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馬小屋の飼い葉桶で生まれたナザレのイエスは、多くの人に希望を与えながらも、罪人として死んでいった 明治36年6月22日(1903年。
山本周五郎が山梨県
この「物置小屋誕生説」を、当の周五郎は気にいっていたようです。なぜなら、終生敬愛していたナザレのイエスに似ていたから。イエスも馬小屋の 周五郎は父(清水逸太郎)もクリスチャンだったらしく、横浜時代(西区 周五郎は当地(東京都大田区)で15年間過ごしたあと横浜に戻りますが、その頃から『聖書』をまた読むようになったようです。代表作の一つ『樅ノ木は残った』の主人公・原田甲斐は罪を一身に背負って死んでいきました。イエスのイメージと重なります。 芥川龍之介は昭和2年7月24日、自ら命を断ちますが、死の前夜まで『続西方の人』を書いていました(末尾に7月23日の日付がある)。“西方の人”とは、パレスチナの地で活動したとされるイエスのこと。芥川のイエス論です。 『続西方の人』の「共産主義者」という章に次の一節があります。 クリスト〔イエス・キリストのこと〕はあらゆるクリストたちのように共産主義的精神を持っている。もし共産主義者の目から見るとすれば、クリストの言葉はことごとく共産主義的宣言に変わるであろう。彼に先立ったヨハネさへ「二つの衣服を持てる者は持たぬ者に分け与えよ」と叫んでいる。・・・ ゴリゴリの資本主義者(一部の偏狭なクリスチャン・似非クリスチャン)は、マルクスの言葉「宗教は民衆のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学批判序説』(Amazon→)を取り上げて、「共産主義・社会主義は宗教の敵だ!」とまくし立てますが、芥川がとうに見抜いたように、 両者の思想は極めて似ています。キリスト教の根本は「受容(許し、愛、それに伴う分配)」ですが、これはまさに、社会主義(共産主義、アナキズム、民主主義を含む。国家主義の対極)が目指すことです(全体主義や独裁に陥って失敗することも多いが・・・)。日本の社会主義者で、キリスト教に共感していた人は少なくないでしょう。なお、「教祖」「聖職者」「教団幹部」の言うことを
付け加えると、自らの信じているものを優位にしようとしてか、何かとイスラム教を批判する偏狭なクリスチャンもいるかもしれません。クリスチャンとムスリム(イスラム教徒)は「同じ神」を信じていること、偶像崇拝の禁止、聖職者の権威化の否定、また受容性(イスラム教ではイエスを預言者として認めている)ではイスラム教の方がキリスト教よりも「神」の教えをよく守っている(?)ことを知ってのことでしょうか。 資産家だった有島武郎が北海道の有島農場を農民に解放したのも、徳富蘆花が教会に莫大な献金をしたのも、キリスト教または社会主義の理念に賛同してのことでしょう。 「芥川や有島は自死したからダメ」と冷たく言い放つ“正しいクリスチャン”がいるかもしれませんが、芥川は「まざまざとわたしに呼びかけているクリストの姿を感じ」(芥川『続西方の人』より)つつ 、内村鑑三がそうだったように「イエスを友にして(と共に)」逝きました。芥川の死の枕辺には「聖書」がありました。
殉教は「分配」の最たるものでしょう。自らの体をも分け与えるのですから。北海道の塩狩峠でイエスの精神にのっとって自らの命を投げだして多数の命を救った実在の方をモデルに三浦綾子は『塩狩峠』(Amazon→)を書きました。この書に心打たれ、教会の扉を叩いた方もいるのではないでしょうか。 三浦には当地に本社のあるクリーニング店「白洋舎」の創業者・五十嵐健治のことを書いた『夕あり朝あり』(Amazon→)という小説もあります。本社ビルには「五十嵐健治記念洗濯資料館」(東京都大田区下丸子二丁目11-8 Map→)があり、彼の遺品や、初期のクリーニング道具などが展示されているそうなので、読書とあわせて足を運んでみてはいかがでしょう。 キリスト教に共感を覚える社会主義者が多いように、社会主義に共感を覚えるクリスチャンも少なくないことでしょう。三浦も特高に虐殺された小林多喜二の母親をモデルに『母』を書いています。 後におっぱいプルンプルンの志賀直哉ですが、18歳から7年間、内村鑑三の元に通ってキリスト教を学びました。 昭和初期の言論抑圧事件として知られる「矢内原事件」の矢内原忠雄(7年ほど当地(東京都大田区山王二丁目)にいた)のバックボーンにもキリスト教がありました。息子の哲学者・
当地(東京都大田区)を舞台にした高村 薫さんの小説『レディ・ジョーカー』には、当地に実在する教会が3つ出てきます。また、作中、登場人物の新聞記者の
キリスト教の大きな魅力は、「小さい人」「貧しい人」「弱い人」「悲しむ人」「虐げられている人」「罪の意識に苦しむ人」こそが、そうでない人よりも天国に近いと説いたところにあります。何かに欠乏しているからこそ、人は「真理」に心を開くことができるのでしょう。偉大な思想は相通じるもので、親鸞の「悪人正機の説」が思い起こされます。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |