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映画「西部戦線異状なし」より。突撃して来る敵兵を機関銃で撃ち殺していく場面。鉄条鋼に残る手から思わず目を逸らす「僕」。負傷して一時帰還した「僕」は語る、「戦死は汚くて苦しい」「何万人が国のために無駄に死んだ」のだと・・・ ※「パブリックドメインの映画(根拠→)」を使用
昭和4年10月5日(1929年。 レマルク(31歳)の『西部戦線異状なし』の日本語版が発行されました。雑誌しか出していなかった中央公論社が、「中央公論」500号を記念して出した初の単行本だそうです。 原作は、同年(昭和4年)1月に発行され、半年ほどで、フランス、英国、米国などで200万部以上売れ、日本語版も2週間ほどで25刷し、半年で20万部ほど売れます。マルクスの『資本論』をかじり始めていた梶井基次郎(28歳)も読み、痛く感動しています。 小説の主な舞台は、第一次世界大戦(大正3.7.28-大正7.11.11)下の「西部戦線」。ベルギー南部からフランス北東部にわたって、ドイツと連合国(フランス、英国など)が対峙したところで、双方に塹壕が掘られ、双方に大量の犠牲者を出しつつも終戦時までほぼ膠着しました(ドイツの東側にも「東部戦線」があった)。 祖国ドイツの防衛のためと「愛国心」を吹き込まれた少年たちが、教師にそそのかされて兵士に志願するところから物語が始まります。マスコミによって全国民に「愛国」が吹き込まれていたので(戦争が起こるのはほぼマスコミの責任。国民の多数の支持がなければ独裁者も生まれないし、戦争も起こらない(継続できない))、志願兵たちはモテモテです。 少年たちは意気揚々と兵舎に向かいます。 ところが、兵舎に入った直後から、少年たちは幻滅し始めます。彼らの班の班長は町の気のいい郵便屋でしたが、彼は人が変わったように(使命感に燃えて)、少年たちを鬼のように鍛える(いじめる)のでした。 そして、最初の砲撃で少年たちはすっかり目が覚めますが、あとの祭りです。最後まで志願に躊躇していた気のいいベエムが、真っ先に目を打ち抜かれ、のたうち回って死んでいきました。英国製の上等な長靴がご自慢のケムメリヒも、靴を履く脚を失います。ケムメリヒの長靴をもらって得意げに履いていたミユツレルは照明弾を食って死にました。戦争がなければ友だちにでもなれそうな敵国の兵士を一人、また一人と殺してゆく・・・、地獄。 ・・・「だがまったく滑稽だなあ、ようく考えてみると」とクロップは言葉をつづけて、「おれたちはここにこうしているだろう、おれたちの国を護ろうってんで。ところがあっちじゃあ、またフランス人が、自分たちの国を護ろうってやってるんだ。一たいどっちが正しいんだ」・・・(中略) ・・・「そんなら一たい、どうして戦争なんてものがあるんだ」 人がバタバタ死んでも、全体としての戦況に大きな変化がなければ、司令部への報告は「異状なし」なのでした。国家が第一とされるとき、人一人一人の命などはかぎりなく軽いものとなります(あとになって英霊などといって取り繕うが)。 『西部戦線異状なし』の日本語訳は、当地(東京都大田区)が深く関係しています。日本語訳したのが、当地(現在の「クラルテ山王」(東京都大田区山王一丁目25-7 Map→)あたり)に住んでいた37歳の秦 豊吉です。秦は三菱商事の社員で、「大森ホテル」(現在の「山王公園」(東京都大田区山王三目32-6 Map→)の場所にあった)に宿泊していたドイツのパイロットを毎日飛行場まで送っていたようです。そのパイロットからドイツ語版の『西部戦線異状なし』をプレゼントされ、その一冊が日本語版の
著者のレマルクは『西部戦線異状なし』を書いた3年後の昭和7年、右傾化したドイツを去ってスイスに移住しています。昭和8年ナチスが政権を握ってからはレマルクに対する攻撃が激化し、著作は焼かれ、ドイツ国籍は剥奪され、妹は強制収容所で虐殺されました。そんなナチスドイツと日本は手を組んだのですね。 大正3年6月28日に起きたセルビア系青年によるオーストリア皇帝継承予定者・フランツ=フェルディナント夫妻の暗殺が第一次世界大戦の直接的な引き金となりました(サラエボ事件)。オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の併合(汎ゲルマン主義による南下政策)に、汎スラブ主義を背景としたセルビア人の民族主義者(大セルビア主義者)が反発したのです。セルビア政府は関与していませんでしたが、オーストリアはドイツの支援の元、セルビアに宣戦を布告しました。セルビアを支援するロシアが総動員令を発すると、ドイツはロシアとフランスに宣戦布告。国際法に違反したとして英国もドイツに宣戦布告しました。参戦国は25ヶ国にもおよび、約4年半後には、1,600万人以上の死亡者(戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上。戦傷者、行方不明者を含めると4,000万人近く(3889万人ほど))を出すというかつてない大参事となります。 第一次世界大戦中の大正5年頃、「戦争を止め得ない芸術などクソ食らえ」と言わんばかりに、“「反芸術」を標榜する芸術運動”(ダダイズム)がヨーロッパ・米国を中心に起きます。 世界は、この第一次世界大戦で懲り懲りしたはずなのに、21年後の昭和14年には再び大戦を引き起こしてしまいます。そして、今だに、世界のどこかでドンパチがあって、戦争などやりたくない人たちの命も日々失われています。「〜ファースト!」「国益ガァ〜」と声高にいう人がいる内は戦争はなくならないでしょうね。
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |