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萩原朔太郎の『月に吠える』を読む(昇華する悲しみ) - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛する人にたどり着けないような、かけがえのないものを失ったような、ただ漠然とした、病的なまでに怯えるような・・・、この 『月に吠える』には、そんな哀しみや不安が詰まっている。

「殺人事件」という一編はこうだ。

殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃はりの衣装をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、

床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體したいのうえで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつけ上旬はじめのある朝、
探偵は玻璃の衣装をきて、
街の十字巷路よつつぢを曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者はいつさんにすべつてゆく。

「私の探偵」とあるが、おそらく私が探偵なのだろう。

解せないのは、その探偵が、玻璃(ガラス)の衣装を身にまとっていること。透明人間のようになっているのだろう。しかし、なぜ、探偵だというのに窓からしのびこまなくてはならないのだろう? これではまるでこちらが「曲者」だ。

「女の死体」は指の間から血を流し、その上でキリギリスさえ鳴いている。この血肉ある恋人と、透明な探偵・・・。探偵は、はなから、「こひびと」には辿り着けそうにない。

この永遠に交わらないだろう二人が、晶玉(水晶の玉)の床、青い血、秋の噴水、寂しい大理石の歩道といった清潔で透明感のある舞台に置かれて、ある。まるで、ポール・デルヴォーの絵画のように。時は静かに刻まれ、哀しみは美へと昇華する。

それにしても、最終行の大理石の歩道を滑ってゆく「曲者」は何者だ!?


『月に吠える』について

萩原朔太郎 『月に吠える(復刻版)』。絵:田中恭吉、恩地孝四郎)。画文集的な本なので、これで味わいたい。カバー絵の「夜の花」は田中の作品

大正6年、感情詩社と白日社から出版された萩原朔太郎(30歳)の第一詩集。大正3年後半から大正4年前半までの約1年間に集中的に書かれた詩が多く掲載されている。集中の「愛隣あいれん 」と「戀を戀する人」を当局が問題視したため、その2編を除いて出版し直された

装丁と挿画を依頼していた田中恭吉が病没、後を恩地孝四郎が継いだ。朔太郎はこの詩集を 「三人の芸術的共同事業」と考えた。

『月に吠える』は詩壇に衝撃を与え、朔太郎を一気に有名にした。朔太郎はこの詩集で、自らのスタイル(方向性)を見出す。

宮沢賢治などがこの詩集の影響を受けた。

■ 「月に吠える」評
・ 「詩を歌うような韻律から解放すると同時に、詩を意味の説明からも解放する方向をはじめて確立した」(伊藤 整)


萩原朔太郎について

萩原朔太郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:ウィキペディア/萩原朔太郎(平成30年1月5日更新版)→
萩原朔太郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム』

学業における挫折をバネに
明治19年11月1日(1886年)、群馬県前橋で生まれる。 1日(朔日)生まれの長男なので、朔太郎と名づけられた。 父親は東京大学医学部を主席で卒業した秀才で、前橋で医院をやっていた。

明治25年(6歳)、萩原家の書生として同居していた従兄弟の萩原栄次の影響で文学に興味を持つ(上掲の『月に吠える』は栄次に捧げられている)。明治35年(16歳)、前橋中学校交友会誌に短歌を発表。以後、大正2年(27歳)まで、「明星」「スバル」などに歌を発表した。

学業は、中学は5年進級時に落第、第五高等学校(熊本)は2年に進級できず、第六高等学校(岡山)に入り直すが2年になれないまま退学、慶応義塾大学に入るが退学、京都大学を受けるが不合格で早稲田大学を目指すが受験手続きが遅れてダメになる。その時点で朔太郎はもう27歳だ。学業における挫折が彼を文学へ進ませた。ニーチェ、エドガー・アラン・ポー、ドストエフスキー、ボードレール、ゲーテなどヨーロッパ・ロシアの文学書や哲学書を耽読する。

最初の詩集でブレイク
大正2年(27歳)、「朱欒」に「みちゆき」など5編の詩が掲載され、詩壇に登場。同じ号に詩が掲載された室生犀星(朔太郎の3つ年下)に手紙を書き、終生の友となる。

詩を書かない(書けない?)で音楽の研究やマンドリンクラブの設立に夢中になる時期をへて、大正5年(30歳)、突如として詩的インスピレーションが湧き上がり(朔太郎はその時の感覚を“神を見る”と表現した)、犀星と詩誌 「感情」を創刊する。翌大正6年(31歳)には、第一詩集 『月に吠える』を発行。その新しい感覚を与謝野晶子や岩野泡鳴らから絶賛され、一躍詩壇の寵児になる。

大正12年(37歳)、第二詩集『青猫』Amazon→を発行。詩界において不動の評価を得た。

大正14年(39歳)郷里の前橋を出て、大井町(東京都品川区)、田端(東京都北区)、鎌倉をへて、翌大正15年の11月(40歳)より当地(東京都大田区南馬込三丁目20-7 Map→)に住まう。

萩原朔太郎邸前の坂
坂を愛した朔太郎。馬込の彼の家の前も緩やかな坂道になっていた

当地では、ダンスに熱中したり、それが元で妻と不和になったり、次女の明子が大病を患ったり、と平穏でなかったが(昭和4年離婚し2人の子どもを連れて前橋に帰る)、仕事上は、大正7年(33歳)から書きためた詩論をまとめた 『詩の原理』NDL→を発行したり(昭和3年、43歳)、後期を代表する詩集『氷島』NDL→に収録される作品群を書いたりと充実していた。

昭和13年(52歳)に再婚するが上手くいかなかった。詩人としては不動の地位を得た朔太郎だったが、安定した家庭は築きえなかった。

昭和17(1942)年5月11日、肺炎により死去。 満55才だった。 墓所は前橋の政淳寺( ※萩原朔太郎忌<5/11>まで、あと5日です )。

長女は作家の萩原葉子葉子の子は映像作家の萩原朔美(元多摩美術大学教授。前橋文学館特別館長)。

萩原朔太郎
・ 「被害妄想狂患者」 」(仲間の陰口 ※日本の文壇と文化をいつも嘆いていたから)
・「詩を作ること久しくして、ますます詩に自信をもち得ない。私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない」(自評。『青猫』の序文より)
・「・・・常識性、さういふところが萩原さんにおいて最初に現はれた日本の現代詩の大きな特徴であらう」(三好達治

馬込文学圏「萩原朔太郎関係地図」→

『萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)』。編纂:三好達治 『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』
萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)』。編纂:三好達治 萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』

参考文献

● 『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.7-9、P.36、P.88-91 ●『生誕125年 萩原朔太郎展(図録)』(世田谷文学館 平成23年発行)P.18-24 ●『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.57-80 ●「萩原朔太郎」(伊藤 整)※「新潮 日本文学小辞典」(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷)に収録 ●『馬込文士村の作家たち』(野村 裕 昭和59年発行)P.138-146 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編集・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.52-55  ●『月に吠える(角川文庫)』(昭和38年発行) ※解説:伊藤信吉 P.185-195 ●『測量船(講談社文芸文庫)』(三好達治 平成8年発行)P.218 ●『父・萩原朔太郎(中公文庫)』(萩原葉子 昭和54年初版発行 昭和61年発行7刷)P.251-258 ●『黒髪の書』(室生犀星 新潮社 昭和30年発行)P.173-187 ●「萩原朔太郎『宿命』再考」(山田兼士)※「現代詩手帳(平成23年10月号)」(思潮社)収録

※当ページの最終修正年月日
2025.4.22

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