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昭和12年11月30日(1937年。
文部大臣官邸で、東京帝国大学(以下、東京帝大)総長・
矢内原は大正9年(27歳)、母校の東京帝大経済学部の助教授に就任、大正12年30歳という若さで教授になりました。新渡戸稲造の植民地論を引き継ぎ、いかに統治するかではなく、「そもそも植民地はなぜあるのか?」といった根源的な問題を論考。昭和4年(36歳)に『帝国主義下の台湾』、昭和9年(41歳)に『満州問題』を発行しますが、同年(昭和9年)両書の増刷が禁止されました。 活動の場を学会に限定する大学教授が多い中、矢内原は総合雑誌や新聞にも度々書いて一般人にも影響を与えていたので、標的になったのでしょう。昭和11年、「中央公論」(1月号)に掲載された「真理と戦争」で矢内原(43歳)は、軍事教練の鼓吹や軍備費の肥大化を批判、求められるのは「平和教練」であると主張しました。それを槍玉にあげたのが、神がかり的な日本主義者・
そして、翌昭和12年、「中央公論」(9月号)に掲載する予定だった矢内原(43歳)の論文「国家の理想」が、当局からの全文削除の指示を受けます。一般論を出る内容ではありませんでしたが、もはや、矢内原が発言するだけで「けしからん」だったのでしょう。講演の時はもちろん、日常生活にも警察が頻繁に姿を現すようになりました。 そして、昭和12年11月30日、冒頭に書いたように、文部省からの意向が伝えられ、長与総長は矢内原に辞職を促し、矢内原は翌日(昭和12年12月1日)、「退官願」を提出します(「矢内原事件」)。
「矢内原事件」と並行して、東京帝大経済学部内は、明治節に職員・学生が揃って明治神宮に参拝すべきか否かで紛糾していました(文部省から「明治節奉祝ニ関スル件」という通達があった)。経済学部教授・
「教授グループ事件」は「人民戦線事件」の一貫です。「人民戦線事件」は、治安維持法を適用した弾圧事件で、昭和12年から翌昭和13年にかけて484名(11名の大学教授を含む)が検挙されました。 矢内原が発言の場とした「中央公論」「改造」は、昭和17年の「横浜事件」で廃刊に追い込まれました。
4年前(昭和8年)の「滝川事件」では、京都帝国大学(以下、京都帝大)の刑法学者・滝川
立派なのが、滝川への辞職勧告は「学問の自由」「大学の自治」の侵害であるとして、京都帝大法学部の全教官が辞表を提出したこと(説得されて撤回した人もいたが2/3の教官が京都帝大を去った)。近年の「学術会議の任命拒否事件」では何人がそれに抗議し、何人が学術会議を去ったでしょうか?
「滝川事件」の2年後(昭和10年)に「天皇機関説事件」が起きました。「天皇機関説」は国民の代表機関たる議会が内閣を通して天皇の意思を拘束しうるとするもので、すでに国家公認の憲法学説でした(天皇主権の否定、天皇の神格的超越性の否定)。「天皇機関説」を主唱した元・東京帝大法学部教授で貴族院議員だった美濃部達吉に対し、貴族院議員・菊池武夫が「国体に対する謀反」と非難し断固とした措置を要求したのです。美濃部は不敬罪で告訴され、著書が発禁となり、貴族院議員辞任に追い込まれました。さらには、翌昭和11年暴漢に襲われ負傷します。 まだまだありますが、これだけ見ても、現今の戦前回帰の風潮(八紘一宇や教育勅語や「不敬であるぞ」など)がいかにおぞましいものかがお分かりかと思います(なんでこのくらいのこと義務教育期間に教えないのだろう? 親も先生も知らなかったりして?(なら、子どもや生徒が教えてあげましょう))。 戦前の言論弾圧の火中にあった人物で、戦後は三顧の礼をもって東大の総長に迎えられた人物(矢内原忠雄)が、当地(東京都大田区)に約7年も住んでいたことを最近知って驚きました。区発行の印刷物ではほとんど紹介されないようです(平成8年発行の「大田区史(上)」には当地での矢内原のことが2頁にわたって書かれている。西野善雄さんが区長のとき)。公共団体は“片寄ってはいけない”らしいので、ぜひ取り上げてください。好戦的世論をあおりにあおった徳富蘇峰や尾﨑士郎、ヒトラーの『我が闘争』の日本語訳をした室伏高信(戦後、名義を貸しただけと弁解)のことは、案内板を立てたり記念館を運営したりと活発に宣伝しているのですから。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |