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高見順『死の淵より』を読む/彼の悪戦苦闘が - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死が目前に迫る時、人はどんなことを思うだろう。高見 順は食道ガンを患い、2〜3行書いては2〜3日休み、そしてまた2〜3行と、これらの詩を綴っていった。

「自分の死」は、頭で考えた死や、自分以外の死とは、また別物のようだった。叫び声をあげて逃げ出したくなるような、でも逃れることができない強烈な痛みと、悲しみと、恐怖。きれい事ではありえない。

泣け 泣きわめけ
大声でわめくがいい
うずくまって小さくなって泣いていないで
膿盆のうぼんの血だらけのガーゼよ
そして私の心よ

「夜の底」から死者の爪がのびてきたり、体から出るピューピューという音がやけに悲しかったり、「死よりもいやな空虚」が感じられたり、自分で命を絶つ方法を考えたり、でも死ぬことすらできないと考えたり、すでに死臭が漂ってきたり、「肉体とは無関係の心」を恨んだり・・・。 これらの言葉は、絶望の底からのうめきだろう。

この逃げ場のなさ。でも、生きていかなければならない。 高見は必死に何かを探す・・・。

当たり前のことだが、私たちだっていつかはみんな死ぬ。 皆、生まれ落ちた時から死に向かって歩き出すといってもいいだろう。赤ちゃんだって、子どもだって、ピチピチのアイドルだって、スポーツ選手だって、例外ではない。人ごとではない。

悪戦苦闘の末に高見が見い出したものは、きっと私たちの心の支えにもなるだろう。私たちも、彼と同じ「死の淵」に立っている。


『死の淵より』について

高見順 『死の淵より』

昭和38年、講談社から発行された高見 順(56歳)の詩集。

■『死の淵より』 評
●「これらの詩には本当の「遊び」の境地があり、小説の永久に達しえぬ境地でありませう」(三島由紀夫


高見 順について

高見順(昭和15年 33歳) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用  出典 :『昭和文学アルバム(1)(新潮日本文学アルバム別巻)』
高見 順(昭和15年 33歳) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用  出典 :『昭和文学アルバム(1)(新潮日本文学アルバム別巻)』

私生児として育つ
明治40年1月30日(本当は前年(明治39年)の12月生まれ。それを高見も晩年まで知らなかった)、福井県三国町で生まれる。父は当時福井県知事だった坂本 」之助さんのすけ永井荷風の父の弟で、高見と永井は従兄弟同士にあたる。県下巡察に来た坂本の食事の世話をした娘が高見の母で、坂本は高見を自分の子とは認めなかったため、私生児として届けられた(高見が23歳のとき認知され庶子となる)。翌年、坂本の近くに住むことを望んだ祖母・母に連れられて東京へ。麻布の長屋に住んだ。 母の針仕事が生計を支えた。針仕事の得先に正岡子規門下の岡本癖三酔へきさんすい がおり、6歳の頃から岡本から俳句の手ほどきを受ける。

さまざまな新しい思潮・運動から吸収
東京府立第一中学校(現・日比谷高校)時代から白樺派の作家に親しむ。校長の川田正澂(かわだ・まさずみ)の仲介で岡田顕三から個人的な育英資金を受け(岡田顕三は(株)フジクラの創業者・藤倉善八の甥で、電線事業の技術面で活躍。 後年、高見は『岡田顕三伝』の編纂に携わった)、第一高等学校(現・東京大学)をへて東京帝国大学文学部英文科に入学。築地小劇場に出入りし擡頭してきたダダイズム、アナキズム、新たに興った文学運動(プロレタリア文学や新感覚派など)のエッセンスを吸収する。帝大卒業後、自ら立ち上げた劇団「制作座」のメンバー石田愛子と結婚、麻布の母の元を去って、当地(東京都大田区大森。大森銀座(京浜急行「大森支線(海森線)」沿いの道)近く)の家に住んだ(昭和5年23歳)。

本格的に作家生活に入る
コロンビア・レコードに就職するとともに、かねてから所属していたナルプ(日本プロレタリア作家同盟)の城南地区の責任者となる(転居の目的もそこにあった)。半非合法(非合法だった共産党とつながりがあった)の全協(全国労働組合協議会)の活動に関わり、 昭和8年2月(26歳)、治安維持法違反容疑で検挙され、大森警察に拘留され、拷問を受ける。

