大正6年11月7日(1917年。
山川 均(36歳)・菊栄(27歳)夫妻が当地(春日
神社(東京都大田区中央一丁目14-1 Map→)裏)に越してきました。
越してきた日のことを、菊栄が次のように書いています。
・・・母の家から大森春日神社裏の借家へ私の移ったのは十一月七日、一面こがね色に波うつ田んぼのへりには彼岸花が赤く、農家の垣根に乱れ咲く菊の花にいっぱいの日の光のふりそそいでいた小春日和の昼さがりでした。この日はロシアに第二革命の起った当日として、二重に忘れられない日となりました。家はボロながら日当りは申し分なく、低い四つ目垣のそとは蓮池、その先は見渡す限り稲田で、一、二丁先の松林の向うを東海道線の汽車が走っていました。・・・(山川菊栄『おんな二代の記』より)
2人は、前年(大正5年)、大杉 栄が開催した講演会の後共に検束され、保護室の前で初めて声を交わしました。9ヶ月後に結婚しますが、直後に菊栄が結核になります。しかも、発病直後に菊栄の妊娠が分かり、子どもも母体もあぶなくなりました。それを何とか切り抜けて、長男(振作)を出産。 3人で最初に住んだのがこの春日神社裏でした。
お手伝いさんも連れていきましたが、3人が来る前にすでに家には村木源次郎(27歳)がおり、風呂の水を汲んだり、鰹節を削ったり、小脇に赤ん坊(振作)を抱えながら、口笛で革命歌をやりながら楽しそうに立ち働き、村木が帰ったあとも、売文社の栗原光三がしばらく住み込みで手伝いました。
山川も何でもやる人で、ガタガタのガラス戸をピタリと直し、庭にはたちまち花壇ができました。彼らや彼らの周りは女性の権利を尊重する人がほとんどだったので、男性だって裁縫の針を普通に持ちました。
人の出入りが多いのは、山川夫妻が多くの人から慕われていたこともありますが、翌大正7年、山川が、荒畑寒村と、労働組合研究会を作り、労働組合の必要を説く冊子「青服」を発行し始めたことも大きいでしょう(毎号発禁となり4号で廃刊。各地で頻発していた米騒動を煽動しているとして山川は4ヶ月間下獄。4度目の下獄か)。
この家には、大杉 栄・伊藤野枝が長女のマコを連れて正月の手伝いに来たり(菊栄の体調は十分でなかった)、山口
小静
、永倉てる(後の林 てる)貝原たい、など向学心のある女子大生、「高井戸の聖者」と呼ばれた法学士・
江渡狄嶺
なども出入りし、後に広島大学の初代学長になる経済学者の森戸辰男が訪ねて来たこともありました。
大正10年、手狭になり、近く(光教寺(東京都大田区中央四丁目35-3 Map→)が建つあたり)に広大な家を新築、「村の小学校」のようだったそうです。ここには、徳永 直も1ヶ月ほど居候しています。
この頃、山川は、仲間内で「大森」と呼ばれました(当地には関東大震災で家が倒壊するまで住んだ)。
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長谷 健 |
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長谷 健(45歳)は、戦中は郷里の福岡(柳川)に疎開していましたが、昭和24年再上京、火野葦平(42歳)と共に、当地(東京都大田区池上六丁目29(Map→)あたり)に住みました。1階に長谷の一家が住み、九州と東京を行き来していた火野が上京の度に2階に起居します。火野も福岡県(若松)出身で、2人は年齢も近く、2人とも芥川賞作家(火野は昭和13年『糞尿譚』で受賞、長谷は翌昭和14年『あさくさの子供』(日本の古本屋→)で受賞)と、何かと共通点があります。火野は4年後(昭和28年)に東京都杉並区阿佐ヶ谷に越し、長谷は8年後(昭和32年)に東京都調布市に越します。当地で一緒に暮らした頃、2人は当地に様々な武勇伝やら酔虎伝やらを残したとのこと。
当地にいた頃の火野は、当初、執筆制限中でしたが、相変わらず人気があり、『天皇組合』『悲しき兵隊』、清水
崑
の挿絵入りの『河童』など書きまくっています。昭和25年、執筆制限が解除されますが、父を病で失い、「毎日新聞」に連載した『赤道祭』で柿右衛門焼を名乗る一方を「ニセ柿」と書いたかどで訴えられ7年もの裁判闘争をするはめにもなりました。当地の家は、ちょっとした身の隠しどころだったのかもしれません。
長谷も当地で、北原白秋三部作の執筆を進めました。
阿部和重・川上未映子
夫妻も共に芥川賞作家ですね。長谷と火野同様、受賞後の同居です。
小池真理子と藤田宜永
