女よ」(昭和8年公開。監督:清水 宏)、「東京の女」(昭和8年公開。監督:小津安二郎)、 「隣の八重ちゃん」(昭和9年公開。監督:島津保次郎)などで好演。しかし、昭和10年、蒲田映画の娯楽性に飽き足らず蒲田撮影所を後にして舞台に戻っていました(途中体調も崩す)。 2人はすでに愛し合っていましたが、杉本には病身の妻・智恵子がおり、杉本は智恵子にも愛情を持っていました。妻をとるか、自分をとるか、と岡田が杉本に“越境”を踏み絵にして迫ったようです。奔放な岡田は、映画「椿姫」の撮影中、俳優の竹内良一と手を取り合って失踪したこともありました。竹内とは結婚しますが、この時は別居中でした。 上野を出た2人は、北海道の
ところが、現実は極めて厳しかった。 2人は国境を越えると不法侵入(スパイ容疑)で捕らえられ、別々の独房に入れられ、その後2人が再び顔を合わせることはありませんでした。杉本は虚偽供述を強要されて、2年後の昭和14年(32歳)銃殺刑に処されます。2人が憧れていたメイエルホリド粛清の口実として利用されたようです。ソ連ではスターリンによる大粛清が始まっていたのです。 岡田は処刑を免れ、収容所、監獄での生活をへて釈放されました。その間、極秘の任務を任されたとする見方もあります。戦後、昭和47年(70歳)、35年ぶりに帰国して、「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」(Amazon→)、「クイズ面白ゼミナール」、「徹子の部屋」などにも出演。ペレストロイカが始まった頃ソ連への里心を催したのか、昭和61年(84歳)ソ連に戻り、平成4年(89歳)、
蒲田撮影所を舞台にした映画「キネマの天地」で松坂慶子さんが演じた川島澄江は、岡田がモデルです(一部栗島すみ子もモデルにしている)。杉本と上野を出る場面も描かれています。 海外旅行とか一時的な海外赴任とは違って、「越境」ともなれば、並大抵な覚悟ではないことでしょう。 版画家の長谷川 潔は、当地(東京都品川区・大田区)で広く芸術家と交流しつつ(大田黒元雄の家で催されたサロン・コンサートにも関わった)、質の高い仕事を残していましたが、芸術の都・パリへの熱い想いが高じ、第一次世界大戦(大正3-7年)が大正7年11月11日に終結するや、矢も盾もたまらず、49日後の同年12月30日(27歳)に日本を飛び出します。 フランスの大地が見えてきたときの感動を次のように記しています。 ・・・さすがにこみあげてくる喜びを抑えることができなかった。断崖の帯は、白く光っていた。そしてそれをつつむ春の大気が、雲一点ない空の青と海の青とを
長谷川はその後、第二次世界大戦・アジア太平洋戦争の時も、日本で個展を開いたときも日本には一切戻らず、パリで89年間の生涯を閉じました。
同じアーティストでも藤田嗣治の場合は事情がかなり異なります。大正2年にパリにわたり(長谷川とは逆に第一次世界大戦が始まっていなかったので渡仏できたのだろう)、その陶器を思わせる乳白色の画肌に流麗・繊細な描線を走らせた藤田の絵はパリでも高く評価され、「エコール・ド・パリ」(両大戦の間にパリで大きな影響力を持った外国人画家の総称。モディリアーニ、シャガール、スーチン、キスリングなど)の代表的な作家になりました。その後フランスと日本を行き来し、昭和8年の帰国後は従軍画家として活躍、アジア太平洋戦争になると陸軍美術協会の理事長になって多くの戦争画を残しました。そんなことから、戦後、藤田の戦争責任を問う声が上がりました。敗戦4年後の昭和24年(63歳)、再び離日、その後藤田が日本の土を踏むことはありませんでした(もてはやした者たちも、状況が変わって、打ち捨てる側に回ったりした?)。 辻 潤・辻まこと父子がフランスにわたった昭和3年、上記の長谷川も藤田もパリにいたのではないでしょうか。 杉本と藤田の場合は、圧迫や迫害から逃れるといった亡命的側面も強かったことでしょう。世界ではいまだに紛争が絶えず、膨大な数の難民が生まれ続けています。そういった「越境」をどう考え、そういった越境者をどう受け入れ、どう共存していけばいいでしょう?
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |