|
|||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||
|
昭和21年11月3日(1946年。 、「日本国憲法」が公布され、皇居前広場では祝賀の都民大会が催されます。参加した10万もの人は万歳を繰り返し、涙をにじませる人もいました。 式典で昭和天皇(45歳)は、 ・・・国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたのである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。・・・ と述べ、吉田 茂首相(68歳)も、新憲法が国民の総意で制定されたこと、戦争放棄を誇りとすること、それを責任もって遂行していく覚悟とを強調しました。 日本国憲法は以下の経緯で成立しました。
敗戦2ヶ月後の昭和20年10月15日、憲法学者の鈴木安蔵が、天皇主権の旧憲法を改正し、国民主権(民主主義)の憲法にすることを主張、その2週間後(昭和20年10月29日)に社会統計学者の高野岩三郎の提案で「憲法研究会」が結成されました。その事務局を鈴木が担当。 さらに2ヶ月ほどした昭和20年12月26日、同会は、最終案(「憲法草案要綱」)を内閣に届け、記者団にも発表しました。同要綱では「統治権ハ国民ヨリ発ス」とし、天皇主権を否定、高らかと国民主権を打ち出しました。
同会は、英語が堪能な倫理学者の杉森孝次郎をGHQに派遣、同要綱の説明に当たりました。GHQは強い関心を示し、GHQ内の翻訳部がそれを翻訳、GHQ民政局のラウエル中佐(後に新憲法制定の中心となる)が民主主義的であると高く評価しました。「憲法草案要綱」はその後、参謀長や、国務長官にも報告され、「GHQ憲法草案」に大きな影響を与えます。
「GHQ憲法草案」が日本政府に手渡されたのが、翌昭和21年の2月13日。その後、GHQと政府が調整して「憲法政府案」が作られます。 しかし、そこには、現・憲法の第25条にある「健康で文化的な最低限度の生活」の趣旨の文言がありませんでした。「憲法政府案」を審議する委員会(芦田 均が委員長だったため「芦田小委員会」と呼ばれた)で、「憲法研究会」の経済学者・森戸辰男が、上の文言を入れることを重ねて主張、メンバーの鈴木義男も賛同し、挿入されることになりました。 第25条 「芦田小委員会」の委員長・芦田 均は、第9条の2項冒頭に「前項の目的を達するため」の文言を追加(「芦田修正」と呼ばれる)。 第9条 ・・・この修正を加えようと思い立った動機は、自衛の武力を保持するためには、侵略のための戦力を禁止する意味を明らかにすれば 芦田は戦前からのリベラリストですが、戦後直後の軍備全否定の風潮に流されることなく、「自衛のための戦力」を保持できる根拠をさりげなく盛り込んだのです。それなのに、今、「自衛隊は違憲なので憲法改正(実は改悪)すべき」と主張する人は、おそらく、9条で謳われている「平和主義」が気に入らないのでしょう。「威嚇」のための戦力を持って近隣を圧し、または戦力増強のための産業で儲けたい人がほとんどでしょう。 ちなみに、「憲法政府案」になかった「平和」という言葉を盛り込むことを「芦田小委員会」で主張したのは鈴木義男です。 以上見てきたように、日本国憲法は日本人がイニシアティブをとって制定されました。日本を占領したGHQも、当初、部内のGS(民政局)が主導しており、日本の民主化を推進、日本人の主体性を尊重し、新憲法についても日本人の打ち出した方向性を概ね是認したのです。 「憲法はGHQに押し付けられた」とし憲法改正(実は改悪)しようとする人は、絶対権力者としての天皇を復活させ(象徴としてのあり方を模索している
第99条 マスコミがよくやる「あなたは憲法改正に賛成ですか?」といったアンケートも全くの茶番です。どの条項をどう改正するかを一つ一つ示して問わない限り、全く意味がありません。「改正(正しい方向に改める)なら」いいんじゃないのと単純に考える人を取り込む
●憲法研究会のことを描いた映画「日本の青空」が、平成19年公開されました。鈴木安蔵を高橋和也、高野岩三郎を加藤 剛、杉森孝次郎を坂部文昭、森戸辰男を鹿島信哉が演じています。監督:大澤 豊。30分ダイジェスト(YouTube→)
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |