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隠れ切支丹の里へ(明治40年7月28日、与謝野鉄幹ら5名、九州方面の旅に出る)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「パアテルさん」(ガルニエ神父)が私費を投じて建てた大江天主堂。5人が訪れた頃は木造だった

与謝野鉄幹 北原白秋
木下杢太郎 平野万里 吉井 勇
木下杢太郎
平野万里
吉井 勇

明治40年7月28日(1907年。 「(東京)新詩社」(明治32年〜昭和24年)の与謝野鉄幹(34歳)と、同社の北原白秋(22歳)、木下杢太郎もくたろう(21歳)、平野万里ばんり(22歳)、吉井 いさむ(20歳)の5名が、九州方面に向け東京駅を夜行列車で立ちました。

10日後の8月7日、厳島いつくしま神社(広島県廿日市市はつかいちし宮島町 Map→)を巡っている頃から、 5名は 「五人づれ」 という名で、旅行記『五足ごそくの靴』を「東京二六にろく新聞」に連載し始めます。

 五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た。五個の人間は皆ふわふわとして落着かぬ仲間だ。彼らはつらの皮も厚くない、大胆でもない。しかも彼らをして少しく重味あり大量あるがごとく見せしむるものは、その厚皮あつかわ な、形の大きい『五足の靴』のお陰だ。・・・(『五足の靴』の冒頭 ※「東京二六新聞」明治40年8月7日掲載分より)

旅の宿で、与謝野鉄幹、北原白秋、平野万里、吉井 勇。左下にちょこっと出ているのは、このスケッチをした木下杢太郎の足だろう ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用  出典: 『北原白秋(新潮日本文学アルバム)』
旅の宿で、与謝野鉄幹北原白秋、平野万里、吉井 勇。左下にちょこっと出ているのは、このスケッチをした木下杢太郎の足だろう ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典: 『北原白秋(新潮日本文学アルバム)』

出発14日後(8月11日)は白秋の柳川の生家(福岡県柳川市沖端町55-1 Map→)で1泊し、8月16日、佐世保から平戸へ向かい、8月19日、長崎から船で天草下島あまくさ・しもしまの富岡(熊本県天草郡苓北町れいほくまち Map→)に上陸、ここから同島の「大江天主堂」(熊本県天草市天草町大江1782 Map→)までの海沿いの悪路をたどる場面が『五足の靴』の旅のクライマックスでしょう。

ガルニエ神父
ガルニエ神父

大江の宿で死んだように寝て、翌日、5人は大江天主堂の「パアテルさん」(ガルニエ神父)に会いに行きます。

ガルニエ神父はフランス人で、18年(25歳)に来日、大江に来て15年(明治25年来村)。清貧な生活に甘じ、布教に身を挺していました。神父から清らかな一杯の水を振る舞われ、300年前から伝わる十字架を見せてもらい、同村の島原の乱後のキリスト教弾圧の歴史を教わり、5人は厳粛な時を過ごしています。

『五足の靴』の旅の旅程。東京→ 厳島→ 関門海峡→福岡→柳川 →佐賀→佐世保→平戸→長崎→ 天草下島 → 島原→熊本→阿蘇山→三池炭鉱、最後は京都で締めくくる1ヶ月ほどの旅だった 『五足の靴』の旅の旅程。東京→ 厳島→ 関門海峡→福岡→柳川 →佐賀→佐世保→平戸→長崎→ 天草下島 島原→熊本→阿蘇山→三池炭鉱、最後は京都で締めくくる1ヶ月ほどの旅だった

『五足の靴』の旅後、 南蛮ブームが生まれます。五足の5人らの作品の影響もあって、多くの作家・芸術家が、南蛮(キリスト教を伝えたポルトガル・スペイン)に憧れを抱き、慶長19年(1614年)からのキリシタン弾圧の悲劇性などにも関心を寄せるようになります。それまでは専門家の領域だった南蛮文化や隠れキリシタンなどの用語も広く知られるようになりました。

・・・・ しめる港の入日いりひ
切支丹きりしたん邪宗 じゃしゅうの寺の入口いりぐち
くらめるほとり、色りし煉瓦 れんがの壁にかへせば、
静かに起る日の祈祷いのり
『ハレルヤ』と、奥にはにほふ讃頌さんしようかすけき夢路ゆめぢ

あかあかと精舎しょうじゃの入日。──
ややあれば大風琴おほオルガン吐息といき
たゆらになげき、白蝋はくらふ ひゆく涙。──
壁のなかにはうづもれて
眩暈めくるめき、素肌すはだに立てるわかうどが赤きまぼろし・・・ (北原白秋『邪宗門』より)

北原白秋の『邪宗門』(明治42年。白秋(22歳)の第一詩集青空文庫→の他にも、岡本綺堂の『切支丹屋敷』(大正2年。綺堂41歳 NDL→)、芥川龍之介の『邪宗門』(大正7年。芥川26歳 青空文庫→)、小山内 薫の『吉利支丹キリシタン信長』(大正15年。小山内45歳)などの作品が生まれました。

ザビエル ヴァリニャーノ
ザビエル
ヴァリニャーノ

日本へのキリスト教伝来は、天文18年(1549年。室町幕府13代将軍・足利義輝の治世)、カトリックのイエズス会のザビエルが鹿児島に上陸した時とするのが一般的です。

織田信長がキリスト教を庇護、キリシタン大名(洗礼を受けた大名)も生まれて、九州を中心に信者が増えていきました。ザビエルも、天正7年(1579年。ザビエルの来日の30年後)に来日したヴァリニャーノも、日本の伝統や生活を尊重し、日本人の才能を高く評価、日本人の聖職者を育てることに尽力しました。ヴァリニャーノは少年たちにヨーロッパを見学させるため「天正遣欧少年使節」(1582-1590)を企画、成功させています。

ところが、一大勢力となったキリスト教徒が、神道や仏教を迫害することもあり(最初のキリシタン大名・大村純忠による寺社や墓の破壊、僧侶や神官の殺害やキリスト教信仰の強制など)、キリスト教伝来から38年経った1587年、豊臣秀吉が「バテレン追放令」(バテレンはポルトガル語で神父)を発令します。その後も、南蛮貿易の関係上、宣教活動が黙認されますが、9年後の文禄5年(1596年)スペインのガレオン船(大型帆船)・サン=フェリペ号が土佐(現在の高知県)に漂着したのを境に、秀吉が態度を硬化、京都・大阪にいた宣教師3名、修道士3名、日本人信徒20名を捕え、長崎に送って、翌年(1597年)処刑しました(「サン=フェリペ号事件」「日本二十六聖人の殉教」)。なぜ突然そんな残虐なことをしたかは、漂着したスペイン人乗組からの聞き取りから、「キリスト教の宣教が侵略とセット」(インカ帝国の滅亡など、キリスト教が侵略に利用されることもあった)になっているとの思いを秀吉が強めたからのようです。

江戸時代に入って徳川家康もキリシタンが不祥事を起こしたことなどから態度を硬化させます。また、寛永14年(1637年)、キリシタン大名配下の元武士ら3万名ほどが、過酷な税収に反発して一揆を起こしたことをきっかけに(「島原の乱」)、江戸幕府のキリスト教弾圧が徹底されるようになりました。踏絵密告によってキリシタンをあぶり出し、逮捕、処罰していきます。キリスト教への弾圧は明治時代の初頭まで続きます(明治6年キリスト教を禁じた「 五榜ごぼうの掲示」が撤去されるまで)。一部の者は仏教徒を装い潜伏、信仰を貫きました(「隠れキリシタン」)。時には信仰が発覚して、大量逮捕、拷問、処刑されることもありました(「濃尾のうび崩れ」、「浦上うらがみ崩れ」など)。

五人づれ 『五足の靴 (岩波文庫)』 北原白秋『邪宗門(名著複刻全集)』(近代文学館)
五人づれ 『五足の靴 (岩波文庫)』 北原白秋『邪宗門(名著複刻全集)』(近代文学館)
大橋幸泰『潜伏キリシタン 〜江戸時代の禁教政策と民衆〜 (講談社学術文庫)』。他の異端も「切支丹」と呼ばれた。キリスト教徒の「切支丹」の潜伏の実態 遠藤周作『沈黙 (新潮文庫) 』。苦しくて、辛くて、祈りに祈るのに、なぜ、神は沈黙するのか? ●マーティン・スコセッシ監督によって映画化された→
大橋幸泰『潜伏キリシタン 〜江戸時代の禁教政策と民衆〜 (講談社学術文庫)』。他の異端も「切支丹」と呼ばれた。キリスト教徒の「切支丹」の潜伏の実態 遠藤周作『沈黙 (新潮文庫) 』。苦しくて、辛くて、祈りに祈るのに、なぜ、神は沈黙するのか? ●マーティン・スコセッシ監督によって映画化された→

■ 馬込文学マラソン:
北原白秋の『桐の花』を読む→
芥川龍之介の『魔術』を読む→

■ 参考文献:
●「評伝」(山本太郎)、「年譜」(北原隆太郎)※『北原白秋(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行)P.26-31、P.105 ●『五足の靴と熊本・天草』(編著:濱名志松 国書刊行会 昭和58年初版発行 平成20年発行9刷)P.5-12、P.177-180、P.186、P.196 ●「天草弁で説教したガルニエ神父」(河村規子のりこおらしょ(長崎県文化振興·世界遺産課)→ ●「キリシタン」(松田毅一)※『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)に収録コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
2023.7.28

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