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しない(大正11年7月27日、芥川龍之介、志賀直哉邸を訪れる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

志賀直哉

大正11年7月27日(1922年。 芥川龍之介(30歳)が、志賀直哉(39歳)の家(千葉県我孫子あびこみどり二丁目7 Map→)を訪れました。

芥川は前年(大正10年)の4ヵ月に及ぶ中国の旅の後、健康が優れませんでした(旅の途中、肋膜炎を患い中国の病院に3週間ほど入院した)。芥川は、志賀の「沈黙の3年間」(大正3~5年。 志賀31~33歳)のことを熱心に訊ねたそうです。25歳頃から花形作家として走り続けた芥川はこの頃はもう息が切れ、なんとか書かないでいられまいかと模索したようです。

この時の2人のやり取りを、芥川が自死した2ヶ月後(昭和2年9月)、志賀(44歳)が 『沓掛くつかけにて ~芥川君のこと~』 (『志賀直哉全集〈第6巻)』Amazon→に収録)に書いています。

・・・芥川君は三年間程私が全く小説を書かなかつた時代の事をしきりに聞きたがつた。そして自身さういふ時機に来てゐるらしい口吻こうふんで、自分は小説など書ける人間ではないのだ、といふやうな事をつてゐた。
 私はそれは誰にでも来る事ゆゑ、一々に受けなくてもいいだろう、冬眠してゐるやうな気持で一年でも二年でも書かずにゐたらどうです、と云つた。 私の経験からいへば、それで再び書くやうになつたと云ふと、芥川君は、「さういふ結構な御身分ではないから」とつた。
 芥川君は私に会つたら初めからこの事をいて見る気らしかつた。 しかし私の答へは芥川君を満足させたかどうか分からない。
 後で思つた事だが、私のやうに小説を書く以外全く才能のない人間は行きづまつても何時いつかはまた小説へ還るより仕方ないが、芥川君のやうな人は創作で行きづまると研究とか考証とかいふ方面にれて行くのではないかと。しかし今にして見れば芥川君は矢張やっぱりさうはなり切れなかつた人かも知れない。・・・(志賀直哉『沓掛にて ~芥川君のこと~』より)

芥川の東京田端の家には妻と子ども(この時点で、長男の比呂志ひろしがいた。この年(大正11年)の11月に次男の多加志たかしが誕生)のほか養父母と伯母がいました。彼は筆一本で彼らを養わなければならなかったのです。実家が裕福で、数年書かないでもなんとかやっていける志賀とは違いました。 志賀からアドバイスを受けたというより、芥川にしてみればそういった違いを突きつけられた形だったかもしれません。

でも、芥川とてその気になれば何年間かぐらいは、書かないでいることができたかもしれません。別の仕事で食いつなぐことだってできたでしょう。宇野浩二が評したように芥川は限りなく“いい人”であり、周りの期待に背くことができなかったのでしょう。志賀は芥川の死を「仕方ない事だった」と感じたと書いています。

「書かない」または「書けない」にもいろいろパターンがあるでしょうが、志賀の場合は、どうだったでしょう。

志賀の沈黙の3年間」は、「白樺」の大正3年4月号に短編『 を盗む話』を発表したあとから(志賀31歳)、大正6年(志賀34歳)に発表を再開するまでの期間です。

『児を盗む話』は、題名から察せられるように相当ヤバい小説です。主人公の「私」が、マッサージ師の5歳くらいの可愛いい女の子を自宅に連れ込こみ、警察に引かれていくまでが書かれています。最初の部分の「私」の行動(父親にののし られて家を出て、瀬戸内海沿いの町で一人暮らしを始めた)は、まさに志賀自身のもので、後半が人さらいです。後半はもちろん事実ではありませんが、なぜ、このような誤解を生みかねない小説の構造にしたのでしょう? 志賀は自他を美化しないので(卑下もしない)、実際に行動しなくても、志賀自身そういったこと(人をさらうこと)に近いことを妄想することがあったのではないでしょうか。そういった人に言いたくないような妄想も志賀は書いたのです、おそらく。(そんなことをもって志賀文学を全否定する人もいたりして?)。

この頃、志賀は、他にも、ヒゲり名人の床屋が客ののどき切るまでの心理を描いた『剃刀かみそり』(明治43年志賀27歳)、実直なクリスチャンの青年が好きでもない女に言い寄られて次第に愛欲の中に落ち、しまいにはその女を殺してしまう(殺してしまったと妄想する?)『にごった頭』(明治44年志賀28歳)、奇術師が妻を板の前に立たせて体の回りにナイフを突き立てる芸をしている最中、本当に妻を刺し殺してしまう(それが故意なのか、過失なのかが分からない・・・)『はんの犯罪』(大正2年志賀30歳)など、恐ろしい作品を連発しています。この3作品の主人公は、表面的には志賀と異なりますが、やはり、志賀的要素(癇性かんしょう (怒りっぽさ)とか、クリスチャンだったりとか)もあります。

これらの作品で志賀は自分の中のドロドロしたものを吐き出し切って、沈黙期間に入ったのではないでしょうか。それこそ一か八かの小説家としての真剣勝負、それを戦い抜き、休息期間に入ったと言えるでしょうか。

『児を盗む話』を発表した大正3年4月には、志賀はまだ当地(大森山王。住所は「東京府下大井町鹿島谷4755」で現在の東京都品川区)にいましたが、1ヶ月後の大正3年5月、島根県の松江に移転します。里見 弴もやってきて共同生活し(一軒づつ家を借りて隣り合わせに住んだ?)、2人して毎日宍道湖に出てボートを漕ぎまくりました。ともかく体を動かして「健全にならなくてはいかぬ」志賀直哉『稲村雑談』より)との思いでした。

同年(大正3年)12月、武者小路実篤の従妹の康子さだこ と結婚、直後から彼女が神経衰弱になって、彼女の心に良さそうな土地を求めて、京都から鎌倉、群馬県の赤城山山麓、そして、我孫子へと転居を繰り返しました。父が康子との結婚に反対だったので父の戸籍から抜けて一家を構えました。長女が死去するという悲しい出来事もありました。小説は発表しませんでしたが、いろいろとやること(やらなければならないこと)もあったのですね。

また、夏目漱石からの新聞連載のすすめを断ったのも大きかったでしょう。新聞小説のように毎日、決まった分量を、一定期間書き続けるのは、性に合わなかったのでしょう。そして、漱石の手前、他の作品を発表するのもはばかられ、3年ほどブランクができたのかもしれません。これが一番の理由かもしれません。漱石が亡くなる大正5年12月9日の直後から志賀は盛んに作品を発表し始めます(書いてなかったのではなく、発表を控えていたのかも)。

大正6年になって(34歳)、5月に校正に校正を重ねた『城の崎にて』、6月に漱石に捧げた『佐々木の場合』、9月に伊達騒動を背景にした『赤西蠣太』、父との和解を契機に書き切った『和解』、その他、『好人物の夫婦」など佳作・傑作を連発。翌大正7年の1月には、これらをまとめて『夜の光』を発行(この作品集は若い川端康成にも大きな影響を与えた)、志賀の文名は不動のものとなりました。

今の自分の状況を正直に受け入れて、悪あがきしない。書きたくなければ書かないという姿勢と、彼の「ズバリ書くが、余計なことは一切書かない文体」とは無縁でないでしょう。文は人なり。原稿用紙のマスを埋めるために(お金や人気を得るために)作文するなんてことは、志賀に限っては一度もなかったのではないでしょうか?

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西原理恵子『はれた日は学校をやすんで (双葉文庫)』。世に静かな衝撃を与えた表題作ほか。が、作者はナチスがやったことを少しはご存知? 筒井康隆『断筆宣言への軌跡』(光文社)。メディアでの言葉の規制に抗して、筆を折るまで。「しない」戦い
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■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む→
志賀直哉の『暗夜行路』を読む→

■ 参考文献:
●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 昭和58年発行2刷)P.68-69 ●『昭和文学作家史(別冊1億人の昭和史)』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.77 ●『志賀直哉(上)(岩波新書)』(本多秋五 平成2年発行)P171-187 ●「評伝」「略年譜」(紅野敏郎こうの・としろう)※『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.37-39 ●『児を盗む話』『剃刀』『濁った頭』『范の犯罪』(志賀直哉)※「清兵衛と瓢箪・網走まで(新潮文庫)」(昭和43年初版発行 昭和52年発行17刷)に収録

※当ページの最終修正年月日
2023.7.27

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