尾道時代の志賀直哉 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』
大正元年11月10日(1912年。
志賀直哉(29歳)が、家族と住んでいた三河台の1,700坪あまりの邸宅(東京都港区六本木四丁目3-13 Map→ ※案内板あり)を出て、一人、広島県尾道の三軒長屋(広島県尾道市東土堂町8-28 Map→ ※見学可能)で暮らし始めます。
志賀は18歳頃から(明治34年頃から)父親と対立していました。志賀が足尾銅山鉱毒問題に関わることを、祖父が同山の経営に参画していたことを理由に父親が猛反対したのです。そんな父親を志賀は軽蔑します(祖父は父子の争いを静観し、父親の肩をもつこともなかった。そんな祖父を志賀は敬愛した)。父親との確執とその後の和解が、志賀文学の大きなテーマの1つになります。明治40年(24歳)、結婚の問題でも父親と衝突。志賀は家を飛び出しました。
志賀の半自叙伝『暗夜行路』(Amazon→)には、尾道に落ち着いた頃のことが次のように書かれています。
・・・しばらく行くと左手に高く、二三寸に延びた麦畑があつて、その上に屋根の低い三軒長屋があり、その左の端に貸家の札が下つてゐた。彼は子供に礼を言つて別れ、その家を見に行つた。日向で張物をしてゐたかみさんが、色々と親切に教へてくれた。
それから斜に一丁程登つて行つて、彼はまた三軒長屋で、東の端が貸家になつてゐるのを見つけた。見晴らしは前の家よりよかつた。ここにも親切な婆さんがゐて、彼の訊くことに親切に答へてくれた。彼には今の子供でも、かみさんでも、この婆さんでも、皆いい人間に思へた。かういふたまたま出会った二三人の印象から直ぐ、さう思ふのは単純すぎる気もしたが、やはり彼はそれらからこの初めての土地に何となくいい感じを持った。・・・(中略)・・・
寝ころんでゐて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。そこで、朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があつて、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌ひながら石を切り出してゐる。その声は市
の遥か高い所を通つて直接彼のゐる所に聴えて来た。・・・(中略)・・・
六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、また一つ、また一つ、それが遠くからかへつてくる。その頃から、昼間は向ひ島の山と山との間にちょっと頭を見せてゐる百貫島の燈台が光り出す・・・(志賀直哉『暗夜行路』より)
父親からの束縛(父権)から逃れた開放感が伝わってきます。
吉屋信子の父親(吉屋雄一)も、足尾鉱毒事件に関わりがありました。被害地の一つ栃木県下都賀郡(しもつがぐん)の郡長だったのです。彼は 仕事で心身をすり減し、家族を顧りみる余裕などありませんでした。
大正8年、父親が亡くなると、吉屋(23歳)は、山口県萩で喪に服している家で 、『屋根裏の二処女』(Amazon→)という作品を一気に書き上げます。まるで堰をきって言葉があふれ出るがごとくでした。秋津という女性をめぐっての、富豪の娘キヌと、孤児の章子との三角関係を描いたもので、私小説に近く、吉屋の同性愛的傾向がよく表れています。小説家志望であることすら認めなかった父親ですので、この内容などはもっての外だったでしょう。吉屋は父権だけでなく、強権的な男性原理全般を嫌悪しました。
高見 順の父親は福井県知事だった坂本釤之助 。県下巡察中の坂本と、その身の回りの世話を託された娘との間に高見が生まれました。坂本にとって高見は「困った子」。母親の私生児として届けられ、高見は父親の顔も知らぬまま、母親の手一つで育っていきます。こういうことが許されてしまう時代でした。
物心つくと、父親に認知されなかった屈辱が、日々高見を苦しめます。その苦悩が高見に小説を書かせたといっていいかもしれません。「鎌倉文庫」の常務取締役を掛け持ちして、命を擦り減らすようにして書いた『わが胸の底のここには』(高見39歳 Amazon→)にも、自身の出生の秘密が描きこまれています。
尾﨑士郎の兄は、地元(愛知県横須賀村。現・西尾市吉良町
