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“小説の神様” と呼ばれる志賀直哉の文章は、実に簡潔だ。 『暗夜行路』に次の一節がある。 謙作は身をずらして、寝床に空き地を作ってやった。直子は元気なく起きかえって、来て、そこへすわった。憂鬱な、無表情な、醜い顔をして、ぼんやりと床の間のほうへ目をそらしていた。そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある。 どんな場面かというと、主人公の謙作はある事情から、妻の直子を残して朝鮮へ旅に出る。しかし、謙作がいない間に、直子は従兄弟と過ちを犯してしまうのだ。謙作が家に戻り、楽しい土産話も一段落した就寝前のこと、謙作は直子がどことなく不自然なのに気づくのだ。 直子に同情の余地がないわけではないが、その時の彼女の表情は「醜い」。ずばりと書く乾いたタッチが実に志賀らしい。 そして、文は、「そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある」で切られる。その「壺と箱」は、直子を喜ばせるために謙作が旅先で苦労して探してきたもので、さっき直子はそれに大喜びした。そらした視線の先の「壺と箱」が、彼女の網膜に像を結んだ時、彼女の内面をよぎるだろう感情には一切言及されない。 「後悔」とか「絶望」とかと書いてしまえば、ただそれだけの意味でしか伝わらない。しかし、それが書かれないとき、私達は登場人物の感情を行間に思い浮かべ、直子とともに「目をそらし」、直子とともに「壺や箱」を見、そして直子とともに絶望する。 志賀の文章は、このように、ずばり書かれたり、また余計に書かれなかったりする呼吸が絶妙なのだと思う。 『暗夜行路』について■ 作品評 志賀直哉について
ヒューマニズムに燃え、父親とは対立 明治34年(18歳)、 無教会主義のキリスト教指導者・内村鑑三の夏期講習に参加、以後7年間内村の元に通った。明治43年(27歳)、 武者小路実篤らと雑誌「白樺」 を創刊。この年、東京帝国大学を中退する。 文学における新たな道 日本近代文学には、特別な極限状況に身を置かないと人の心を打つ作品が描けないといった風潮があったが、 志賀は「模範的な人格を獲得する苦しみを写実する」(井上ひさし)といった新たな道を示した。唯一の長編の『暗夜行路』をはじめ、 父親との確執が解消されるまでの過程を描いた『和解』(Amazon→)、ある男を神様と思い込む
昭和46年(1971年。88歳)、肺炎と衰弱により死去。青山墓地の志賀一族の墓所に眠る ( )。 ■ 志賀直哉 評
当地と志賀直哉大正2年(30歳)、約5ヶ月間とどまった 『暗夜行路』は志賀の半自叙伝(実際と異なる点も多い)で、主人公の時任謙作も、大森(山王)辺りに住む。「大井の山王寄りに一軒建ての二階屋」があり借りて、最寄り駅は「大森停車場」。訳ありの芸者のことを書き始めるが上手くいかず(実際、志賀の大森時代は『時任謙作(暗夜行路)』が書けず苦しんだ時期に当たる。夏目漱石に会いに行ったことも(相談に行った?))、精神的にも低迷、何を見ても不安になる、といった病的な感じだ。『暗夜行路』の「暗夜」はこういった不安神経症的性格から来る苦悩の比喩でもあるのだろう。そして、「大森の生活は予期に反し、全く失敗」に終わるのだった。「暗夜」はまだまだ続く・・・。 当地にゆかりある人で親しくしたのは、 和辻哲郎(当地にいた和辻を訪ねている)、広津和郎( 広津の松川事件被告救済運動に協力)、萩原朔太郎(萩原家のダンスパーティーに顔を出したとする本もあるが、疑問視する向きも)、北原白秋(白秋が世間の非難を受けていた頃理解ある励ましの言葉を送っている)、 池部 良(旅の宿で一緒になり、以後親交。池部が演じるならばと『暗夜行路』の映画化を許可した) 、小津安二郎(志賀のことを「大先生」といって敬愛した。作品の抑えた感じとさりげないユーモアは志賀からの影響もあるか) など。 参考文献●『暗夜行路(座右寶版)(復刻版)』(志賀直哉 日本近代文学館 昭和59年発行)P.262-291 ●『志賀直哉(下)(岩波新書)』(本多秋五 平成2年発行)P.171-172 ●『志賀直哉』(阿川弘之 岩波書店 平成6年発行5刷参照)P.182-183、P.205 ●『大森山王と周辺の歴史を探る』(後藤浅次郎 朝日出版 平成3年発行3刷参照)P.16-17 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.10、P.106-108 ●『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行)P.6-7、P.104 ●『座談会 昭和文学史(一)』 (編著:井上ひさし・小森陽一 集英社 平成15年発行)P.203-322 ●『昭和文学作家史(別冊一億人の昭和史)』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.73-77 ●『文人暴食(新潮文庫)』(嵐山光三郎 平成18年発行)P.295 ●『宇野浩二 広津和郎集(現代日本文学大系46)』(筑摩書房 平成元年発行13刷参照)P.470 ●「まるで19世紀のロンドン」(「朝日新聞」平成25年9月4日朝刊)志賀直三設計の「カド」を紹介 ●『小説家たちの休日』(写真:樋口 進 文:川本三郎 文藝春秋 平成22年発行)P.22-25 参考サイト●神奈川近代文学館/web資料室/神奈川文学年表/昭和11年-20年→ ●かぶとむし日記/小津安二郎の映画に見え隠れする志賀文学→ ※当ページの最終修正年月日 |