は、共に直木賞作家ですが、同居当初はまだ、2人とも賞を取っていませんでした。同居後11年して共に直木賞候補となりますが、翌年(平成8年)受賞したのは小池のみ(『恋』(Amazon→)で受賞)。選考委員もずいぶん残酷なことをしますね(しようがないか・・・)。藤田が受賞するのは5年後の平成13年です(受賞作は『愛の領分』(Amazon→))。小説家の夫婦の、一方が賞を取り、一方が賞からもれる時、2人の間にどういった心理的葛藤が生まれるものでしょう。下の映像は、藤田の受賞時の両者へのインタビューです。
当地(東京都大田区)にゆかりある人物では、尾﨑士郎と宇野千代が、大正12年から昭和4年までのおよそ6年間一緒に暮らしました。やはり、女性(宇野)の方が先に評価されました。
北川千代と江口
渙
も7年間ほど夫婦でしたが、江口から性病を移されたことに衝撃を受けた北川が、江口を拒絶。その後北川は、足尾銅山の坑夫7千人のストライキを指導した高野松太郎と一緒になります。
辻 潤と伊藤野枝の場合は、一緒になった時点では、両者とも物書きではありません(辻はロンブローゾの『天才論』の和訳は始めていたが)。なんせ、辻は上野女学校(現「上野学園(中学校・高等学校)」(東京都台東区東上野四丁目24-12 Map→)の英語教師であり、伊藤はそこの生徒だったのですから。伊藤は辻から貪欲に知識を吸収し急成長しますが、そこに大杉 栄が登場。社会変革を志す人が、よりラジカル(本質的)に行動する人に惹かれるのは致し方ないかもしれません(北川にとっての高野もそうでした)。
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川上未映子『きみは赤ちゃん (文春文庫) 』。なるほど、そんななのか! もちろん「あべちゃん」も登場 |
小池真理子、藤田宜永『夫婦公論 (集英社文庫)』。ライバルであり、戦友でもある2人の本音。解説:山田詠美 |
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ビアンカ・ランブラン『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』(草思社)。訳:阪田由美子。サルトルとボーヴォワール夫婦両者の“愛人”だったという著者の衝撃の書 |
「炎の人ゴッホ 」。ゴッホの劇的な生涯を描いた名作映画。ゴッホをカーク・ダグラス、ゴーギャンをアンソニー・クインが演じる。約2ヶ月間の2人の劇的な共同生活も描かれている |
■ 馬込文学マラソン:
・ 北原白秋の『桐の花』を読む→
・ 宇野千代の『色ざんげ』を読む→
・ 尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
■ 参考文献:
●『おんな二代の記』(山川菊栄 平凡社 昭和47年初版発行 昭和63年発行15刷)P.188-213、P.224、P.231 ●『山川 均自伝』(岩波書店 昭和36年初版発行 昭和45年発行7刷)P.181-185、P.193-194、P.462、P.465-468 ●「徳永 直自筆年譜」※『前田河広一郎 藤森成吉 徳永 直 村山知義集』(筑摩書房 昭和32年発行)に収録 ●「火野葦平自筆年譜」※『火野葦平選集(第八巻)』(東京創元社 昭和34年発行)に収録 ●『文学と教育のかけ橋 〜芥川賞作家・長谷 健の文学と生涯〜』(堤 輝男 文芸社 平成14年発行)P.156-157、P.162-171、P.206-209 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.97-99、P.206-209 ●『ゲテ魚好き』(火野葦平)(青空文庫→) ●「著者自作年譜」(小池真理子)※『贅肉(短篇セレクション6)』(小池真理子 河出書房 平成9年発行)に収録 ●『評伝 尾﨑士郎』(都筑久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.351-353 ●「「芥川賞・直木賞」をどれだけ知っていますか」(東洋経済ONLINE→) ●「北川千代年譜」(編:浜野卓也)※『北川千代 ・ 壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ホルプ出版)に収録
※当ページの最終修正年月日
2024.11.6
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