「伊達騒動」を題材にした歌舞伎『
早苗鳥伊達聞書
』 の一場面。原田甲斐が伊達安芸
に切り掛かっているところ ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」(
豊原
国周
(1835-1900)の浮世絵)を使用 出典:「市史通信(第27号)」(仙台市博物館)
寛文11年3月27日(1671年。
大老・酒井
雅楽頭
邸での裁判の最中、仙台藩の重臣・原田
甲斐(52歳)が、同藩の伊達
安芸
(55歳)を斬殺しました。万治3年(1660年)から始まった「伊達騒動」(「寛文事件」とも)の終盤に起きた事件です。
事件後40年ほどして「伊達騒動」を題材にした歌舞伎・狂言・浄瑠璃が上演され(歌舞伎の 『
伽羅先代萩
』(以下『先代萩』)が有名)、その影響で、多くの人が原田甲斐を“悪人”と思ってきました。仙台藩の幼君(後の4代目藩主・綱村)を亡き者にしようと企み、最後の裁判の場で、不利になるや腹立ち紛れに伊達安芸に斬り付けるのですから。
この「甲斐“悪人”説」が主流でしたが、敗戦後、甲斐の評価が逆転します。
昭和29年、山本周五郎(51歳)が小説『樅ノ木は残った』(以下、『樅ノ木』)を連載、これが大ヒットして、甲斐を忠臣(ヒーロー)と思う人が激増します。忠臣と言っても、皆に褒め称えられるヒーローではなく、罪を一身に負って、誹謗中傷の中一人で死んでいく悲劇的なヒーローです(人々の罪を負って死んだとされるイエスと重なる)。昭和45年放送のNHK大河ドラマにもなって(平 幹二朗が甲斐を演じた)、「甲斐“ヒーロー”説」が定着した感がありました。周五郎は、村上
浪六
(35歳)の 『原田甲斐』(NDL→)や、当地(東京都大田区)で見た映画「原田甲斐」、『樅ノ木』の2年前(昭和27年)に発行された、中山
義秀
(52歳)の『原田甲斐』(『新編 中山義秀自選歴史小説集〈第4巻〉』(Amazon→)に収録)なども参照したのではないでしょうか。
演芸や文芸や映像の影響力は絶大で、あたかも真実のように、甲斐は悪人、または甲斐はヒーロー、と語られてきましたが(歴史の語られ方も問われる)、実際はどうだったのでしょう?
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大槻文彦 |
江戸時代の終わり頃から、演芸や文芸で歪められた「伊達騒動」の事実を正そうとする動きがありました。
江戸後期の蘭学者・大槻玄沢
が「伊達騒動」の史料の収集を始め、その次男の大槻
磐渓
がそれを継承、それをさらに磐渓の息子の大槻
文彦
が継承・増補して、初の本格的研究書『伊達騒動実録』(以下、『実録』)を明治42年に発行しました。明治の「開明の気運」の中で達成された偉業です。この大著(計1,400頁にも及ぶ)によって、『先代萩』などに含まれる虚伝が否定され、甲斐の悪行を認めつつも、巨悪は別のところにあり、甲斐はその巨悪に付和雷同していると解釈しました。
大正になると、『実録』とは解釈の異なる『先代萩の真相』(以下、『真相』)という大著(『実録』の1/3ほどだが500頁に及ぶ)が田辺実明
によって著されます。ここで「甲斐“ヒーロー”説」が説かれました。『先代萩』では、甲斐に斬られた伊達安芸こそ忠臣(ヒーロー)でしたが、『真相』では、安芸が私憤(式部との領地争いに破れた)を晴らすために、甲斐やその上司の伊達兵部を幕府に訴えて陥れた“悪人”と解釈されます。許しがたしと安芸を斬った甲斐の方に義があったとしたのです。旧来の説を真っ向から否定する説が生れ得たのは、自由を尊重する「大正デモクラシーの気運」があったからとされます。
これらの研究書などによって明らかになりつつある「伊達騒動」の実像を簡単に追うと、その発端に、甲斐による安芸殺害の11年前の万治3年(1660年)、仙台藩3代目藩主・伊達
綱宗
(21歳。4代将軍・家綱の治世であり、「綱」の字を拝領)の
逼塞(門を閉ざして昼間の出入りが禁じられること)があります。綱宗の遊郭吉原通い(このことから綱宗が遊女・高尾を隅田川でつるし斬りにしたという虚説(?)が生まれる)と酒乱(酒を好んだのは確かなようだ)を咎め、綱宗の隠居を願う連判状が伊達弾正ら14名の重臣から、立花飛騨守(47歳。綱宗の義兄。柳河藩2代目藩主)と伊達兵部
(39歳。仙台藩初代藩主・伊達政宗の十男。綱宗の叔父)に出されました。藩内で解決するのが難しいとの判断からか、2人は幕府に上達、幕府から、綱宗に逼塞が言い渡されました。綱宗は仙台藩の桜田上屋敷(「日比谷公園」(東京都千代田区日比谷公園1 Map→)の東北角にあった)から仙台藩の大井下屋敷(品川区の旧仙台坂の南側にあった。裏玄関に植えられたタブノキが現存する(東京都品川区東大井四丁目3-1 Map→)に移ります。『樅ノ木』では、綱宗に逼塞が命じられた翌日(7月19日)、兵部の息がかかっていると思しき者らが、綱宗に近い存在の畑 与右衛門らを斬殺しますが、これは史料にあることなのでしょうか? それとも、兵部を悪役として、主要な小説内人物の宇乃を登場させるための“仕掛け”でしょうか?
5年後の寛文5年(1665年)より、領地の境界を巡り、伊達式部
と伊達安芸とが紛争し、幼君・亀千代(のちの仙台藩4代目藩主・綱村)の後見役として実権を握っていた兵部が検地を行って境界を裁定しますが、そのやり方に不服な安芸が兵部らを幕府に訴え、酒井邸での審問となりました。安芸のやり方にかねがね不満の兵部寄りの甲斐が、その場で、憤激のあまりに安芸を斬ったというのがそのあらましです。事件後原田家は、乳幼児に至るまで男子は殺され、家は断絶。兵部も責任を問われて高知の山内家にお預けとなります。
『樅ノ木』の推理では、大老・
酒井
雅楽頭
と兵部が繋がっており(兵部の嫡子・宗興
は酒井の妻の妹と婚約したという事実はある)、2人が共謀して、仙台藩を食いものにしようとしていたのを、甲斐が兵部の懐に飛び込んで、自らが悪役となり、兵部も道連れにして、仙台藩を救ったというものです。感動的ですが、ちょっと(かなり)無理があるかな?
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当地にある「仙台坂」(くらやみ坂。東京都品川区東大井四丁目と南品川五丁目の境 Map→)。この坂の中程に綱宗の屋敷があった。彼は21歳から72歳で没するまでここに隠棲した |
甲斐が安芸を斬った酒井家上屋敷の跡(東京都千代田区大手町一丁目2-4 Map→)。武士の先駆け平将門を祀った「将門塚」も建つ。将門は神田明神の祭神であり、神田祭のおり神事が行われる |
志賀直哉も『赤西蠣太
』(Amazon→)という「伊達騒動」を巡る愉快な話を書いています(※伊丹万作による映像化(Amazon→))。
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小林清治『伊達騒動と原田甲斐 (読みなおす日本史)』(吉川弘文館)。一次資料の精読から、どのような「伊達騒動」像と原田甲斐像が浮かび上がってくるだろうか |
福田千鶴『御家騒動 〜大名家を揺るがした権力闘争〜 (中公新書)』。御家騒動があると幕府がその藩を取り潰したというが、どこまで真実か。幕藩体制を捉え直す |
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安田敏朗『大槻文彦『言海』〜辞書と日本の近代〜』(慶應義塾大学出版会)。『実録』の著者は、日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者でもあった |
田中優子、松岡正剛『江戸問答 (岩波新書)』。江戸時代はいかなる時代だったのか。江戸時代に思いを馳せる現代的な意味とは |
■ 馬込文学マラソン:
・ 山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→
・ 志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
■ 参考文献:
●『伊達騒動と原田甲斐』(小林清治 吉川弘文館 平成27年発行)P.7-23、P.177-180 ●「市史通信(第27号)」(仙台市博物館市史編さん室 平成24年3月31日発行) ●『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年初版発行 昭和61年発行2刷)P.6、P.80-85 ●『馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.210
■ 謝辞:
・ 仙台在住のTomkoba様より資料を送っていただきました。ありがとうございます。
・ 東北大学名誉教授のGH様より誤記のご指摘と励ましのお言葉をいただきました。ありがとうございます。
※当ページの最終修正年月日
2024.3.27
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