魔術師の名は、マテイラム・ミスラ。
テーブルクロスの花柄をつまんで取り出してみたり、灯の入ったランプを独楽
のように回してみたり、本棚の本をコウモリのように部屋中に飛び交わしたりできる。
しかも、この男、“実在の人物”というのだから驚く。小説の中で著者(芥川龍之介)は言う。
マテイラム・ミスラ君と云
へば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。
と。今、「マテイラム・ミスラ」と言われても 「誰? その人?」であろうが、この小説『魔術』が発表された頃(大正9年頃)は、「ああ、あの人ね!」と思い当たる人も少なからずいたようなのだ。
実は『魔術』が発表される3年ほど前、谷崎潤一郎が『ハッサン・カンの妖術』という小説を書いていて、マテイラム・ミスラが出てくる。たぶん架空の人物だろう。それを芥川はまことしやかに引用したというわけ。“実在した”といっても、谷崎の小説の中に。
架空のことと分かり切っていても、引用されるとき、そこに不思議な真実味がかもし出される(歴史修正主義者などが悪用しそう)。 これも一種 の“魔術” と言えなくもない。
『魔術』について
芥川龍之介の短編小説(青空文庫→)。大正8年11月10日(27歳)に脱稿、翌大正9年に発表された。1年前の大正7年に書かれた『
蜘蛛
の糸』(思いやりを失うことによる身の破滅。青空文庫→)、翌年の大正9年に書かれる『
杜子春
』(全てを失った人物がその真心で救済される。青空文庫→)と同様教訓的。3作品とも児童文芸誌「赤い鳥」に掲載された。
この頃芥川は、実父を喪い、横須賀の海軍機関学校の英語教師を辞して鎌倉から養父母の家(東京都北区田端一丁目19-18 map→ photo→)に居を移し、家計を支えるようになった。執筆量をこなすため、食卓まで駆けていき、片膝立てで食事をし、また執筆に戻る、といったエピソードが残る。妻以外の女性(秀
しげ子)に心惹かれ、最大の親友・小穴隆一とも出会う。この変化の多い時期の不安定さが主人公に投影されているかもしれない。
『魔術』は当地(東京都大田区大森)が舞台になっている。 魔術師・マテイラム・ミスラの住所を、谷崎は『ハッサン・カンの妖術』で「山王一二三番地」としている。当時の山王は全て4桁の数字で番地を表したようで、存在しない場所のようだ。
●YouTube/『魔術』作:芥川龍之介(朗読&ピアノ:林 健樹)→
|
|
芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇(岩波文庫)』。「魔術」も収録 |
谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンス〈6〉異国綺談 (中公文庫)』。「ハッサン・カンの妖術」を収録 |
芥川龍之介について
10歳にして古典から近代文学までを読む
明治25 年3月1日(1892年)、
明石町
(現在の「聖
路加
国際病院」(東京都中央区明石町9-1 map→)の近く。「芥川龍之介生誕の地」案内板がある photo→) で生まれる。
辰
年辰月辰日辰時に生まれたことから龍之介と名づけられた (十二支の辰には
龍
の意も)。 生後8ヶ月頃、実母・フクが発狂、フクの実兄・芥川
道章
に預けられ、東京本所(東京都墨田区両国三丁目21-18 map→。「芥川龍之介生育の地」の案内板がある photo→)に住む。11歳で道章の養子になった。 道章の妹でフクの姉のフキも同居、彼女の早期教育によって5歳から文字を読み、10歳で近松門左衛門などの江戸文学や泉 鏡花などの近代文学を読む。 後年、芥川はフキのことを「僕の生涯を不幸にした人で、無二の恩人」と語った。
夏目漱石から認められた理知派
明治43年(18歳)、第一高等学校に入学。 菊池 寛や久米正雄と同級で、落第した山本有三とも同じクラスとなる。倉田百三や矢内原忠雄とも同期。 大正2年( 21歳)東京帝国大学英文科に入学。 菊池、久米、山本らと「新思潮(第3次)」を創刊(大正3年)、大正4年(23歳)夏目漱石 (48歳)の木曜会に参加し門下となる。「新思潮(第4次)」(大正5年)の創刊号に掲載した「鼻」が漱石から賞賛される(漱石はその大正5年の12月に死去)。卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」。
卒業後、神奈川県横須賀の海軍機関学校の英語教師をしつつ執筆。大正7年(25歳)、塚本
文
(17歳)と結婚。「大阪毎日新聞」と執筆契約を結び、翌年(大正8年)、海軍機関学校を辞する。彼の書斎は「餓鬼窟」と呼ばれてサロン化し、集った小島政二郎らに影響を与えた。
初期の「羅生門」「鼻」などは『今昔物語』から想を得たものだが、以後、「王朝物」「切支丹物」「開化物」「現代物」など、様々な文献からモチーフをとり、江戸の美意識やユーモア、諧謔
を織り交ぜて独自の理知的・批評的な小説空間を築いた。
世間を驚かせた「花形小説家」の最期
大正10年 (29歳)、4ヶ月間の中国旅行後から神経衰弱がちとなり、創作でも行き詰まる。プロレタリア文学運動が勃興、社会主義関連の文献を読みあさり脱皮を企ろうとした。また、志賀直哉の「筋のない小説」にも関心を寄せ、志賀を訪ね、助言を請う。 大正13年、14年の夏は軽井沢で楽しげな日々を送ったが、翌大正15年始めから、神奈川県湯河原の中西屋や、神奈川県鵠沼の東屋旅館での療養生活を余儀なくされる。昭和2年に入ると姉ヒサの家が全焼し、2日後には放火の疑いをかけられたヒサの夫(芥川からすると義兄)が鉄道自殺をし、芥川はその後始末に奔走。友人の結婚式の媒酌人を引き受けるなど、知り合いの面倒もよく見た。“いい人”過ぎたのかもしれない。
昭和2年(1927年)7月24日未明、田端の自宅で催眠薬を致死量飲んで自殺。前夜までイエス論『西方の人』を書いていた。35歳だった。墓所は慈眼寺(東京都豊島区巣鴨五丁目35-33 map→)(
)。
妻の文
は、芥川亡き後も芥川の3人の伯父伯母と同居し3人を看取り、3人の息子(長男:俳優の芥川
比呂志
、次男:画文の才能を発揮しつつも戦死した芥川
多加志
、三男:作曲家の芥川
也寸志
を育て上げた。 芥川のおよそ2倍生き、昭和43年、68歳で死去。
■ 芥川龍之介 評
●「芥川の短篇小説のいくつかは、古典として日本文学に立派に残るものである。・・・(中略)・・・『
手巾
』は短編小説の極意である」(三島由紀夫)
●「平常から一たいに他人に悪く思はれたくない男」(室生犀星が小説『青い猿』で、芥川がモデルと思しき人物を評して)
●「彼は最初から完璧なマイナー・ポエット(Minor Poet:直訳では目立たない詩人だが、熱烈な読者を持つと意味が含まれる)であることを目ざし、しかもそのことに成功した文学者だ」(丸谷才一)
|
|
『芥川龍之介 (新潮日本文学アルバム)』。評伝:関口安義。エッセイ:丸谷才一 |
芥川龍之介『地獄変・邪宗門・好色・薮の中 他七篇 (岩波文庫)』 |
芥川龍之介と馬込文学圏
東京府立第三中に入学した年(明治38年。13歳)、遠足で本門寺や、新田義興伝説が残る新田神社や「矢口の渡し」などを巡り「修学旅行の記」を残す。
当地(東京都大田区)には、芥川がいた東京田端から流れてきた萩原朔太郎や室生犀星、「赤い鳥」つながりの北原白秋、憧れの片山広子らが住んでおり、何度か訪れている。
■ 作家別馬込文学圏地図 「芥川龍之介」→
参考文献
●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 昭和58年2刷参照)P.12-38、P.106、P.82-90、P.105-106 ●『馬込文学地図』 (近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.178-188 ●『昭和文学作家史』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.77、P.87-91 ●『三島由紀夫評論全集(第一巻)』(新潮社 平成元年発行)P.68-70 ●『断髪のモダンガール(文春文庫)』(森 まゆみ 平成22年発行)P.90 ●『芥川龍之介全集 2』(筑摩書房 昭和39年初版発行 昭和41年7版参照)P.119-125 ●『物語の娘 ~宗 瑛を探して~』(川村 湊 講談社 平成17年発行)P.52-65
参考サイト
●芥川龍之介文学散歩→ ●Storia‐異人列伝/龍之介、完璧なマイナー・ポエット― 丸谷才一→
謝辞
●俳優のH.K様より励ましのお言葉をいただきました。ありがとうございます。
※当ページの最終修正年月日
2023.4.29
この頁の頭に戻る |