|
|||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||
|
昭和23年に発足した芦田 均内閣が短命に終わり、その後、吉田 茂内閣となり、その体制は現在にも連なる 昭和27年10月28日(1952年。 づけの芦田 均(64歳)の日記に次のようにあります。 今朝も西尾君の身の上を思うて同情に 「西尾君」とは、西尾
文中に、「同情に堪えなかつた」「私が有罪の判決をうけたら」という物騒な箇所があります。それは、昭和23年5月頃に発覚した「昭和電工事件」に関係があります。芦田も西尾も被疑者になり、昭和26年に芦田は無罪となりましたが、上の日記の時点では、西尾はまだ有罪となって控訴、なお裁判の最中にあったのです(後に無罪)。 ところで、事情聴取された人は2千人にのぼり、逮捕者が64名、結審までに14年半かかり(結局、実刑を受けた人は0名。執行猶予付きの有罪は3名)、何よりも芦田内閣を総辞職に追い込んだ「昭和電工事件」とは何だったのでしょう? 昭和電工は、昭和14年に設立された肥料製造会社です。社名に「電工」とあるのは、アルミニウムを製造する日本電気工業という会社と合併したからなのでしょう。その昭和電工が、戦後の肥料増産政策に乗じ、設備の修復・拡充を図るため、「復興金融金庫」(「興業銀行」復興金融部を引き継いだもの。以下、復金)から30億円という巨額の融資を受けました。その融資の背景に、政官界やGHQとの間に贈収賄があったというのです。昭和電工社長の日野原節三をはじめ、官僚・政治家も次々と逮捕・拘引されていきました。 芦田内閣は、副総理の西尾が別件で拘引されたのを機に、総辞職となりましたが、芦田は「昭和電工事件」に全く関係していなかったので泰然としていました。ところが、芦田が自動車の支払いのために
では、この「戦後最大の怪事件」とまで騒ぎ立てられた「昭和電工事件」の仕掛け人とその目的は何だったのでしょう? 第一の仕掛け人は、GHQ内のG2(General Staff 2=参謀第二部)です。G2が中心がなって摘発に動いたのです。その第一の目的は、同じくGHQ内のGS(Government Section=民政局)を追い落とすこと。GSは芦田内閣を支持していたので、その内閣を潰すことで、GSの力も削ごうと画策しました。 昭和23年までのGHQ(GS主導)は、軍閥・財閥の解体、軍国主義の排除(軍国主義者の公職追放)、日本国憲法の制定、国語の民主化(当用漢字の制定など)など、日本の民主化を推進してきました。その流れで、片山内閣と芦田内閣が誕生したといえます。昭和27年4月28日(「サンフランシスコ条約」が公布・発効された日)まで連合国(実質的には米国)の占領下だったので、日本は米国(GHQ)の意向に反することはできませんでした。 ところが米ソの冷戦構造が顕在化してきて、米国は「日本をアジアにおける共産主義化の防波堤にする」ことに重点を置き始めます。米国政府が示した「国家安全保障会議文書」には、「日本の民主化の行き過ぎをチェックする」「日本の軍国主義者の公職追放を解除する」「再軍備させる」「経済復興を優先させる」が盛り込まれていました。「国家安全保障会議文書」が出されたのが、芦田内閣が潰れたのと同じ昭和23年10月なのは、偶然でないでしょう。 そして、G2の言うことを聞きそうな吉田 茂が総理大臣に返り咲き(第2次吉田内閣〜)、翌昭和24年には、共産党(民主勢力)つぶしの事件(民主勢力に罪をお被せるために為されたと思しき殺人事件)が連発。下山事件、三鷹事件、松川事件など)が、GHQと日本政府のお墨付きで起きました。軍国主義者の公職追放も徐々に解かれ(昭和27年のサンフランシスコ条約の発効と同時に全ての人が解除)、その多くが、今に続く米国従属勢力の源流となります。 「昭和電工事件」のもう一つの側面は、上記のGHQ内の勢力争いを、昭和電工内の旧勢力や、元の与党勢力(第一次吉田内閣がらみの自由党勢力)が利用したこと。検事局に出頭した大野
社長・日野原の義兄にあたる菅原
・・・政敵を卑劣な手段で陥れ、たまたま駐留軍同士の仲間割れを利用して政争に巻き込んだ猿芝居で、日本の信用を傷つけるには役立ったが、国益などカケラほどもなく木戸銭を払うほどのこともない。・・・ 令和の世になっても、日本人の多くが、この昭和23年に起きたことを知らず(知ろうともせず)、その後の日本の「従米」姿勢を何となく是認しているようなのがなんとも・・・。米国に対するのと同じくらいの距離感を持って、他の国(特に近隣のアジアの諸国)と誠実に外交したら(米国が許さない?)、軍備費は今の1/10以下で済むことでしょう。 GHQが日本にあれやこれやを押し付けたといまだに主張する人がいますが、昭和23年までのGHQ(GS主導)は、日本人を民主的な国民として自立させるべく、日本人の意見をよく聞いていました。敗戦当初、GHQは漢字を全廃して日本語をローマ字表記にしようとしましたが、日本側の意向を尊重して、漢字を残しました。また、憲法にも、日本人の意向がよく反映させています(9条の芦田修正や、森戸辰男の発案による25条(生存権)など)。 昭和24年からの「従米」マインドを内面化した為政者たちに、米国はもはや何かを押し付つける必要がなかったでしょう。彼らは、米国に何か言われないでも、先回りしてその意向を汲み取りことには長けていた(いる)ようなので。
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月 |