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| 尾﨑士郎『空想部落』(圭文館版 昭和37年発行) |
尾﨑士郎38歳の時の作品。 当地(東京都大田区南馬込あたり)に住まう作家たちがモデルになっている(作中人物とモデルとなった作家の対応→)。文中の「牛追ホテル」は、大森ホテルがモデルだろう。昭和10年5月から「朝日新聞」の夕刊一面に連載された新聞小説だ。昭和11年新潮社で単行本化された。装丁は鈴木信太郎で、挿絵は長谷川春子。昭和14年には映画化。 演劇にもなった。
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| 尾﨑士郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『宇野千代(新潮日本文学アルバム)』 |
社会主義に傾倒
明治31年2月5日、愛知県横須賀村(現・西尾市。「尾崎士郎記念館」(西尾市吉良町荻原大道通18-1 map→ HP→)生まれ。三男坊。 横浜へ養子に出されるが養家になじめず、1~2年で横須賀村に戻る。 中学の頃、ドモリを苦にして引っ込み思案になるが、川の堤防で一人発声練習をして、一躍、雄弁家になった。時々激しくドモルのが“熱意の表れ”のような効果になって人を惹き付けた。親友の大須賀健治(山川 均の最初の妻の甥)を通して「平民新聞」接し社会主義に興味を持つ。早稲田大学政治科在学中、学長人事に対する抗議行動の中心に立ち(「早稲田騒動」)、大正7年(19歳)には普選運動のリーダーとして投獄もされている。同年(大正7年)、 長兄がピストル自殺。「放蕩の末の自殺」との報道に反論した。生活の資を得るためか「東洋経済新報」や売文社をわたり歩く。 大正8年(21歳)、月謝滞納と長期欠席により大学から除籍された。
文学における「一人一党」を訴える
大正10年(23歳) 、気まぐれで書いた『獄中より』 が「時事新報」の懸賞小説で2位になり(1位は宇野千代)、文壇から注目される。 同年改造社から出された『逃避行』で早くも社会主義に対する疑問を表明。 どんな主義や理論も嫌悪し、プロレタリア文学・新感覚派といった文学運動からも距離を持つ。大正14年(27歳)、 「不同調」に参加、「文壇における一人一党」を訴えた。昭和4年(31歳)、川端康成らと「没落時代」を創刊。
国民的作家となる
昭和8年(35歳)上泉秀信のすすめで 「都新聞」に『人生劇場』を連載、一躍国民的作家となる。『空想部落』もその頃書かれた。 関心は、物事の悲劇性や、人物の心理的葛藤や情熱を表現すること。この頃の「感覚を論理の上位に置く傾向」に合致した。昭和12年(39歳)、中央公論の戦地特派員として大陸にわたり、昭和16年(43歳)には、菊池 寛や高村光太郎らとともに大政翼賛会協力会の評議員になり、同年、ペン部隊として石坂洋次郎らとともにフィリピンに派遣され、「バターン死の行進」を目撃。昭和18年(45歳)には、文学報国会の常任理事に就任した。
再び人気作家に
敗戦後の昭和23年(50歳)、戦争責任を追及され「公職に就くことと政治的発言・行動の禁止令」の対象となる(昭和25年解除)。昭和24年(51歳)、中間小説のブームに乗り、 『ホーデン侍従』(「週刊新潮」)で再び人気作家となる。
昭和39年2月19日(66歳)、腸ガンで死去。 2日前まで『小説四十六年』を書いていた。
・・・ざんむきえつくして一抹のこるところなし、人生の紅葉ここにことごとく終る、人情を知つてこれに及ばず、ただむくゆるあたはざるをかなしむのみ(尾﨑士郎「病臥日記」の最終部分)
墓所は神奈川県川崎市の春秋苑と愛知県吉良町の福泉寺( )。
■ 尾﨑士郎評
・ 「非常に純粋な人で、会って話をしていると、こちらまで、ほのぼのと、心あたたまる」(真船 豊)
・「人に愛されすぎるというのが唯一の欠点のような男」(前妻の宇野千代)
・ 「士郎さんからは、もうなにも得るものはない」(山本周五郎)
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| 尾﨑士郎 『小説四十六年 (中公文庫)』 | 尾﨑士郎 『人生劇場(青春篇)』 |
大正11年暮(24歳)、室伏高信(31歳)を介して、宇野千代(25歳)に会う。その夜から、菊富士ホテル(東京本郷)で同棲する。翌大正12年、当地(新井宿。東京都大田区)の下宿屋 「寿館」に転居、しばらくして、「都新聞」の文芸部長上泉秀信のすすめで納屋を改造したバンガロー風の家を作った(南馬込四丁目28-11 map→)。 そこには、連日、今井達夫、藤浦 洸、榊山 潤、吉田甲子太郎、室伏高信、坪田譲治、秋田忠義といった酒客が集う。 尾﨑のすすめで、川端康成、牧野信一、間宮茂輔らも当地入りし、 “文士村”の雰囲気が形成された。うわさが拡散する拠点にもなり、彼の家は“馬込放送局”と呼ばれた。同地在住の萩原朔太郎、衣巻省三、広津和郎などとも行き来。 宇野と別れ古賀清子といっしょになってからは、当地を点々とする(南馬込二丁目、山王一丁目、山王二丁目など)。昭和7年春頃(34歳)、大森駅東口のバー「白蛾」のマダム星野幸子と親しくなり、彼女との関わりを 『青い酒場』 『悪太郎』 『売れた酒場』 といった作品に書く(「白蛾もの」)。
戦中、伊東に疎開するが、昭和29年(56歳)、再び当地(東京都大田区山王一丁目36-26。現在 「尾﨑士郎記念館 ※リンク→」 になっている)に戻り、そこで没する。
長女の一枝さんはエッセイストとして活躍されている。
●『評伝 尾﨑士郎』(都築久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.36-38、P.47-50、P.75-78、P.114、P.178-180、P.354 ●『パンとペン』(社会主義者・堺 利彦と「売文社」の闘い)(黒岩比佐子 講談社 平成22年発行)P.348 ●『山本周五郎 馬込時代』(木村久邇典 福武書店 昭和58年発行)P.59 ●『文壇資料 馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.17-32 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.55-62 ●『空想部落』(尾﨑士郎 圭文館 昭和37年発行) ※あとがき ●『尾﨑士郎全集 第六巻』(講談社 昭和41年発行)P.7-24 ●『日本浪漫派批判序説(講談社文芸文庫)』(橋川文三 平成10年初版発行 平成24年7刷参照)P.19
・ S.Y様から、映画 「空想部落」 の上映情報、 「空想部落の会」 の会場になった飲み屋 「吾作」 についての情報をいただきました。 ありがとうございます。
※当ページの最終修正年月日
2025.4.21