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常磐線「北千住駅」「綾瀬駅」間で、国鉄の
昭和24年7月5日(1949年。
午前8時20分、初代国鉄総裁の
東京駅のロータリーに差し掛かった時(目的地の国鉄本庁は目前だった)、運転手の大西に「買い物がしたいから三越へ行ってくれ」と指示、その後、白木屋、神田駅、千代田銀行(現・三菱UFJ銀行)と寄り道した後、開店直後の9時37分、「5分くらいだから待っていてくれ」と大西に告げて日本橋「三越」(東京都中央区日本橋室町一丁目4-1 Map→)に入店。しかし、下山はその後消息を絶ち、翌6日になったばかりの真夜中の1時頃、変わり果てた 遺体発見現場は、国鉄(現JR)常磐線「北千住駅」(東京都足立区千住旭町42-2 Map→)と「綾瀬駅」(東京都足立区綾瀬三丁目1-1 Map→)間の下りのレール上(現在、付近に「下山国鉄総裁追憶碑」(東京都足立区西綾瀬1-3-3 Map→)がある)です。 その後、下山の死が、自死だったか、他殺された後に線路に置かれたかが、警察・検察内、医学会内、マスコミ内で議論され、意見が真っ二つに分かれます。しかし、同年(昭和24年)末、警視庁捜査一課が自死説に立脚した「白山白書」をそそくさと作成、翌昭和25年初めに非公式にマスコミに流し、強引に自死説で幕引きを図りました。 しかし、本当に下山総裁は鉄道で自死したのでしょうか? 当日(5日)の遺体発見現場付近などでの複数の目撃情報が自死説の最大の根拠となりましたが、「下山白書」に記された目撃証言は、自死説に導くために、明らかに改竄されていました。顔形や人物の様子、洋服の様子などは全く分からず証言もしていないのに、「下山白書」では、「ワイシャツの襟が上着のうえに出て」とか、「元気がないようでした」とか、「その人が下山さんだったにちがいないと思っていました」と警察は勝手に作文しました。また、三越内などで、3〜4人の男と一緒にいる下山が複数人に目撃されていますが、それは意図的に却下されたのです。 下山の側近中の側近・国鉄副総裁の加賀山之雄は、下山の遺体が発見された時、「殺られた」と直感、遺体発見現場付近での下山目撃情報は、下山の替え玉の目撃情報と推測しました。39才の清掃人の証言は「白山白書」で「人相、着衣、態度、所持品など総合して下山総裁と認められる」と記されましたが、彼が実際に見た人物は、「土工の親分というようにガッチリした大男」で「とても下山さんとは思いません」と証言していました。しかし、「白山白書」に異議を唱え、真実を言えば、自分も殺されるかもしれないと思って、15年後(昭和39年。時効後)に再取材されるまで、黙っていました。 遺体発見日(6日)、遺体が東大医学部法医学教室で執刀されますが(解剖指揮:
遺体の衣服に染み込んでいたコップ1杯分ほどの油(「下山油」と呼ばれた)と、衣服に付着した染料と石膏の粉に着目した警視庁捜査二課は、地検の応援を得て20名で捜査にあたり、殺害現場の特定も時間の問題でした(下山は油・染料・石膏がある場所に転がされたか押し付けられたかした)。 あと、遺体にほとんど血がなかったことや(別の場所で血を抜かれて殺された可能性が高い)、下山の靴の謎(右の靴が大きく裂けているのに下山の右足には損傷がなかった。靴に普段と異なるクリームが塗られていた)など、自死説では説明できない物証もありました。 が、突如、捜査二課の主力がほとんど転出させられ、捜査の続行が困難になりました。職員の転出は田中栄一警視総監の権限で行われましたが、田中の一存でやったとは考えられず、当然、圧力がかかったのでしょう。 そして、15年経過して昭和39年、時効を迎えて「下山事件」は「未解決事件」となり、現在に至ります。 しかし、なぜ、こういった「あからさまな捜査妨害」がなされたのでしょう? 最初、左派の犯行に仕立て左派のイメージ失墜を謀ろうとした者たちが、意に反して真犯人が分かりそうになり、その追及から逃れるために、自死説で強引に幕引きにしようとしたのでしょう。当時、警察にも影響を与えうる権力といったら、政府かGHQ(米国、米軍)しかありませんが、日本はGHQの占領下でしたから、政府もGHQの意向に意義を唱えることは難しかったでしょう。
米国は日本の経済を自立・安定させるべく梃入れし始め(ドッジ・ライン)、それを受けて下山総裁は、前日(4日)、国鉄職員3万700人の解雇を通告しました。労働組合(左派)は当然反発。「下山事件」はその翌日に起きたのです。「朝日新聞」の記者だった矢田喜美雄は、「米陸軍防諜部隊」に命じられて下山の遺体を現場まで運んだ人物にまでたどりついています。 「下山事件」があった昭和24年には、同月7月15日の「三鷹事件」、さらに1ヶ月した8月17日の「松川事件」など、「労働組合(左派)を陥れようとしたと思われる事件」が頻発しました。 米国は、「朝鮮戦争」(「下山事件」の約1年後の昭和25年6月25日に勃発)前夜に、日本の右派勢力を復活させ、反対に、日本の左派の勢力をそぎ落とそうと画策したようです。
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