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| 芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇(岩波文庫)』。「魔術」も収録 | 谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンス〈6〉異国綺談 (中公文庫)』。「ハッサン・カンの妖術」を収録 |
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| 芥川龍之介 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』 |
10歳にして古典から近代文学までを読む
明治25 年3月1日(1892年)、
夏目漱石から認められた理知派
明治43年(18歳)、第一高等学校に入学。 菊池 寛や久米正雄と同級で、落第した山本有三とも同じクラスとなる。倉田百三や矢内原忠雄とも同期。 大正2年( 21歳)東京帝国大学英文科に入学。 菊池、久米、山本らと「新思潮(第3次)」を創刊(大正3年)、大正4年(23歳)夏目漱石 (48歳)の木曜会に参加し門下となる。「新思潮(第4次)」(大正5年)の創刊号に掲載した「鼻」が漱石から賞賛される(漱石はその大正5年の12月に死去)。卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」。
卒業後、神奈川県横須賀の海軍機関学校の英語教師をしつつ執筆。大正7年(25歳)、塚本
初期の「
世間を驚かせた「花形小説家」の最期
大正10年 (29歳)、4ヶ月間の中国旅行後から神経衰弱がちとなり、創作でも行き詰まる。プロレタリア文学運動が勃興、社会主義関連の文献を読みあさり脱皮を企ろうとした。また、志賀直哉の「筋のない小説」にも関心を寄せ、志賀を訪ね、助言を請う。 大正13年、14年の夏は軽井沢で楽しげな日々を送ったが、翌大正15年始めから、神奈川県湯河原の中西屋や、神奈川県鵠沼の東屋旅館での療養生活を余儀なくされる。昭和2年に入ると姉ヒサの家が全焼し、2日後には放火の疑いをかけられたヒサの夫(芥川からすると義兄)が鉄道自殺をし、芥川はその後始末に奔走。友人の結婚式の媒酌人を引き受けるなど、知り合いの面倒もよく見た。“いい人”過ぎたのかもしれない。
昭和2年(1927年)7月24日未明、田端の自宅で催眠薬を致死量飲んで自殺。前夜までイエス論『西方の人』を書いていた。35歳だった。墓所は
妻の
■ 芥川龍之介 評
●「芥川の短篇小説のいくつかは、古典として日本文学に立派に残るものである。・・・(中略)・・・『
●「平常から一たいに他人に悪く思はれたくない男」(室生犀星が小説『青い猿』で、芥川がモデルと思しき人物を評して)
●「彼は最初から完璧なマイナー・ポエット(Minor Poet:直訳では目立たない詩人だが、熱烈な読者を持つと意味が含まれる)であることを目ざし、しかもそのことに成功した文学者だ」(丸谷才一)
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| 『芥川龍之介 (新潮日本文学アルバム)』。評伝:関口安義。エッセイ:丸谷才一 | 芥川龍之介『地獄変・邪宗門・好色・薮の中 他七篇 (岩波文庫)』 |
東京府立第三中に入学した年(明治38年。13歳)、遠足で本門寺や、新田義興伝説が残る新田神社や「矢口の渡し」などを巡り「修学旅行の記」を残す。
当地(東京都大田区)には、芥川がいた東京田端から流れてきた萩原朔太郎や室生犀星、「赤い鳥」つながりの北原白秋、憧れの片山広子らが住んでおり、何度か訪れている。
●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 昭和58年2刷参照)P.12-38、P.106、P.82-90、P.105-106 ●『馬込文学地図』 (近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.178-188 ●『昭和文学作家史』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.77、P.87-91 ●『三島由紀夫評論全集(第一巻)』(新潮社 平成元年発行)P.68-70 ●『断髪のモダンガール(文春文庫)』(森 まゆみ 平成22年発行)P.90 ●『芥川龍之介全集 2』(筑摩書房 昭和39年初版発行 昭和41年7版参照)P.119-125 ●『物語の娘 ~宗 瑛を探して~』(川村 湊 講談社 平成17年発行)P.52-65
●芥川龍之介文学散歩→ ●Storia‐異人列伝/龍之介、完璧なマイナー・ポエット― 丸谷才一→
●俳優のH.K様より励ましのお言葉をいただきました。ありがとうございます。
※当ページの最終修正年月日
2025.4.21