(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

志賀直哉の『暗夜行路』を読む(書き、そして書かない)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“小説の神様” と呼ばれる志賀直哉の文章は、実に簡潔だ。 『暗夜行路』に次の一節がある。

謙作は身をずらして、寝床に空き地を作ってやった。直子は元気なく起きかえって、来て、そこへすわった。憂鬱な、無表情な、醜い顔をして、ぼんやりと床の間のほうへ目をそらしていた。そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある。

どんな場面かというと、主人公の謙作はある事情から、妻の直子を残して朝鮮へ旅に出る。しかし、謙作がいない間に、直子は従兄弟と過ちを犯してしまうのだ。謙作が家に戻り、楽しい土産話も一段落した就寝前のこと、謙作は直子がどことなく不自然なのに気づくのだ。

直子に同情の余地がないわけではないが、その時の彼女の表情は「醜い」。ずばりと書く乾いたタッチが実に志賀らしい。

そして、文は、「そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある」で切られる。その「壺と箱」は、直子を喜ばせるために謙作が旅先で苦労して探してきたもので、さっき直子はそれに大喜びした。そらした視線の先の「壺と箱」が、彼女の網膜に像を結んだ時、彼女の内面をよぎるだろう感情には一切言及されない。

「後悔」とか「絶望」とかと書いてしまえば、ただそれだけの意味でしか伝わらない。しかし、それが書かれないとき、私達は登場人物の感情を行間に思い浮かべ、直子とともに「目をそらし」、直子とともに「壺や箱」を見、そして直子とともに絶望する。

志賀の文章は、このように、ずばり書かれたり、また余計に書かれなかったりする呼吸が絶妙なのだと思う。


『暗夜行路』について

志賀直哉「暗夜行路(前編)」

志賀直哉しが・なおや の代表作の一つ。夏目漱石のすすめで、大正3年 (31歳)から『時任謙作』という題で「東京朝日新聞」に連載予定で、大正元年(29歳)から着手していたが、挫折。前編が「改造」に発表されるのが7年後の大正10年1月(38歳)。後編は昭和12年(54歳)に完成する。計23年費やされた。小津安二郎の映画「風の中の牝どり」Amazon→には『暗夜行路』の中のモチーフが使われているという。

■ 作品評
・ 「近代文学の最高峰」(大岡昇平
・ 「現代最上の恋愛小説」(河上徹太郎)
・ 「拵えものだ」(中野重治
・ 「確かな智慧だけで書かれてゐる」(小林秀雄
・ 「骨ばかりの小説」(本多秋五)
・ 「主人公の気分の余りにデリケートなのが気になる」(河合栄治郎


志賀直哉について

志賀直哉 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/志賀直哉(令和2年7月16日更新版)→
志賀直哉 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/志賀直哉(令和2年7月16日更新版)→

ヒューマニズムに燃え、父親とは対立
明治16年2月20日(1883年)、父の勤務地の宮城県 石巻いしのまきで生まれる(父・直温なおはる は第一銀行石巻支店に勤務)。明治18年(2歳)、 東京麹町の祖父母の元に移る。兄・直行が夭逝したため長男として育つ。弟は後に映画・建築関係に進む志賀直三。祖父・直道は二宮尊徳の影響を受け、相馬家の家令としてその財政を立て直すために足尾銅山の開発に携わった人。父・直温は総武鉄道で活躍し財をなす。足尾銅山鉱毒事件のおり現地視察に行こうとするが、父は猛反対、祖父は何も言わなかった。父と対立し、祖父を尊敬した。

明治34年(18歳)、 無教会主義のキリスト教指導者・内村鑑三の夏期講習に参加、以後7年間内村の元に通った。明治43年(27歳)、 武者小路実篤らと雑誌「白樺」 を創刊。この年、東京帝国大学を中退する。

文学における新たな道
初めて稿料を得た作品『大津順吉』(明治45年 29歳Amazon→)で早くも「名文家」と謳われ、多くの作家の指標となる。芥川龍之介大正11年7月27日、我孫子(千葉県)にいた頃の志賀を訪ねている)、谷崎潤一郎小林多喜二昭和6年、奈良にいた頃の志賀を訪ねている)、太宰 治三島由紀夫も私淑。直井 潔は、『暗夜行路』の後編を全文暗唱するほど研究。 尾崎一雄は奈良住まいの志賀を慕って近所に越した。志賀の全集は2部購入し、一つを読書用に、もう一つは保存用にしたという。

日本近代文学には、特別な極限状況に身を置かないと人の心を打つ作品が描けないといった風潮があったが、 志賀は「模範的な人格を獲得する苦しみを写実する」(井上ひさし)といった新たな道を示した。唯一の長編の『暗夜行路』をはじめ、 父親との確執が解消されるまでの過程を描いた『和解』Amazon→、ある男を神様と思い込む 秤屋はかりや の奉公人の話『小僧の神様』Amazon→ (この小説が評判になり、“小説の神様” と呼ばれるようになる)、 蜂やねずみを観察しながら自分の生と死とを省みた『城の崎にて』Amazon→などの作品がある。

昭和46年(1971年。88歳)、肺炎と衰弱により死去。青山墓地の志賀一族の墓所に眠る ( )。

志賀直哉
・ 「理知と欲情の間に分裂を知らない『古典的な人物』」(小林秀雄

阿川弘之『志賀直哉〈上〉 (新潮文庫)』。著者・阿川(阿川佐和子さんの父)は晩年の志賀をつぶさに見た人。野間文芸賞、毎日出版文化賞受賞作 新形信和『ひき裂かれた“わたし” 〜思想としての志賀直哉〜』(新曜社)
阿川弘之『志賀直哉〈上〉 (新潮文庫)』。著者・阿川(阿川佐和子さんの父)は晩年の志賀をつぶさに見た人。野間文芸賞、毎日出版文化賞受賞作 新形信和『ひき裂かれた“わたし” 〜思想としての志賀直哉〜』(新曜社)

当地と志賀直哉

大正2年(30歳)、約5ヶ月間とどまった尾道おのみち(広島)から帰京した志賀は、山手線の電車にはねられ重傷を負った。しばらく城崎きのさき (兵庫県)で養生し、その後の落ち着き先が当地だった。年譜には「〔大正2年〕十二月下旬、大森山王 (東京府下大井町鹿島谷4755) に移る」とある。近くに 日枝ひえ 神社(東京都大田区山王一丁目6-2 map→)がある。日枝神社は「山王権現・山王様」と呼ばれ近辺は「山王」と呼ばれた。翌大正3年の5月には松江へ移転し、山王にいるのは半年ほど。

『暗夜行路』は志賀の半自叙伝(実際と異なる点も多い)で、主人公の時任謙作も、大森(山王)辺りに住む。「大井の山王寄りに一軒建ての二階屋」があり借りて、最寄り駅は「大森停車場」。訳ありの芸者のことを書き始めるが上手くいかず(実際、志賀の大森時代は『時任謙作(暗夜行路)』が書けず苦しんだ時期に当たる。夏目漱石に会いに行ったことも(相談に行った?))、精神的にも低迷、何を見ても不安になる、といった病的な感じだ。『暗夜行路』の「暗夜」はこういった不安神経症的性格から来る苦悩の比喩でもあるのだろう。そして、「大森の生活は予期に反し、全く失敗」に終わるのだった。「暗夜」はまだまだ続く・・・。

当地にゆかりある人で親しくしたのは、 和辻哲郎(当地にいた和辻を訪ねている)、広津和郎広津の松川事件被告救済運動に協力)、萩原朔太郎萩原家のダンスパーティーに顔を出したとする本もあるが、疑問視する向きも)、北原白秋白秋が世間の非難を受けていた頃理解ある励ましの言葉を送っている)、 池部 良(旅の宿で一緒になり、以後親交。池部が演じるならばと『暗夜行路』の映画化を許可した) 、小津安二郎志賀のことを「大先生」といって敬愛した。作品の抑えた感じとさりげないユーモアは志賀からの影響もあるか) など。


参考文献

●『暗夜行路(座右寶版)(復刻版)』(志賀直哉 日本近代文学館 昭和59年発行)P.262-291 ●『志賀直哉(下)(岩波新書)』(本多秋五 平成2年発行)P.171-172 ●『志賀直哉』(阿川弘之 岩波書店 平成6年発行5刷参照)P.182-183、P.205 ●『大森山王と周辺の歴史を探る』(後藤浅次郎 朝日出版 平成3年発行3刷参照)P.16-17 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.10、P.106-108 ●『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行)P.6-7、P.104 ●『座談会 昭和文学史(一)』 (編著:井上ひさし・小森陽一  集英社 平成15年発行)P.203-322 ●『昭和文学作家史(別冊一億人の昭和史)』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.73-77 ●『文人暴食(新潮文庫)』(嵐山光三郎 平成18年発行)P.295 ●『宇野浩二 広津和郎集(現代日本文学大系46)』(筑摩書房 平成元年発行13刷参照)P.470 ●「まるで19世紀のロンドン」(「朝日新聞」平成25年9月4日朝刊)志賀直三設計の「カド」を紹介 ●『小説家たちの休日』(写真:樋口 進 文:川本三郎 文藝春秋 平成22年発行)P.22-25


参考サイト

神奈川近代文学館/web資料室/神奈川文学年表/昭和11年-20年→ ●かぶとむし日記/小津安二郎の映画に見え隠れする志賀文学

※当ページの最終修正年月日
2020.7.22

この頁の頭に戻る