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死が目前に迫る時、人はどんなことを思うだろう。高見 順は食道ガンを患い、2〜3行書いては2〜3日休み、そしてまた2〜3行と、これらの詩を綴っていった。 「自分の死」は、頭で考えた死や、自分以外の死とは、また別物のようだった。叫び声をあげて逃げ出したくなるような、でも逃れることができない強烈な痛みと、悲しみと、恐怖。きれい事ではありえない。 泣け 泣きわめけ 「夜の底」から死者の爪がのびてきたり、体から出るピューピューという音がやけに悲しかったり、「死よりもいやな空虚」が感じられたり、自分で命を絶つ方法を考えたり、でも死ぬことすらできないと考えたり、すでに死臭が漂ってきたり、「肉体とは無関係の心」を恨んだり・・・。 これらの言葉は、絶望の底からのうめきだろう。 この逃げ場のなさ。でも、生きていかなければならない。 高見は必死に何かを探す・・・。 当たり前のことだが、私たちだっていつかはみんな死ぬ。 皆、生まれ落ちた時から死に向かって歩き出すといってもいいだろう。赤ちゃんだって、子どもだって、ピチピチのアイドルだって、スポーツ選手だって、例外ではない。人ごとではない。 悪戦苦闘の末に高見が見い出したものは、きっと私たちの心の支えにもなるだろう。私たちも、彼と同じ「死の淵」に立っている。 『死の淵より』について昭和38年、講談社から発行された高見 順(56歳)の詩集。 ■『死の淵より』 評 高見 順について
私生児として育つ さまざまな新しい思潮・運動から吸収 本格的に作家生活に入る 転向手記を書かされて起訴留保となって、3ヶ月後に出獄するが、酒場勤めを始めた妻・愛子が裕福な40男と出奔。思想的挫折と家庭崩壊のダブルパンチを食らう。痛手を紛らわすがごとくに銀座裏をさまよい、昭和10年(28歳)、銀座裏で働く水谷秋子と出会う。新しい恋愛に意欲を取り戻して書いたのが 『 昭和13年(31歳)、浅草に仕事部屋を構え大森から通った。 浅草体験を元に書かれた『 昭和14年(32歳)、長女が生まれるが、翌年、消化器系統の不良で死去。 昭和16年(34歳)、『如何なる星の下に』の挿絵を描いた 帰国後に書いた「文学非力説」(国への奉公を旗印にした威勢のいい文学論を批判。暗に文学が国策の具になることを牽制したか)は、尾侮m郎によって「(文学が)国民感情から遊離してゆく」(あんたの言説は“非国民的”である)と批判された。満州事変後日本は戦時下であり、国は国民が一丸になることを強制していたので、高見もそれ以上は言えず謝罪めいたことを言って穏便に済ませた。高見の尾に対する鬱屈は戦後も尾をひく(「文学非力説」 論争)。 体調不良と戦いながら 昭和33年(51歳)、『わが胸の底のここには』(Amazon→)を発行。昭和37年(55歳)には、芥川賞選考委員となる。伊藤 整や小田切 進らと日本近代文学館の設立準備も始めた。翌38年(56歳)、『いやな感じ』を出版。大杉 栄虐殺の復讐を画策するアナキストの青年が、しだいに右翼に転ぶ様を通し、激動の時代を描いた。この年、食道にガンが見つかり、以後4回手術を受ける。 昭和40年(58歳)、日本近代文学館の起工式にメッセージを寄せ、その翌日の8月17日に死去。川端康成が葬儀委員長を務めた。北鎌倉の東慶寺と福井県三国の円蔵寺に埋葬される( )。 日本近代文学館2階フロアーには、功績を顕彰して高見の胸像が置かれている。 ■ 高見 順 評
参考文献●『高見 順 〜人と作品〜』 (石光 葆 清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年発行2刷) P.35-36、P.56-58、P.79-80、P.196-197 ●「高見 順」(平野 謙)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷)に収録 ●『決定版 三島由紀夫全集38』(新潮社 平成16年発行)P.667-669 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.63、P.101、P.157-166 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』 (編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.46-47 ●『評伝 尾侮m郎』(都築久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.171-172、P.217-221、P.286-288 ●『プロレタリア文学運動』(湯地朝雄 晩声社 平成3年発行)P.25-26 ● 『高見 順(新潮現代文学)(昭和56年発行)P.354-366 ●『高見順 日記 第六巻』(勁草社 昭和40年発行) P.295-297 ●『続 高見 順日記 第八巻』(勁草書房 昭和52年発行) P.68、 P.310-311 ● 『高見 順日記 第二巻ノ上』(勁草書房 昭和41年初版発行 昭和53年発行3刷)P.462-465 ● 『詩人 高見 順 〜その生と死〜』(
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