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デュシャンの「泉」。男性用便器をそのまま提示した、ダダイズムを象徴する作品(大正6年発表)。 撮影:アルフレッド・スティーグリッツ ※「パブリックドメインの著作物(根拠→)」を使用 昭和3年1月10日(1928年。 辻 潤(45歳)の渡仏送別会が銀座(尾張町の東側角)のカフェ「ライオン」(現在の「ライオン(銀座五丁目店)」(map→)近くにあった)で催されました。間宮茂輔(28歳)も参加、 萩原朔太郎(42歳)も参加したようです。 その会場に「ダダを辻に盗られた」「辻を刺す」といって高橋新吉(26歳)が乱入してきます。 辻はあわてて 「高橋こそが日本でのダダの提唱者である」 とスピーチして高橋をなだめたようです。辻は次のように書いています。 ・・・日本で、ダダイストだと ダダイストでも、「誰が最初」とか、そんなことにこだわるのですね。 ところで、ダダイストがよるところの「ダダ(ダダイズム)」とは何でしょう?
第一次世界大戦(大正3-7年)は、戦死者だけでも1,000万人にのぼる(一般市民も含む全死傷者は4,500万人にものぼるとも)大惨事となりますが、「政治」はもちろん、世の「常識」「道徳」「倫理」も、アカデミックな「学問」も、祈ってばかりの「宗教」も、その他の文化・文芸・科学も、その非人間的行為(戦争という名の大愚行)を食い止め得ませんでした。それら既成の文化が無力なことを痛感した若き芸術家たち(トリスタン・ツァラ、フーゴー・バルら)が、大正5年、チューリヒ(スイス)の「キャバレー・ヴォルテール」に結集、「“反芸術”の芸術」の
ダダを名乗りませんでしたが、数年前に米国のデュシャンが、「レディーメイド」(既成品をそのまま芸術作品にする手法。このページの最上部で紹介した「泉」など)など既成芸術(「お芸術」)を否定・嘲笑する作品を発表していました。デュシャンの仲間にはピカビアやマン・レイがいて、前者はチューリヒのツァラとも合流。 日本でのダダの初出は、ツァラらが狼煙を上げた4年後の大正9年、「萬朝報」に 「ダダイズム一面観」という記事が掲載されました。高橋(当時19歳)はこの記事に触発されたそうです。同紙はその後もダダイズムを紹介しますが、批判的な記事が多かったようです。日本も第一次世界大戦に参戦しましたが、直接的な被害はほとんどなく、むしろ大戦景気に湧いたので、死傷者4,500万人の禍々しさに向き合えた(絶望し得た)日本人はごくごくわずかだったのでしょう。 上記の「ライオン」での送別会の5年前(大正12年)、辻(38歳)が、高橋(22歳)の詩集 『ダダイスト新吉の詩』 を編纂しましたが、故郷の愛媛県八幡浜の留置場でそれを手にした高橋は、誤植だらけなのに腹を立て、その場で破り捨てたとか。こんな詩が載っています。 『(皿)』 皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿 『ダダイスト新吉の詩』 はその著者の手で破り捨てられましたが、面白いことに、16歳の中原中也に多大な影響を与えることとなります。「ライオン」での送別会(昭和3年)の前年(昭和2年)、中也(20歳)の訪問を受けた辻(42歳)は、中也に高橋(26歳)に会うよう勧めています(中也は高橋に会ったでしょうか?)。 こうやってダダは中也に引き継がれますが、かたや高橋は「ライオン」乱入直後、郷里で禅に出会い、詩にも変化が現れてきます。ダダの「否定性」の先に仏教の「無」が見えてきたのかもしれませんし、辻と張り合うのがバカらしくなったのかも。 辻は言います。 ・・・ダダの精神は恐らく、人間創世の始めから、 文化・芸術・科学などどの世界でも、既成の論の先をいった人たちは、既成の論の破壊者であり、「ダダ精神」の持ち主と言えそうです。 ダダの影響を受けた人、今もその精神を支柱にしている人は限りなくいるでしょうが、上に挙げた人たちのほかに、吉行エイスケ、村山知義、尾形亀之助、壺井繁治、岡本 潤、小野十三郎、北園克衛、坂口安吾(ツァラの詩を訳している)、宮沢賢治、稲垣足穂、ハイレッド・センター(高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之(当地(東京都大田区)の弁天池近くに住んでいた))らは直接的にまたは間接的に大きな影響を受けたことでしょう。 ダダを芸術史に位置づけると、未来派から派生し、その後、大部分はシュールレアリズムに合流、一部はポップアートやアバンギャルドに派生したという感じでしょうか。 ダダの源流にある未来派は、明治42年(1909年)、イタリアの詩人マリネッティの「未来派宣言」に端を発し、機械化する社会を賛美。“スピード”や“力”を表現しようとしました。それまでの芸術観とは全く異なり(それを否定し)、ダダに連なるものをはらんでいました。ただし、未来派の“力”を崇拝する側面は、後にファシズムに利用されます。 稲垣足穂はダダというより未来派でしょうか。大正10年に開催された「第一回未来派美術展」では「月の散文詩」という絵画(?)を出品しています。飛行機に憧れた足穂は、未来派が提唱する“機械礼賛”に共感するところ大だったでしょう。人の息づかいを消し去った無機質なものに美を感じる感性は、現在の電子音楽やデジタルアートにも通じるかもしれません。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |