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北原白秋『桐の花』を読む(監獄の歌人)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20代の終わり頃、北原白秋は牢屋に入った。 罪状は姦通罪。

明治43年9月、東京原宿に転居した25歳の白秋は、夫からDVを受けている隣家の人妻・俊子としこ の悩みを聞き、同情。再び住まいを東京京橋に移した白秋の元に、離縁を宣言された俊子が訪ねてきて、二人は結ばれる。 ところが俊子の夫は、法的には離婚が成立していないと二人を姦通罪で訴えたのだった。

学生の頃から歌人・詩人として名声があった白秋。事件はスキャンダラスに報じられ、同業の詩人や歌人らからも「文芸の汚辱者」 との痛烈な誹りを受けることになる。

この『桐の花』は、そんな事件の直後に編まれた、白秋の第一歌集である。そこには事件のただ中で詠まれた歌も並ぶ。

君と見て一期の別れする時も
ダリアは紅しダリアは紅し

泣きそ泣きそあかきの軒下の
廻り燈籠に灯が点きにけり

狂人の赤き花見て叫ぶとき
われらしみじみ出て尿いばり する

鳩よ鳩よをかしからずや囚人めしうど
さんはちなな 」が涙ながせる

鳳仙花われ礼すればむくつけき
看守もうれしや目礼したり

監獄ひとやいでてじつとふるへて噛む林檎りんご
林檎さくさく身に染みわたる

別れのつらさの中で赤々と燃えるように咲くダリアの花、囚人馬車の窓の隙間からちらりと見えた廻り灯籠の美しさ、外でおしっこすることの叫び出したいほどの開放感、番号で呼ばれる悲しさと小動物への親近感、心に深くしみるちょっとした人情、震えてかじる林檎の美味さ・・・、そこには、収監という特殊な状況でしか味わえない実感がある。

日常からの隔離、それは不幸な体験には違いない。しかし、日常では忘れがちな“日常の輝き”を、歌人に改めて教えたようでもある。


『桐の花』について

大正2年1月25日、東雲しののめ 堂書店から発行された北原白秋(28歳)の第一歌集。1月25日は白秋の誕生日。自身の新生の願いを込めたのかもしれない。明治42年(24歳)頃から「スバル」などで発表した歌や散文が収められている。発行当初はスキャンダルの影響もあってか、反響が芳しくなかった。

東雲堂書店版の『桐の花』。装丁と挿絵も白秋による 北原白秋 『桐の花 (短歌新聞社文庫) 』
東雲堂書店版の『桐の花』。装丁と挿絵も白秋による 北原白秋『桐の花 (短歌新聞社文庫) 』

北原白秋について

馬込文学圏時代の北原白秋 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『北原白秋(新潮日本文学アルバム)』
馬込文学圏時代の北原白秋 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『北原白秋(新潮日本文学アルバム)』

裕福な家に生まれる
明治18年1月25日(1985年)、母方の郷里・熊本県南関町なんかんちょう map→で生れ、福岡県柳川やながわ map→で育つ。家は海産物の問屋と酒の醸造と精米を営む地方有数の商家で、良家の長男として育つ。妹をチフスで亡くし、また明治23年(5歳)コレラが流行。不安の多い幼少期を送る。母方の祖母と叔父らが白秋に文学的影響を与えた。

非常に優秀、しかし退学
尋常小学校を主席で卒業し、高等小学校を2年飛級して、明治30年(12歳)、県立中学伝習館に入学した。2年生の頃から文学に傾倒し初め、3年に上がる時に落第。新聞への投稿や校内回覧誌の発行を盛んに行い、校内新聞では校内全生徒500名のうち400名を動員して学校の試験制度や管理教育を非難、学校側と対立した。白秋というペンネームはその頃から。卒業間近に中退。明治37年(19歳)、父親とも対立し、早稲田大学出身の教師の影響や友・中島白雨の自殺などもあって、上京を決意する。

早稲田在学中から、短歌と詩で脚光を浴びる
明治37年(19歳)、早稲田大学に入学。同級に若山牧水がいて宿を同じくする。翌年「早稲田学報」の懸賞で『全都覚醒賦』が一等になり、早くも詩壇から注目される。「韻文界の泉 鏡花」といわれた。明治39年(21歳)、東京新詩社に参加、与謝野鉄幹、木下杢太郎、吉井 勇らと出会う明治41年(23歳)、山本 鼎らと 「パンの会」を結成。翌年「スバル」の創刊に参加し、同年3月、初の詩集『邪宗門』を出した。明治44年(26歳)、第2詩集『想ひ出』を発行、上田 敏に激賞される。2ヶ月後の11月、下宿の土蔵の2階で、詩誌「朱欒」を編み、萩原朔太郎室生犀星を見出す。 芥川龍之介は「新感覚派の先駆」と評した。生家破産による借金苦などから住まいを頻繁に替えるようになる(生涯に30回ほど住まいを替えた。神奈川県三浦半島の三崎、小笠原父島にも住んだ)。享楽的な情緒に、骨太な自然への讃歌、宗教的な高揚などを謳う。象徴的な表現を得意とした。大正5年(31歳)、阿蘭陀オランダ 書房を設立するが翌年失敗。新たに出版社「アルス」を設立した。

「赤い鳥」運動に参加
大正7年(33歳)、「赤い鳥」の童謡部門を担当、日本の風土に根ざした童謡を作る。3人目の妻の菊子の温かい人柄や、2人の子どもに恵まれたことなどが童謡に深く関わる動機になったかもしれない。

詩境深まる
昭和に入り再び短歌を旺盛に作る。プロレタリア短歌を批判し、島木赤彦らの写生主義とも対立。歌壇のセクト主義に反発した。象徴・幽玄・情緒・浪漫の復興を訴えた。昭和10年(50歳)、多麿短歌会を結成し、「多麿」を創刊。 昭和12年(52歳)、 『新万葉集』 の審査に没頭するも、選歌完了後、目の酷使と糖尿病と腎臓病の合併症で眼底出血を起こし、以後は薄明の中を生きる。 昭和17年(57歳)から病床につくが創作を止めなかった。12月2日早朝、「ああ素晴らしい」の言葉を残して、満57歳で死去。 墓所は多摩霊園(東京都府中市多磨町四丁目628 map→)( )。

北原白秋
・ 「痛々しい大きな赤ん坊」(江口章子えぐち・あやこ(2番目の妻)。「地鎮祭事件」のあと出奔)
・ 「レオナルド・ダ・ビンチになれといわれたら、どうにか真似できそうだが、しかし、北原白秋の真似はできそうにない」( 鄭 芝溶チョン・ジヨン (1930年代を代表する朝鮮の詩人))

『北原白秋(新潮日本文学アルバム)』 『北原白秋(作家の自伝 27)』(日本図書センター)
北原白秋(新潮日本文学アルバム)』 北原白秋(作家の自伝 27)』(日本図書センター)

北原白秋と馬込文学圏

昭和2年3月(42歳)、東京都大田区東馬込二丁目18-6map→に越してくる。 生涯に30回ほど引っ越しをした白秋の23番目の住まい(?)。 緑ヶ丘と呼ばれる高台に建つ赤い屋根の洋館で、入口には青銅の鐘。夜には眼下に「灯の渓谷」が広がった。 芥川龍之介はこの家を「白秋城」と呼んだ。白秋は「魚は清水の中に還った」とこの地を愛し、 「馬込緑ヶ丘」「谷の馬込」 (『白南風(しらはえ)』に収録)などの詩にも織り込んだ。小田原の家を除いてすべて間借りか借家だったというので、ここも借家だったのか? 白秋が当地を選んだのは、「朱欒」の同人だった萩原朔太郎がいたためだろうか。朔太郎白秋が当地に来たのをとても喜んだ。翌昭和3年(43歳)4月に東京世田谷に転居。 約1年間の馬込文学圏住まいだった。やはり「朱欒」の同人だった室生犀星が当地に来るのは、約半年後の昭和3年11月。白秋とは入れ違いだった。

白秋の妹・家子は白秋の友人山本 鼎と結婚し、昭和11年~18年頃、当地(東京都大田区山王一丁目)に住んだ。

作家別馬込文学圏地図 「北原白秋」→


参考文献

● 『北原白秋(新潮日本文学アルバム)』(山本太郎 編集 昭和61年発行)P.35、P.80-81、P.105 ● 『文壇資料 馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年)P.58-64  ●『大田文学地図』(染谷孝哉  蒼海出版 昭和46年)P.69 ● 『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年) P.26-29、P.83 ●『馬込文士村<4>』(谷口英久 平成3年1月10日「産經新聞」掲載) ●『天の涯に生くるとも』(金 素雲 新潮社 昭和58年発行)P.123


参考サイト

北原白秋記念館→

※当ページの最終修正年月日
2019.9.12

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