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「松川事件」の現場 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/松川事件(平成26年7月23日更新版)→
昭和36年8月8日(1961年。 「松川事件」の差し戻し審で、被告20名全員に無罪の判決が出ました。事件発生の翌年(昭和25年)の一審では全員が有罪(うち死刑5名、無期懲役5名)でしたが、12年目にして全員無罪となったのです。さらに2年して昭和38年、最高裁で無罪が確定(終結までに14年、判決後の「国家賠償裁判」を含めるとプラス7年で計21年かかった)。 「松川事件」はどんな事件だったのでしょう? 日本がまだGHQの占領下だった昭和24年(昭和27年まで占領下)、国鉄(現・JR)がらみの事件が約40日間に3つ起きました。7月5日に国鉄の初代総裁・下山定則が失踪後礫死体で発見される「下山事件」 、10日後の7月15日には東京三鷹駅で無人列車が暴走して商店街に突っ込み通行人6名が死亡する「三鷹事件」(Wik→)、そして、8月17日にはこの「松川事件」。東北本線「
これらは「国鉄三大ミステリー」と呼ばれますが、「松川事件」についていえば、無罪判決後の「国家賠償裁判」(民事裁判)で国の違法行為が論定したこともあり(国側は一審、二審ともに敗訴し、昭和45年、賠償金を払っている)、国が関与した謀略事件です。何でも陰謀論で説明しようとするのも問題ですが、現にこういった謀略があったのも事実。「また陰謀論かよw」と揶揄して陰謀論を全て否定しにかかる向きもありますが、それ自体が“陰謀”の一部を形成している可能性もあり。“まともな出版社”の本で歴史を少しでもひも解くと、教科書には書かれない「恐ろしいこと」がたくさん出てきます。それに目を向けるか、否か。 戦後直後、日本の民主化を図ったGHQは共産主義や労働運動にも寛容でしたが、国鉄職員計10万人の解雇の発表がありそれに反発して労働争議が起こり、また、その年(昭和24年)1月の衆議院総選挙では日本共産党が4議席から35議席へと伸ばし、国際的にも中国や朝鮮で共産勢力が拡大、それらを脅威として、レッドパージ(赤狩り)を始め、「逆コース」をたどります。翌昭和25年6月25日には、朝鮮戦争が始まります。それに向け日本人に共産党に関わったらヤバイという恐怖感を植えつけようというのでしょう。GHQといっても一枚板ではなく、GS(Government Section。民政局。軍閥・財閥の解体を進め、日本の民主化政策の中心をになった。社会党の片山 哲や、民主党の芦田 均を支えた)とG2(参謀第2部。諜報活動や検閲を担当。復古主義の吉田 茂を押し出した)の対立・主導権争いがあり、レッドパージは後者が主導したと考えられます。朝鮮戦争下の昭和27年には、「サンフランシスコ平和条約」締結とともに「追放令」も解除し、戦前の軍国主義者(考えを改めた人もいたとは思いますが)を日本の中枢部に返り咲かせています。 「松川事件」でも、事件当初から、GHQ、政府、警察、検察、裁判所が結託して、無実の労働組合員(国労福島支部関係者10名と東芝松川工場労組関係者10名)を陥れようと動いています。事件翌日、吉田 茂内閣は労働組合員の犯行とほのめかし、裁判では 「あるはずがない証拠」が出てきたり、出されてしかるべき証拠が隠蔽されたり・・・、権力サイドからの露骨な工作がありました。そして、事件の1年後(昭和25年)、20名の被告全員が有罪となり、5名にはなんと死刑判決です。権力が殺し、その罪を「都合悪い人たち」になすりつけ抹殺しようとしたのです。 ------------------------------------------------------ 被告たちは、GHQと国が関わるこの難しい裁判をどのように戦い、どう勝利したのでしょう?
事件2年後の昭和26年、被告の佐藤
そして出来上がった『真実は壁を透して』に、宇野浩二(60歳)と広津和郎(59歳)が反応。特に広津は、被告に面会、裁判を傍聴し、被告たちの無実を確信、捜査・裁判の問題点をメディアに発表、被告救済運動の中心になっていきます。大半のメディアが「作家風情がクチバシをつっこむな」的なバッシングをしましたが、広津の呼びかけで458名の文化人が賛同、中野重治(49歳)、松本清張(41歳)、志賀直哉(68歳)、川端康成(52歳)、武者小路実篤(66歳)、井伏鱒二(53歳)、吉川英治(59歳)、尾﨑士郎(53歳)、木下順二(37歳)、石川達三(46歳)、大仏次郎(53歳)、田宮虎彦(40歳)、坂口安吾(44歳)、佐多稲子(47歳)、壷井 栄(52歳)、井上 靖(44歳)、
「松川事件対策協議会(松対協)」(会長:広津和郎)など被告救済団体も結成され、中国、ソ連、ポーランド、フランス、チェコ、ドイツ、アジア法律家会議も日本政府を批判、紙芝居や幻灯、演劇、浪曲でも訴えられ、その他、カンパ、デモ、被告たちの美術展出品(アンデパンダン展)、公判記録の出版などが行われていきます。 出色なのは、本格的な映画「松川事件」の制作。実際の人物に似た俳優を選び、事件に巻き込まれた被告とその家族の苦悩、「捜査と裁判のひどさ」を再現しました。昭和36年に完成。昭和28年の二審で17名に有罪(死刑4名を含む)の判決が出ており、予断を許さない中で全国公開され、3ヶ月間で370万人が鑑賞。世論を味方につけます。映画人たちの勇気ある行動がまぶしいですね。
検察・警察・司法による権力犯罪についての告発は、ことごとく不起訴、棄却、却下となり、14年という長期裁判後、1年あまりで時効、警察の捜査義務も消滅しました。なおその後、当時の新井 諜報活動で暗躍した「キャノン機関」のキャノン中佐は全く知らないと語り、犯人を目撃した斎藤金作は謎の死を遂げ(昭和26年)、実行犯は定かになっていません。事件の前夜、正体不明の少女レビュー団の一夜かぎりの興行があり、実行犯の隠れ蓑になった可能性が指摘されています。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考サイト ※当ページの最終修正年月日 |