Map→)の郵便局長を父親から引き継いでやっていましたが、ある日、ピストル自殺します。芸者遊びが好きだった兄が公金を使い込み、それが発覚して自殺したと地元の新聞は書きました。しかし、公金の使い込みは父親の代から行われており、兄はむしろそれを諌めてすらいたのに兄だけが悪者にされ、村一番の実力者だった父親を責める人は誰もいなかったようです。『三等郵便局』(『尾﨑士郎全集〈第6巻〉』(Amazon→)に収録)という小説で尾﨑は、兄に深く同情し、父親に対する反感を
露にしています。
牧野信一は『スプリングコート』(青空文庫→)でモデルにされた父の怒りを描きました。その父に叩きつけるようにして書かれた次の一文もあります。
・・・俺の小説を読んで、どうだい、驚いたろう、こういう因果な倅を持って、さぞさぞ白昼往来を歩くのがきまりが悪いだろうよ、態ア見やがれ──・・・(牧野信一『スプリングコート』より)
萩原朔太郎は、30歳頃まで、複数の学校を入退学し、希望した学歴を積むことができず、お金にならない詩を書いたり、マンドリンを弾いたりして日がな過ごしていました。 帝大を主席で卒業し医院を開業していた超エリートの父親からのプレッシャーはそうとうなものだったようです。英才教育でしょうか、朔太郎は幼い頃、人体の解剖を見るのを父親から強いられることもあったとか。そういったことからの鬱屈が、彼に独特な詩を書かせた面もあるのではないでしょうか。
宇野千代の父親は、実家が造り酒屋を営む大金持ちだったため、生涯生業につかず、実家からの仕送りで放蕩無頼に生きたといいます。宇野は父親のことを 「バルザックやドストエフスキーの小説の中にしか出て来ない一種の畸人ないし狂人」と辛辣に書いています。が、彼女は自らを分析して「無頼な父の性質をそのままに受け継いだ」とも書いています。親に反発しながらも、結局は子は、親に似るのでしょうか。親を越えようというのなら、それなりの覚悟や自覚や行動が必要かもしれません。
|
|
小林敏明『父と子の思想 〜日本の近代を読み解く〜 (ちくま新書) 』 |
寺山修司『家出のすすめ (角川文庫)』。人生に行き詰まったらこれ? |
|
|
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)』。監修:西谷 修、翻訳:山上浩嗣 |
高野 優「思春期コロシアム 〜決戦のゴング 開幕編〜』。(東京新聞出版局)。今や父権(大人の壁)の多くをお母さんが担っているのかも? |
■ 馬込文学マラソン:
・ 志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
・ 吉屋信子の『花物語』を読む→
・ 高見 順の『死の淵より』を読む→
・ 尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
・ 牧野信一の『西部劇通信』を読む→
・ 萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→
・ 宇野千代の『色ざんげ』を読む→
■ 参考文献:
●『志賀直哉(上)(岩波新書)』(本多秋五 平成2年発行)P.71-79、P.161-172 ●『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行) P.4-7、P.28-35 ●『吉屋信子 ~隠れフェミニスト〜』(駒尺喜美 リブロポート 平成6年発行)P.19-20、P.57-60、P.268-269 ●『高見 順 人と作品』(石光 葆 清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年2刷参照)P.8-18、P.197 ●『評伝 尾﨑士郎』(都築久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.36-38、P.47-50、P.75-78 ●『尾﨑士郎全集 第六巻』(講談社 昭和41年発行)P.7-24 ●『牧野信一と小田原』(金子昌夫 夢工房 平成14年発行)P.29-30 ●『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.97-103 ●『宇野千代(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年発行)P.2-10 ●『生きて行く私(中公文庫)』(宇野千代 平成4年発行)P.13-24、P.112-114
※当ページの最終修正年月日
2024.11.10
この頁の頭に戻る
|