転向手記を書かされて起訴留保となって、3ヶ月後に出獄するが、酒場勤めを始めた妻・愛子が裕福な40男と出奔。思想的挫折と家庭崩壊のダブルパンチを食らう。痛手を紛らわすがごとくに銀座裏をさまよい、昭和10年(28歳)、銀座裏で働く水谷秋子と出会う。新しい恋愛に意欲を取り戻して書いたのが 『故旧こきゅう忘れべき』だった(第1回芥川賞の候補となる) 。 秋子と結婚し、住んだのがやはり当地(東京都大田区大森北4-21 Map→ ※母も同居)。

昭和13年(31歳)、浅草に仕事部屋を構え大森から通った。 浅草体験を元に書かれた『如何いかなる星のもとに』は代表作の一つとなる。

昭和14年(32歳)、長女が生まれるが、翌年、消化器系統の不良で死去。

昭和16年(34歳)、『如何なる星の下に』の挿絵を描いた三雲祥之助みくも・しょうのすけ蘭印らんいん(オランダ領東インド。現在のインドネシア)を4ヶ月以上巡る。この頃から日記をつけるようになった。

帰国後に書いた「文学非力説」(国への奉公を旗印にした威勢のいい文学論を批判。暗に文学が国策の具になることを牽制したか)は、尾侮m郎によって「(文学が)国民感情から遊離してゆく」(あんたの言説は“非国民的”である)と批判された。満州事変後日本は戦時下であり国は国民が一丸になることを強制していたので、高見もそれ以上は言えず謝罪めいたことを言って穏便に済ませた。高見に対する鬱屈は戦後も尾をひく(「文学非力説」 論争)。

体調不良と戦いながら
戦中は、陸軍報道班員としてビルマとタイに行く。 昭和18年、13年ほど住んだ大森(東京都大田区)を去って、北鎌倉に疎開。戦中、収入を補うために川端康成らと貸本屋 「鎌倉文庫」を開店、店番もした。鎌倉文庫は出版社にまで発展し、高見はその常務取締役を務めるが、執筆もこなし忙殺され、昭和22年(40歳)頃から体調が優れなくなる。

昭和33年(51歳)、『わが胸の底のここには』Amazon→を発行。昭和37年(55歳)には、芥川賞選考委員となる。伊藤 整や小田切 進らと日本近代文学館の設立準備も始めた。翌38年(56歳)、『いやな感じ』を出版。大杉 栄虐殺の復讐を画策するアナキストの青年が、しだいに右翼に転ぶ様を通し、激動の時代を描いた。この年、食道にガンが見つかり、以後4回手術を受ける。

昭和40年(58歳)、日本近代文学館の起工式にメッセージを寄せ、その翌日の8月17日に死去。川端康成が葬儀委員長を務めた。北鎌倉の東慶寺と福井県三国の円蔵寺に埋葬される( )。 日本近代文学館2階フロアーには、功績を顕彰して高見の胸像が置かれている。

高見 順
●「日本における最初の現代文学」(川端康成
●「高見 順の時代といふ時代があつた 」 (中島健蔵)

作家別馬込文学圏地図 「高見 順」→

石光 葆(いしみつ・しげる) 『高見 順 〜人と作品〜』(清水書院) 高見順 『いやな感じ (文春文庫) 』
石光 葆いしみつ・しげる高見 順 〜人と作品〜』(清水書院) 高見 順 『いやな感じ (文春文庫) 』

参考文献

●『高見 順 〜人と作品〜』 (石光 葆 清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年発行2刷) P.35-36、P.56-58、P.79-80、P.196-197 ●「高見 順」(平野 謙)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷)に収録 ●『決定版 三島由紀夫全集38』(新潮社 平成16年発行)P.667-669 ●『大田文学地図』(染谷孝哉  蒼海出版 昭和46年発行)P.63、P.101、P.157-166 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』 (編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.46-47 ●『評伝 尾侮m郎』(都築久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.171-172、P.217-221、P.286-288 ●『プロレタリア文学運動』(湯地朝雄 晩声社 平成3年発行)P.25-26 ● 『高見 順(新潮現代文学)(昭和56年発行)P.354-366 ●『高見順 日記 第六巻』(勁草社 昭和40年発行) P.295-297 ●『続 高見 順日記 第八巻』(勁草書房 昭和52年発行) P.68、 P.310-311 ● 『高見 順日記 第二巻ノ上』(勁草書房 昭和41年初版発行 昭和53年発行3刷)P.462-465 ● 『詩人 高見 順 〜その生と死〜』( 上林猷夫かんばやし・みちお 講談社 平成3年発行)P.282 ●「フジクラの歴史/基礎確立の時代」(株式会社フジクラ→

※当ページの最終修正年月日
2024.3.6

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