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萩原朔太郎の『月に吠える』を読む(昇華する悲しみ) - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛する人にたどり着けないような、かけがえのないものを失ったような、ただただ漠然とした、病的なまでに怯えるような・・・、この 『月に吠える』 には、そんな哀しみがいっぱいだ。

「殺人事件」 という一編がある。

殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、

床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體のうえで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつけ上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣装をきて、
街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者はいつさんにすべつてゆく。

「私の探偵」 は、「こひびと」 にたどり着けない。 ただ哀しみに沈んでいくだけなのだ。

しかし、その舞台は透明感あふれ、時は静かに刻まれ、哀しみは美へと昇華されているようでもあった。


『月に吠える』 について

萩原朔太郎 『月に吠える(復刻版)』。絵:田中恭吉、恩地孝四郎)。画文集的な本なので、これで味わいたい。カバー絵の「夜の花」は田中の作品*
萩原朔太郎 『月に吠える(復刻版)』。絵:田中恭吉、恩地孝四郎)。画文集的な本なので、これで味わいたい。カバー絵の「夜の花」は田中の作品

大正6年、感情詩社と白日社から出版された萩原朔太郎(30歳)の第一詩集。 大正3年後半から大正4年前半までの約1年間に集中的に書かれた詩が多く掲載されている。発売直前に「愛隣」 と 「戀を戀する人」2編は当局により削除された。 朔太郎が7歳のときから萩原家の書生で、朔太郎に文学的な影響を与えた8歳年上の従兄弟・萩原栄次に捧げられている。

数年前から装丁と挿絵を田中恭吉に依頼していたが、田中が大正4年に病没。 後を恩地孝四郎が継いだ。 朔太郎は 『月に吠える』 を 「三人の芸術的共同事業」 と考えた。 田中が提起した 「病的な明るさ」 というコンセプトは、朔太郎の詩にも影響したと思われる。

『月に吠える』 は読者に衝撃を与え、朔太郎を一気に有名にした。 宮沢賢治などがこの詩集から大きな影響を受けた。

多くの出版社がさまざまな版で『月に吠える』を出している。

内田康夫の推理小説 『「萩原朔太郎」 の亡霊』 では、 『月に吠える』 の中の詩のイメージそのままの3つの殺人事件が起きる。


萩原朔太郎について

萩原朔太郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:ウィキペディア/萩原朔太郎(平成30年1月5日更新版)→*
萩原朔太郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:ウィキペディア/萩原朔太郎(平成30年1月5日更新版)→

学業における挫折をバネにして
明治19(1986)年11月1日、群馬県前橋で生まれる。 1日(朔日)生まれの長男なので、朔太郎と名づけられた。 父親は東京大学医学部を主席で卒業した秀才で、前橋で医院をやっていた。

明治25年(6歳)、萩原家の書生として同居した従兄弟の萩原栄次の影響で文学に興味を持つ。 明治35年(16歳)、前橋中学校交友会誌に短歌を発表。 以後、大正2年(27歳)まで、「明星」「スバル」などに歌を発表し続けた。

学業は、中学は5年進級時に落第、第五高等学校(熊本)は2年に進級できず、第六高等学校(岡山)に入り直すが2年になれないまま退学、慶応義塾大学に入るが退学、京都大学を受けるが不合格で早稲田大学を目指すが受験手続きが遅れてダメになる。 と、その時点で朔太郎はもう27歳である。 学業における挫折がバネになり、文学に進む覚悟が定まる。ニーチェ、エドガー・アラン・ポー、ドストエフスキー、ボードレール、ゲーテなどヨーロッパ・ロシアの文学書や哲学書を耽読した。

最初の詩集でブレイク
大正2年(27歳)、「朱欒」 に 「みちゆき」 など5編の詩が掲載され、詩壇に登場。 同じ号に掲載された室生犀星朔太郎の3つ年下)に手紙を書き、終生の友となる。 2人は 「白秋門下の三羽がらす」 と呼ばれる(もう一人は大手拓次)。 大正3年(28歳)、犀星山村暮鳥を加え人魚詩社を創設、「卓上噴水」 を創刊した。

10ヶ月間、詩を書かないで音楽の研究やマンドリンクラブの設立に夢中になる時期をへて、大正5年(30歳)、突如として詩的インスピレーションが湧き上がり(朔太郎はその時の感覚を“神を見る”と表現した)、犀星と詩誌 「感情」 を創刊。 翌大正6年(31歳)、第一詩集 『月に吠える』 を発行。 その新しい感覚に与謝野晶子岩野泡鳴らからの絶賛が集まり、この一冊で一躍詩壇の寵児になる。

大正12年(37歳)、『青猫』 を発行。昭和8年(48歳)、個人雑誌 「生理」 を創刊した。 時代の流れからかこの頃から日本回帰し、昭和12年(51歳)には、保田与重郎らの 「日本浪漫派」 の同人になった。

昭和13年(52歳)、詩人の大谷忠一郎の妹・美津子に惚れて結婚するが、翌年、彼女は家出し、戻らなかったようだ。詩人として尊敬された朔太郎だったが、生涯家庭的な幸福には恵まれなかった。朔太郎は美津子と別れたあと3年ほどしか生きないが、室生犀星の『黒髪の書』によると、その間にも一人の女性と付き合い、彼女を看取っている。

昭和17(1942)年5月11日、肺炎により死去。 満55才だった。 墓所は前橋の政淳寺( )。

長女は作家の萩原葉子葉子の子は映像作家の萩原朔美氏(多摩美術大学教授)。

萩原朔太郎
・ 「被害妄想狂患者」 」(仲間からの陰口 ※日本の文壇と文化をいつも嘆いていた)

新潮日本文学アルバム『萩原朔太郎』
新潮日本文学アルバム『萩原朔太郎

萩原朔太郎と馬込文学圏

大正14年(39歳)、前橋を出て大井町(東京都品川区)、田端(東京都北区)、鎌倉、と転々とした後、大正15年11月(40才)、馬込文学圏(南馬込三丁目)入りする。

大正2年(27歳)、「朱欒」 の主宰者北原白秋(28歳)に師事。大正4年(28歳)、白秋(30歳)を郷里の前橋に招いて歓待した。昭和2年3月から馬込文学圏(現・東馬込二丁目)に白秋(42歳)が住むようになり喜ぶ。

馬込文学圏時代は、ダンスに熱中したり、妻と不和になったり、次女の明子が大病を患ったり、と平穏でなかった。 仕事上は、大正7年(33歳)から書きためた詩論を 『詩の原理』 という形で発行したり(昭和3年 43歳)、後期を代表する詩集 『氷島』 に所収される作品を書いたりしている。 昭和4年(43才)、妻の稲子がダンス仲間と出奔したのを期に、二人の娘(葉子・明子)を伴って前橋の実家に帰り、約3年間の馬込文学圏住まいにピリオドを打った。

当初朔太郎夫妻は馬込文学圏が気に入り、2人は親友の犀星の家を当地に探す。 犀星が馬込文学圏に来てからは頻繁に行き来する。

朔太郎を慕って馬込文学圏入りした三好達治は毎日のように萩原家を訪れ、朔太郎の妹のアイや、朔太郎の子の葉子とも親しくなった。三好と萩原アイは昭和19年に結婚するが、8ヶ月ほどで離別。 その8ヶ月間の修羅場を、朔太郎の子の萩原葉子は小説 『天上の花』 に書いている。

芥川龍之介朔太郎を訪ねて当地を訪れた。その時のことを室生犀星が『青い猿』に書いている。

昭和4年7月、妻に逃げられて二人の娘を連れていったん郷里の前橋に戻るが、11月には単身で上京、東京赤坂のアパート 「乃木坂クラブ」 に住み始めた。辻潤と交流があったのはその頃か。その頃、と雑誌 「ニヒル」を創刊、3号まで出している(「QPの辻潤研究」)

馬込文学圏 「萩原朔太郎関係地図」→

萩原朔太郎邸前の坂
坂を愛した朔太郎。馬込の彼の家の前も緩やかな坂道になっていた

参考文献

● 『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』 (昭和59年2刷参照) P.7-9、P.36、P.88-91 ●『生誕125年 萩原朔太郎展 図録』(世田谷文学館 平成23年) P.18-24 ●『馬込文学地図(文壇資料 )』 (近藤富枝 講談社 昭和51年) P.57-80 ● 『馬込文士村の作家たち』 (野村裕 昭和59年) P.138-146 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年) P.52-55  ● 『月に吠える(角川文庫)』(昭和38年) ※解説(伊藤信吉) P.185-195   ● 『測量船(講談社文芸文庫)』 (三好達治 平成8年) P.218 ●『父・萩原朔太郎(中公文庫)』(萩原葉子 昭和54年初版発行 昭和61年7刷参照)P.251-258 ● 『黒髪の書』(室生犀星 新潮社 昭和30年発行)P.173-187 ●「萩原朔太郎『宿命』再考」(山田兼士)※「現代詩手帳」(平成23年10月号 思潮社)所収 


参考サイト

QPの辻潤研究/年譜→  ●ドストエフ好きーのページ/ドスト氏の、後世への影響/ドストエフスキーからの影響や言及がみられる近現代日本の文学者・思想家・芸術家→


※当ページの最終修正年月日
2018.1.25

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