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元祖ダダイストは?(昭和3年1月10日、辻潤の渡欧送別会に、高橋新吉が乱入)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「泉」というタイトルで男性用便器をそのまま提示した、ダダイズムを象徴する作品(大正6年発表)。既存の“お芸術”をあざ笑うかのようだ。左下の署名「R.MUTT」(リチャード・マット)の「mutt」は「バカ」「のろま」の意味で、陶器製造会社「Mott Works」 にもかけている。美術における「作者」の意味にも疑問を呈した。デュシャンは無審査を旨とする「ニューヨーク・アンデパンダン展」に匿名でこの作品を出品したが展示拒否されたため、抗議文を新聞に発表、展示委員を辞任している(デュシャンも「ニューヨーク・アンデパンダン展」の展示委員だった)。委員辞任までがデュシャンの「作品」(パフォーマンス、コンセプチャル・アート)とも考えられる。「泉」のモノ自体は、ドイツの女性アーティスト・エルザが作成したとされる。平成16年世界の代表的芸術家500人にアンケートした結果、「インパクトのある現代芸術」の第1位となる ※「パブリックドメインの著作物(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/マルセル・デュシャン(令和2年10月30日更新版)→

 

パリでの辻 潤 パリでの辻 潤

昭和3年1月10日(1928年。 辻 潤(45歳)が渡仏することになり、銀座のカフェ 「ライオン」で送別会が開かれました。 萩原朔太郎(42歳)や間宮茂輔(28歳)も参加したようです。

そこに、突然、 「ダダをに盗られた」 「を刺す」 といって高橋新吉(26歳)が乱入してきたとか。 はあわてて 「高橋こそが日本でのダダの提唱者である」 とスピーチして高橋をなだめたようです。この点について、は次のように書いています。

・・・日本で、ダダイストだとう名のりを揚げたのは僕が一番最初だが、その前に「俺はダダ派の詩人だ」と云つて僕に自己紹介した若い詩人に高橋新吉と云ふ男がゐる。・・・(辻潤「ダダの話」より)

ダダイストでも、「誰が最初」だとか、そんなことにこだわるのですね。

銀座五丁目の「ライオン」。現在「ライオン」は銀座に数店舗あるが、辻の時代の「ライオン」はこの五丁目店近くにあった 銀座五丁目の「ライオン」。現在「ライオン」は銀座に数店舗あるが、の時代の「ライオン」はこの五丁目店近くにあった

ところで、ダダイストが信奉するダダ(ダダイズム)とは何なんでしょう?

大正3年に勃発した第一次世界大戦(終結は大正7年。足掛け5年)は、1,700万人以上の死者・行方不明者を出しこの世の終わり的な大惨事となりますが、その非人間的行為(戦争)を、「芸術」は食い止め得なかった。「芸術」の無力を痛感し、「芸術」に不信感を持ったヨーロッパ・米国を中心とする若き芸術家たちが、世界的な規模で、“「反芸術」を標榜する芸術運動”を同時多発的に展開したのです。それがダダ。「政治」はもちろんのこと、「常識」も、「学問」も、「宗教」も、大戦を止め得なかったわけで、彼らはそれらに対しても当然懐疑的だったでしょう。第一次世界大戦中の大正5年頃、スイスのチューリッヒの酒場「キャバレー・ヴォルテール」がその発祥地とされ、「ダダ」というネーミングからして、辞書を開いてたまたまあった言葉を採用、これも理性(理詰め)に対する不信の表明でしょう。

日本でのダダの初出は、大正9年の6月、「萬朝報」においてで、同年8月15日には同紙に 「ダダイズム一面観」 という記事も掲載されました。高橋(当時19歳)はこの8月15日の記事に触発されたそうです。同紙は同年、「享楽主義の最新芸術 ~戦後に歓迎されつつあるダダイズム~」という本格的な記事も掲載。ただし、これら3本の記事はどれもダダに対して批判的だったようです。

すでにダダイストを自認していた高橋(20歳)が、川崎(神奈川県)にいた(37歳)を訪ねてダダの話をしたのが翌大正10年11月頃。その後がダダイストと名のるようになります。 高橋としては、自分の方が先なのに、が日本の代表的ダダイストのように言われるで腹が立ったのでしょう。(38歳)もそれを察してか、「ライオン」での送別会(昭和3年)の5年前の大正12年、高橋(22歳)を盛り立てるべく、高橋の詩集 『ダダイスト新吉の詩』 を編纂します。が、故郷の愛媛県八幡浜の留置場にいた高橋は、その本が誤植だらけなのに腹を立て、その場でその詩集を破り捨てたとか。そこには次のような詩がありました。

『(皿)』 

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
倦怠けんたい
額に蚯蚓みみず這う情熱
白米色のエプロンで
皿を拭くな
鼻の巣の白い女
此処ここにも諧謔かいぎゃくすぶっている
人生を水に溶かせ
冷めたシチューの鍋に
退屈が浮く
皿を割れ
皿を割れば
倦怠の響が出る

中原中也

『ダダイスト新吉の詩』 はその著者の手で破り捨てられましたが、面白いことに、16歳の中原中也に多大な影響を与えることとなります。「ライオン」での送別会(昭和3年)の前年(昭和2年)、中也(20歳)の訪問を受けた(42歳)は、中也高橋(26歳)に会うよう勧めています。中也高橋に会ったでしょうか?

こうやってダダ精神は中也に引き継がれますが、かたや高橋は「ライオン」乱入直後、郷里で禅に出会い、詩にも変化が現れてきます。ダダの「否定性」の先に仏教の「無」が見えてきたのかもしれませんし、と張り合うのがバカらしくなったのかもしれません。

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ダダの影響を受けた人、今もその精神を支柱にしている人は限りなくいるでしょうが、上に挙げた人たちのほかに、吉行エイスケ(吉行あぐりの夫。吉行淳之介・吉行和子さん・吉行理恵の父)、村山知義、尾形亀之助、壺井繁治、岡本 潤、小野十三郎、北園克衛坂口安吾宮沢賢治稲垣足穂、ハイレッド・センター(高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之(当地(東京都大田区)の弁天池近くに住んでいた))らが何らかの形で影響されたようです。

ダダを芸術史に位置づけると、未来派の一部から派生し、その後、大部分はシュールレアリズムに合流、一部はポップアートやアバンギャルドに派生したという感じでしょうか。

ダダの源流にある未来派は、明治42年(1909年)、イタリアの詩人マリネッティの「未来派宣言」に端を発し、機械化する社会を賛美。“スピード”や“力”を表現しようとしました。それまでの芸術観とは全く異なり(それを否定し)、ダダに連なるものをはらんでいました。ただし、未来派の“力”を崇拝する側面は、後にファシズムに利用されます。

稲垣足穂はダダというより未来派でしょうか。大正10年に開催された「第一回未来派美術展」では「月の散文詩」という絵画(?)を出品しています。飛行機への強い憧れをもった足穂は、未来派が提唱する“機械礼賛”に共感するところ大だったんだろうと思います。人の息づかいを消し去った無機質なものに美を感じる感性は、現在の電子音楽やデジタルアートにも通じるかもしれません。

高橋新吉 『ダダイスト新吉の詩 (愛蔵版詩集シリーズ)』(日本図書センター) 玉川信明 『放浪のダダイスト辻潤 ~俺は真性唯一者である~ (日本アウトロー烈傳) 』(社会評論社)
高橋新吉『ダダイスト新吉の詩 (愛蔵版詩集シリーズ)』(日本図書センター) 玉川信明『放浪のダダイスト辻 潤 ~俺は真性唯一者である~ (日本アウトロー烈傳) 』(社会評論社)
マルク・ダシー 『ダダ ~前衛芸術(アヴァンギャルド)の誕生~ (「知の再発見」双書) 』(創元社) マシュー・ゲール 『ダダとシュルレアリスム (岩波 世界の美術) 』。翻訳:巌谷国士(いわや・くにお)
マルク・ダシー『ダダ ~前衛芸術(アヴァンギャルド)の誕生~ (「知の再発見」双書) 』(創元社) マシュー・ゲール『ダダとシュルレアリスム (岩波 世界の美術) 』。翻訳: 巌谷国士 いわや・くにお

■ 馬込文学マラソン:
辻 潤の『絶望の書』を読む→
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→
間宮茂輔の『あらがね』を読む→
『北園克衛詩集』を読む→
稲垣足穂の『一千一秒物語』を読む→

■ 参考文献:
● 『六頭目の馬 ~間宮茂輔の生涯』(間宮 武 武蔵野書房 平成6年発行) P.143 ● 『中原中也(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行) P.38-39、P.105 ● 『ですぺら』(辻 潤 近代社 昭和29年発行)P.19-20 ※「ダダの話」

■ 参考サイト:
サッポロライオン/100年の歩み→ ●ウィキペディア/・マルセル・デュシャン(令和2年10月30日更新版)→ ・泉(デュシャン)(令和2年6月29日更新版)→ ・ダダイスム(平成27年10月21日更新版)→ ・高橋新吉(平成22年8月26日更新版)→ ・第一次世界大戦(平成30年12月31日更新版)→ ・未来派(平成27年10月21日更新版)→ ・稲垣足穂(平成27年6月23日更新版)→ ●北海道大学学術成果コレクション「HUSCAP」/<資料>日本のダダイズム(1920-1922)神谷忠孝(PDF)→

※当ページの最終修正年月日
2022.1.10

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