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大正3年2月14日(1914年。 萩原朔太郎(27歳)と室生犀星(24歳)が初めて顔を合わせています。場所は「前橋駅」(群馬県前橋市表町二丁目367-1 Map→)の駅前。 二人は前年(大正2年)から文通はしていました。朔太郎が「 文通で、二人は、相手の姿を理想的に思い描いたようです。が、現実は大違いで、犀星に初めて会った朔太郎は驚きました。詩から想像した姿とあまりに違っていたからです。そのときのことを朔太郎は次のように書いています。 ・・・僕のイメーヂの室生君は、非常に繊細な神経をもつた青白い魚のやうな美少年の姿であつた。 ・・・余りにハイカラな と。二人は大親友といえば大親友なのでしょうが、最初からこんな調子です。 徳富蘇峰と吉屋信子の出会いは、大正11年、当地の大森駅(東京都大田区大森北一丁目6-16 Map→)においてでした。雑誌に載った写真か何かで吉屋の顔を知っていたのか、蘇峰が吉屋を見つけ、 「フルヤノブコサンデハアリマセンカ」 と声をかけると、吉屋が、 「フルヤデハアリマセン、ヨシヤトモウシマス」 と、ムキになって訂正したのがおかしくて、蘇峰は大笑い、吉屋も“有名な徳富蘇峰”であることが分かり、話がはずみます。新橋までの電車の中で話がまとまって、吉屋はその足で、蘇峰が主宰する国民新聞社に案内されています。蘇峰が59歳、吉屋が26歳のときです。 山川 均と山川菊栄の出会いは、なんと留置場の前です。前年(大正5年)2月、社会主義の講演会の後、二人とも検束され、留置場の前に並ばされた時、初めて言葉を交わしたといいます。均35歳、菊栄25歳の時です。“治安維持法もどき”ができると、こんな出会いが期待できますね・・・ 宇野千代と尾﨑士郎の出会いは、中央公論社の編集室(本郷三丁目交差点(東京メトロ「本郷三丁目駅」(東京都文京区本郷二丁目39-1 Map→)近くにあった)においてでした。大正11年4月15日、宇野(24歳)が、中央公論社の編集長・滝田
・・・眼をあげた瞬間に、男の眼が、一種言い難い微笑を浮かべたまま、「ぼ、ぼくが、そ、その、二等賞の尾﨑士郎です」と言ったときの、その、おどけたような
堀 辰雄の小説『風立ちぬ』で知られるように、堀のかつての婚約者・矢野綾子は結核で亡くなります(昭和10年)。堀はその3年半後(昭和13年)、 加藤多恵子という女性と結婚しました。『風立ちぬ』のロマンスのイメージからすると「な〜んだ」ですが、 実は、多恵子を堀に紹介したのが、綾子の父親の透と、綾子の妹の良子で、二人が堀と多恵子とが結ばれるように奔走したようなのです。 堀も綾子と同じ病いにおかされていましたが、多恵子は堀の元にやってきました。 衣巻省三と光子夫人の出会いは、帝国劇場のダンス会場においてでした。夫人の下駄の鼻緒が切れ、衣巻が直したのがきっかけで、急接近したようです。夫人にはすでに夫がいたようなのですが、衣巻が“奪った”のでしょうか? その後、当地(東京都大田区南馬込)に越してきた二人が、当地にダンスブームをもたらします。 山本周五郎は最初から、場所と時間を指定して、編集者の今井達夫を呼び出したようです。作家と編集者とでは、大作家は例外として(周五郎は駆け出しだった)、だいたいは編集者が主導権を握るものでしょうが、上下左右を気にしないで誰とも対等に付き合うのが周五郎流。今井も度量が大きいのでしょう。以後も、親しくしています。 ゴッホとゴーギャンは明治21年、アルル(フランス南部。マルセイユの近く Map→)の借家「黄色い家」で共同生活しています。画家たちのコミュニティを作ろうというゴッホの提案に、ゴーギャンが乗ってきたのです。共同生活は2ヶ月間ほどで破綻しますが、刺激を与え合ったのか、その間、共に驚異的な数の作品を残しています(ゴッホが37点、ゴーギャンが21点 !?)。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |