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詩集 『死の淵より』 は、死が目前に迫ってくる時、人がどんなことを思うかを教えてくれる 。 高見順は食道ガンと戦いながら、2〜3行書いては2〜3日休み、そしてまた2〜3行と、これらの詩を書いていった。 “自分の死”は、頭で考えた死や、自分以外の死とは、また別物のようだった。叫び声をあげて逃げ出したくなるような、でも逃れることができない強烈な痛みと、悲しみと、恐怖。きれい事ではありえない。 泣け 泣きわめけ 「夜の底」 から死者の爪がのびてきたり、体から出るピューピューという音がやけに悲しかったり、「死よりもいやな空虚」 が感じられたり、自分で命を絶つ方法を考えたり、でも死ぬことすらできないと考えたり、すでに死臭が漂ってきたり、「肉体とは無関係の心」 を恨んだり・・・。 これらの言葉は、絶望の底からのうめきだろう。 この逃げ場のなさ。でも、生きていかなければならないのだ。 高見は必死になって何かを探す・・・。 当たり前のことだが、私たちだってみんな死ぬ。 私たちは生まれ落ちた時から死に向かって歩き出すといってもいいだろう。 赤ちゃんだって、子どもだって、ピチピチのアイドルだって、スポーツ選手だって例外ではない。 人ごとではないはずだ。 悪戦苦闘の末に高見が見い出したものは、きっと私たちの心の支えにもなるだろう。 私たちも、実は彼と同じく死の淵に立っているのだから。 『死の淵より』 について高見順の詩集。 昭和38年(56歳)、講談社から出版された。 同社からは他にも、名著シリーズ(昭和41年)、講談社文庫(昭和46年)、講談社文芸文庫(平成5年)の一巻としても出版されている。 平成16年日本図書センター(愛蔵版詩集シリーズ)からも出版。
高見順について
私生児として育つ 白樺派、ダダ、そして左翼思想へ 投獄され転向。本格的な作家生活に入る 吐き出すような独自の文体で、3つのコンプレックス(父親からの不認知、思想的挫折、妻の出奔)をテーマに書く。 「日本における最初の現代文学(川端康成)」 「高見順の時代といふ時代があつた(中島健蔵) 」 と評される。 昭和11年(29歳)、 武田麟太郎主宰の「人民文庫」に参加。 体調不良と戦いながら 昭和33年(51歳)、『わが胸の底のここには』 を出版。 昭和37年(55歳)には、芥川賞選考委員になる。 伊藤整や小田切進らと日本近代文学館の設立準備も始める。 翌38年(56歳)、 『いやな感じ』を出版。 内に向けられていた今までの眼を外に向ける試みだったという。 昭和という時代を書き切ろうとした。この年、食道にガンが見つかり、以後4回手術を受ける。 昭和40年(58歳)、日本近代文学館の起工式にメッセージを贈り、その翌日の8月17日死去する。 北鎌倉の東慶寺と福井県三国の円蔵寺に埋葬された( )。 日本近代文学館2階フロアーには、功績を顕彰して高見の胸像が置かれている。
高見順と馬込文学圏昭和5年(24歳)、大学卒業直前、高見がリーダーだった劇団「制作座」(活動期間は1年ほど。帝国ホテルで2度公演。効果係を北園克衛が担当したことも)の女優・石田愛子と結婚、麻布の母親の元を去って当地(不入斗。大森区大森町2-437?)の長屋に住んだ。この頃から昭和11年までコロムビアレコードで働く。 昭和6年(24歳)、日本プロレタリア作家同盟城南地区のキャップになり、労働運動を通して非合法革命運動に接近。 昭和8年2月(26歳)、治安維持法違反容疑で検挙され、大森警察に拘留され拷問を受ける。転向手記を書かされて、3ヶ月後、出獄。 しばらくして愛子出奔する。 妻に逃げられた痛手を紛らわすがごとくに銀座裏をさまよい、昭和10年(28歳)、銀座裏で務める水谷秋子と出会う。 新しい恋愛に制作意欲を取り戻して書かれたのが 『故旧忘れ得べき』 。 秋子と結婚し、住んだのがやはり馬込文学圏(大森区入新井3-141。現・大森北4-21 map→)だった。 母親も同居した。昭和13年(31歳)、浅草に仕事部屋を構え大森から通った。 『如何なる星の下に』 を書く。小説 『感傷』 『外資会社』 、エッセイ 『妙な名前』 などに大森駅や大森銀座などが出てくる。 昭和18年4月(36歳)、鎌倉の山ノ内に転居。13年間の馬込文学圏住まいだった。 多くの作家がJR線より山側に住んだのと違って海側に住み、それを誇りにした。 九州閣(南馬込三丁目)の猪野謙二を訪ねたことがある。 若い頃から文章作法の上でも尾侮m郎のことを好まなかったので(尾の著者の感興を直接書く書き方に批判的だった)、馬込文学圏の尾のテリトリーには近づかなかったと思う。昭和16年、高見が、文学は国策に与するには非力だと書いた(文学が国策の道具になることを牽制した)時、尾はその弱腰を批判。高見によると「(尾から)売国奴呼ばわり」 された。 挙国一致で盛り上がっていたご時世であり、高見はそれ以上言えず、 「誤解されるやうな取り乱した言ひ方をした」 と謝罪して話を引っ込めた。高見の尾に対する鬱屈は戦後まで尾をひく(「文学非力説」 論争)。 川端康成との付き合いはながく、川端は高見の葬儀のおり、葬儀委員長を務めた。 脚注※1 : ↑ 本当は前の年(明治39年)の12月生まれ。高見自身も晩年までそのことを知らなかった ※2 : ↑ 昭和5年(高見23歳)、坂本から認知され庶子となる ※3 : ↑ (株)フジクラの創業者・藤倉善八の甥で、フジクラの電線事業の技術面で活躍した。 後年、高見は『岡田顕三伝』の編纂に携わる 参考文献●参1: 『高見順 人と作品』 (石光葆 清水書院 昭和46年2刷) P.35-36、P.56-58、P.80 ●参2:『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年) P.63、P.101、P.157-166 ●参3:『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』 (東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年) P.46-47 ●参4: 『評伝 尾侮m郎』 (都築久義 ブラザー出版 昭和46年) P.171-172、P.217-221、P.286-288 ●参5: 『プロレタリア文学運動』(湯地朝雄 晩声社 平成3年) P.25-26 ●参6: 新潮現代文学 『高見順』 (新潮社 昭和56年) P.354-366 ●参7:『高見順日記 第六巻』(勁草社 昭和40年初版) P.295-297 ●参8: 『続 高見順日記 第八巻』 (勁草書房 昭和52年発行) P.68、 P.310-311 ●参9: 『高見順日記 第二巻ノ上』 (勁草書房 昭和41年初版発行 昭和53年3刷参照) P.462-465 ●参10: 『詩人 高見順 その生と死』(上林猷夫 講談社 平成3年発行) P.282 参考サイト・ ウィキペディア/坂本」之助(平成24年9月5日更新版)→ ※当ページの最終修正年月日 |
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