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愛する人にたどり着けないような、かけがえのないものを失ったような、ただただ漠然とした、病的なまでに怯えるような・・・、この 『月に吠える』 には、そんな哀しみがいっぱいだ。 「殺人事件」 という一編がある。 殺人事件 とほい空でぴすとるが鳴る。 床は晶玉、 しもつけ上旬(はじめ)のある朝、 みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、 「私の探偵」 は、「こひびと」 にたどり着けない。 ただ哀しみに沈んでいくだけなのだ。 しかし、その舞台は透明感あふれ、時は静かに刻まれ、哀しみは美へと昇華されているようでもあった。 『月に吠える』 について
大正6年、感情詩社と白日社から出版された萩原朔太郎(30歳)の第一詩集。 大正3年後半から大正4年前半までの約1年間に集中的に書かれた詩が多く掲載されている。発売直前に「愛隣」 と 「戀を戀する人」2編は当局により削除された。 朔太郎が7歳のときから萩原家の書生で、朔太郎に文学的な影響を与えた8歳年上の従兄弟・萩原栄次に捧げられている。 数年前から装丁と挿絵を田中恭吉に依頼していたが、田中が大正4年に病没。 後を恩地孝四郎が継いだ。 朔太郎は 『月に吠える』 を 「三人の芸術的共同事業」 と考えた。 田中が提起した 「病的な明るさ」 というコンセプトは、朔太郎の詩にも影響したと思われる。 『月に吠える』 は読者に衝撃を与え、朔太郎を一気に有名にした。 宮沢賢治などがこの詩集から大きな影響を受けた。 多くの出版社がさまざまな版で『月に吠える』を出している。 内田康夫の推理小説 『「萩原朔太郎」 の亡霊』 では、 『月に吠える』 の中の詩のイメージそのままの3つの殺人事件が起きる。 萩原朔太郎について
学業における挫折をバネにして 明治25年(6歳)、萩原家の書生として同居した従兄弟の萩原栄次の影響で文学に興味を持つ。 明治35年(16歳)、前橋中学校交友会誌に短歌を発表。 以後、大正2年(27歳)まで、「明星」「スバル」などに歌を発表し続けた。 学業は、中学は5年進級時に落第、第五高等学校(熊本)は2年に進級できず、第六高等学校(岡山)に入り直すが2年になれないまま退学、慶応義塾大学に入るが退学、京都大学を受けるが不合格で早稲田大学を目指すが受験手続きが遅れてダメになる。 と、その時点で朔太郎はもう27歳である。 学業における挫折がバネになり、文学に進む覚悟が定まる。ニーチェ、エドガー・アラン・ポー、ドストエフスキー、ボードレール、ゲーテなどヨーロッパ・ロシアの文学書や哲学書を耽読した。 最初の詩集でブレイク 10ヶ月間、詩を書かないで音楽の研究やマンドリンクラブの設立に夢中になる時期をへて、大正5年(30歳)、突如として詩的インスピレーションが湧き上がり(朔太郎はその時の感覚を“神を見る”と表現した)、犀星と詩誌 「感情」 を創刊。 翌大正6年(31歳)、第一詩集 『月に吠える』 を発行。 その新しい感覚に与謝野晶子や岩野泡鳴らからの絶賛が集まり、この一冊で一躍詩壇の寵児になる。 大正12年(37歳)、『青猫』 を発行。昭和8年(48歳)、個人雑誌 「生理」 を創刊した。 時代の流れからかこの頃から日本回帰し、昭和12年(51歳)には、保田与重郎らの 「日本浪漫派」 の同人になった。 昭和13年(52歳)、詩人の大谷忠一郎の妹・美津子に惚れて結婚するが、翌年、彼女は家出し、戻らなかったようだ。詩人として尊敬された朔太郎だったが、生涯家庭的な幸福には恵まれなかった。朔太郎は美津子と別れたあと3年ほどしか生きないが、室生犀星の『黒髪の書』によると、その間にも一人の女性と付き合い、彼女を看取っている。 昭和17(1942)年5月11日、肺炎により死去。 満55才だった。 墓所は前橋の政淳寺( )。 長女は作家の萩原葉子、葉子の子は映像作家の萩原朔美氏(多摩美術大学教授)。 ■ 萩原朔太郎評
萩原朔太郎と馬込文学圏大正14年(39歳)郷里の前橋を出て、大井町(東京都品川区)、田端(東京都北区)、鎌倉をへて、翌大正15年の11月(40歳)より当地(東京都大田区南馬込三丁目20-7 map→)に住まう。 当地では、ダンスに熱中したり、それが元で妻と不和になったり、次女の明子が大病を患ったり、と平穏でなかったが(昭和4年離婚し2人の子どもを連れて前橋に帰る)、仕事上は、大正7年(33歳)から書きためた詩論をまとめた 『詩の原理』を発行したり(昭和3年、43歳)、後期を代表する詩集 『氷島』 に収録される作品群を書いたりしている。 朔太郎のすすめで当地に住まうようになった室生犀星とは、頻繁に行き来した。朔太郎との関係で、三好達治、芥川龍之介、北原白秋も当地を訪れたり、一時的に住んだりしている。
参考文献● 『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』 (昭和59年2刷参照) P.7-9、P.36、P.88-91 ●『生誕125年 萩原朔太郎展 図録』(世田谷文学館 平成23年) P.18-24 ●『馬込文学地図(文壇資料 )』(近藤富枝 講談社 昭和51年)P.57-80 ●『馬込文士村の作家たち』(野村 裕 昭和59年)P.138-146 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編集・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.52-55 ●『月に吠える(角川文庫)』(昭和38年) ※解説(伊藤信吉)P.185-195 ●『測量船(講談社文芸文庫)』(三好達治 平成8年)P.218 ●『父・萩原朔太郎(中公文庫)』(萩原葉子 昭和54年初版発行 昭和61年7刷参照)P.251-258 ●『黒髪の書』(室生犀星 新潮社 昭和30年発行)P.173-187 ●「萩原朔太郎『宿命』再考」(山田兼士)※「現代詩手帳」(平成23年10月号 思潮社)収録 参考サイト●QPの辻潤研究/年譜→ ●ドストエフ好きーのページ/ドスト氏の、後世への影響/ドストエフスキーからの影響や言及がみられる近現代日本の文学者・思想家・芸術家→ ※当ページの最終修正年月日 |