(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

高見順『死の淵より』を読む/彼の悪戦苦闘が - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩集 『死の淵より』 は、死が目前に迫ってくる時、人がどんなことを思うかを教えてくれる 。 高見順は食道ガンと戦いながら、2〜3行書いては2〜3日休み、そしてまた2〜3行と、これらの詩を書いていった。

“自分の死”は、頭で考えた死や、自分以外の死とは、また別物のようだった。叫び声をあげて逃げ出したくなるような、でも逃れることができない強烈な痛みと、悲しみと、恐怖。きれい事ではありえない。

泣け 泣きわめけ
大声でわめくがいい
うずくまって小さくなって泣いていないで
膿盆の血だらけのガーゼよ
そして私の心よ

「夜の底」 から死者の爪がのびてきたり、体から出るピューピューという音がやけに悲しかったり、「死よりもいやな空虚」 が感じられたり、自分で命を絶つ方法を考えたり、でも死ぬことすらできないと考えたり、すでに死臭が漂ってきたり、「肉体とは無関係の心」 を恨んだり・・・。 これらの言葉は、絶望の底からのうめきだろう。

この逃げ場のなさ。でも、生きていかなければならないのだ。 高見は必死になって何かを探す・・・。

当たり前のことだが、私たちだってみんな死ぬ。 私たちは生まれ落ちた時から死に向かって歩き出すといってもいいだろう。 赤ちゃんだって、子どもだって、ピチピチのアイドルだって、スポーツ選手だって例外ではない。 人ごとではないはずだ。

悪戦苦闘の末に高見が見い出したものは、きっと私たちの心の支えにもなるだろう。 私たちも、実は彼と同じく死の淵に立っているのだから。


『死の淵より』 について

高見順の詩集。 昭和38年(56歳)、講談社から出版された。 同社からは他にも、名著シリーズ(昭和41年)、講談社文庫(昭和46年)、講談社文芸文庫(平成5年)の一巻としても出版されている。 平成16年日本図書センター(愛蔵版詩集シリーズ)からも出版。

高見順 『死の淵より』
高見順 『死の淵より』


高見順について

高見順
高見順(昭和15年 33歳) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました  出典 : 新潮日本文学アルバム別巻『昭和文学アルバム(1)』(新潮社)

私生児として育つ
明治40(1907)年1月30日※1、福井県三国町で生まれる。 本名は高間芳雄。 父親は当時福井県知事だった坂本」之助(さかもと・さんのすけ)。永井荷風の父親の弟だ(高見永井は従兄弟同士になる)。 坂本が県下巡察に来たとき、食事の世話をした娘が高見の母で、坂本は高見を子と認めなかったため、私生児と届けられた※2。翌年、坂本の近くに住むことを望んだ祖母・母親に連れられて東京へ。 麻布の長屋に住んだ。 母親の針仕事が生計を支えた。 針仕事の得先に正岡子規門下の岡本癖三酔がおり、6歳の頃から彼の俳句の手ほどきを受ける。

白樺派、ダダ、そして左翼思想へ
東京府立第一中学校(現・日比谷高校)時代から白樺派の作家に親しむ。校長の川田正澂(かわだ・まさずみ)の仲介で岡田顕三※3から個人的な育英資金を受けて、第一高等学校(現・東京大学)に進学。海外の演劇論を翻訳し、築地小劇場の機関誌に送稿した。丸山定夫との付き合いはこの頃からだろう。大杉栄に傾倒してダダイストとも親交する。 昭和2年(20歳)、東京帝国大学文学部英文科に入学。 翌年、壺井繁治らと左翼芸術同盟を結成し、「左翼芸術」を創刊した。 そこで初めて高見順と名乗る。 同年、左翼芸術同盟はナップに合流した。

投獄され転向。本格的な作家生活に入る
転向後、デカダンスな生活を送るが、新しい恋愛をきっかけに意欲を取り戻し、本格的な作家生活に入っていく。 昭和10年(28歳)、『故旧忘れ得べき』 を執筆、第1回芥川賞の候補となるが受賞を逃す。

吐き出すような独自の文体で、3つのコンプレックス(父親からの不認知、思想的挫折、妻の出奔)をテーマに書く。 「日本における最初の現代文学(川端康成)」 「高見順の時代といふ時代があつた(中島健蔵) 」 と評される。 昭和11年(29歳)、 武田麟太郎主宰の「人民文庫」に参加。

体調不良と戦いながら
戦中は、陸軍報道班員としてビルマとタイへ派遣された。 北鎌倉在住時には、収入を補うために川端康成らと貸本屋 「鎌倉文庫」 を開店、店番もした。 鎌倉文庫は出版社にまで発展し、高見はその常務取締役を務めるが、その激務と執筆との掛け持ちで、昭和22年(40歳)頃から体調が優れなくなる。

昭和33年(51歳)、『わが胸の底のここには』 を出版。 昭和37年(55歳)には、芥川賞選考委員になる。 伊藤整小田切進らと日本近代文学館の設立準備も始める。 翌38年(56歳)、 『いやな感じ』を出版。 内に向けられていた今までの眼を外に向ける試みだったという。 昭和という時代を書き切ろうとした。この年、食道にガンが見つかり、以後4回手術を受ける。

昭和40年(58歳)、日本近代文学館の起工式にメッセージを贈り、その翌日の8月17日死去する。 北鎌倉の東慶寺と福井県三国の円蔵寺に埋葬された( )。 日本近代文学館2階フロアーには、功績を顕彰して高見の胸像が置かれている。

石光葆 『高見順 (センチュリーブックス ―人と作品) 』 高見順『故旧忘れ得べき ―名著複刻全集(近代文学館)』。時間の流れの前後が入り乱れ、何十行も改行がなかったり、地の文と会話文が混然とし、小説の中に著者が登場したりと型やぶれな手法で書かれている。日本現代文学はこの一作から始まったのでは?
石光葆 『高見順 (センチュリーブックス ―人と作品) 』 高見順『故旧忘れ得べき ―名著複刻全集(近代文学館)』。時間の流れの前後が入り乱れ、何十行も改行がなかったり、地の文と会話文が混然とし、小説の中に著者が登場したりと型やぶれな手法で書かれている。日本現代文学はこの一作から始まったのでは?
高見順 『如何なる星の下に (講談社文芸文庫) 』* 高見順 『いやな感じ (文春文庫) 』*
高見順 『如何なる星の下に (講談社文芸文庫) 』 高見順 『いやな感じ (文春文庫) 』


高見順と馬込文学圏

昭和5年(24歳)、大学卒業直前、高見がリーダーだった劇団「制作座」(活動期間は1年ほど。帝国ホテルで2度公演。効果係を北園克衛が担当したことも)の女優・石田愛子と結婚、麻布の母親の元を去って当地(不入斗。大森区大森町2-437?)の長屋に住んだ。この頃から昭和11年までコロムビアレコードで働く。 昭和6年(24歳)、日本プロレタリア作家同盟城南地区のキャップになり、労働運動を通して非合法革命運動に接近。 昭和8年2月(26歳)、治安維持法違反容疑で検挙され、大森警察に拘留され拷問を受ける。転向手記を書かされて、3ヶ月後、出獄。 しばらくして愛子出奔する。

妻に逃げられた痛手を紛らわすがごとくに銀座裏をさまよい、昭和10年(28歳)、銀座裏で務める水谷秋子と出会う。 新しい恋愛に制作意欲を取り戻して書かれたのが 『故旧忘れ得べき』 。 秋子と結婚し、住んだのがやはり馬込文学圏(大森区入新井3-141。現・大森北4-21 map→)だった。 母親も同居した。昭和13年(31歳)、浅草に仕事部屋を構え大森から通った。 『如何なる星の下に』 を書く。小説 『感傷』 『外資会社』 、エッセイ 『妙な名前』 などに大森駅や大森銀座などが出てくる。

昭和18年4月(36歳)、鎌倉の山ノ内に転居。13年間の馬込文学圏住まいだった。

多くの作家がJR線より山側に住んだのと違って海側に住み、それを誇りにした。

九州閣(南馬込三丁目)猪野謙二を訪ねたことがある。

若い頃から文章作法の上でも尾侮m郎のことを好まなかったので(の著者の感興を直接書く書き方に批判的だった)、馬込文学圏ののテリトリーには近づかなかったと思う。昭和16年、高見が、文学は国策に与するには非力だと書いた(文学が国策の道具になることを牽制した)時、はその弱腰を批判。高見によると「(から)売国奴呼ばわり」 された。 挙国一致で盛り上がっていたご時世であり、高見はそれ以上言えず、 「誤解されるやうな取り乱した言ひ方をした」 と謝罪して話を引っ込めた。高見に対する鬱屈は戦後まで尾をひく(「文学非力説」 論争)。

川端康成との付き合いはながく、川端は高見の葬儀のおり、葬儀委員長を務めた。

作家別馬込文学圏地図 「高見順」→


脚注

※1 : 本当は前の年(明治39年)の12月生まれ。高見自身も晩年までそのことを知らなかった

※2 : 昭和5年(高見23歳)、坂本から認知され庶子となる

※3 : (株)フジクラの創業者・藤倉善八の甥で、フジクラの電線事業の技術面で活躍した。 後年、高見は『岡田顕三伝』の編纂に携わる


参考文献

●参1: 『高見順 人と作品』 (石光葆 清水書院 昭和46年2刷) P.35-36、P.56-58、P.80 ●参2:『大田文学地図』(染谷孝哉  蒼海出版 昭和46年) P.63、P.101、P.157-166 ●参3:『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』 (東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年) P.46-47 ●参4: 『評伝 尾侮m郎』 (都築久義 ブラザー出版 昭和46年) P.171-172、P.217-221、P.286-288 ●参5: 『プロレタリア文学運動』(湯地朝雄 晩声社 平成3年) P.25-26 ●参6: 新潮現代文学 『高見順』  (新潮社 昭和56年) P.354-366 ●参7:『高見順日記 第六巻』(勁草社 昭和40年初版) P.295-297 ●参8: 『続 高見順日記 第八巻』 (勁草書房 昭和52年発行) P.68、 P.310-311 ●参9: 『高見順日記 第二巻ノ上』 (勁草書房 昭和41年初版発行 昭和53年3刷参照) P.462-465 ●参10: 『詩人 高見順 その生と死』(上林猷夫 講談社 平成3年発行) P.282


参考サイト

ウィキペディア/坂本」之助(平成24年9月5日更新版)→
ウィキペディア/川田正澂(平成24年5月31日更新版)→
ウィキペディア/岡本癖三酔(平成25年12月6日更新日)→
株式会社フジクラ/企業情報/先哲の室 〜フジクラの歴史/基礎確立の時代→

※当ページの最終修正年月日
2017.8.17

この頁の頭に戻る