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支配の完成(昭和16年12月23日、榊山潤、青山の兵舎に入隊する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

榊山 潤

昭和16年12月23日(1941年。 榊山 潤(41歳)が、陸軍大学(東京都港区北青山一丁目1 Map→)に入隊しています。

「白紙」(徴用令状)が来たのは、5日前の12月18日。日本海軍がハワイ真珠湾の米海軍太平洋艦隊基地を無通告爆撃した10日後です。榊山にとってその日は、自分の家を初めて建てて越してきた記念すべき日でした。個人にとって大切な日であっても、「御国のため」ということで、かまっちゃもらえません。

当時の心境を榊山は次のように書いています。

・・・日本の大きな危機、一つまちがえば、日本がなくなってしまう危機、それは十分に感じた。が、外敵侵入の危機にさらされた場合とは、根本的なひらきがある。自から招く危機と、招かざるに到達した危機。後者に対しては、理屈なく抵抗の勇気が起るだろうが、前者に対しては、何か納得できないものが残る。自分の責任じゃないという気持だ。誰かが勝手にやり出したことで、その誰かのために、なぜ私が戦地にかり立てられなければならないのか。その理由がはっきりしないのだ。しかしそういう疑問や不服は、何処どこ身体からだ の奥深いところに、しまいこんでおかなければならない。それを表面に出したら、私自身が、新しい戦地に着く前に、もっと別ないやなところに、しまいこまれてしまうだろう。・・・(榊山 潤『ビルマ日記』より)

昭和の戦争は、満州事変からの歴史をちょっと紐解けば明らかなように日本が原因を作り、また仕掛けたもので、上の文章にあるように「自ら招く危機」でした。しかし、そういった疑問を表明すれば、「戦地に着く前に、もっと別ないやなところに、しまいこまれ」てしまう。榊山にも当地(東京都大田区)の大森警察に留置された経験がありました。

紙ペラ一枚で強制的に動員されるといった酷いことが、なぜ、許されたのでしょう?

昭和12年に日本が拡大させた日中戦争は、中国軍の根強い抵抗によって長期化していき、日本は人・物ともに不足していきます。昭和13年「国家総動員法」が成立(第1次近衛文麿内閣時。衆議院会議で民政党の斎藤 隆夫 たかお や政友会の牧野 良三 りょうぞう らが厳しく批判したが、軍の圧力で押し切られる。意外にも社会大衆党が法案通過を強く主張した。現在の日本維新の会のような役割を果たしたのかも?)、非常時(緊急事態)と判断されれば政府が、全ての資源、資本、労働力、貿易、運輸、通信などを統制できるようになりました(現在、与党などが憲法に盛り込もうとしている「緊急事態条項」はその手の条文)。国民を徴用して業務に強制的に従事させることもでき(翌昭和14年に出された「国民徴用令」はそれを具体化したもの)、争議は禁止され、言論も徹底的に統制されるようになりました。国民のほぼ全生活が政府の統制下になったのです。

作家の徴用は昭和16年10月から始まり、主に南方に派遣されます。榊山も南方派遣軍に配属され、サイゴン、バンコック、ラングーンを巡りました。尾﨑士郎(43歳。昭和16年12月23日時点の年齢、以下同)も、榊山より1ヶ月ほど前に徴用され、フィリピンで「バターン死の行進」を目の当たりにしています井伏鱒二(43歳)、海音寺潮五郎(40歳)、北川冬彦(41歳)、高見 順(34歳)、石坂洋次郎(41歳)、火野葦平(34歳)、石川達三(36歳)、北村小松(40歳)、間宮茂輔(42歳)、山岡荘八(34歳)、北原武夫(34歳)、大宅壮一(41歳)、三木 清(44歳)、清水幾太郎(44歳)、中島健蔵(38歳)、武田麟太郎(37歳)、新田 潤(37歳)も徴用されています。他にも、マスコミの取材・特派員で南方を訪れた大佛次郎(44歳)、佐藤春夫(49歳)、海軍嘱託の吉川英治(49歳)、尾崎一雄(41歳)、慰問のために臨時徴用された林 芙美子(37歳)、佐多稲子(37歳)、吉屋信子(45歳)なども含め100名を越す作家・文化人が、この時期に南方に派遣されたとか。

左派やリベラルなど民主主義を標榜する人たち(たとえば、間宮茂輔高見 順、清水 幾太郎 いくたろう 、武田麟太郎)にとっての「徴用」は、「懲用」(懲らしめるために用いる。懲罰召集)の側面があったと言われます。

中国・東南アジアへの侵略を米国から全否定された日本が引き起こしたアジア・太平洋戦争の戦局はますます絶望的となり、働き盛りの男性は徴兵されてほとんどいなくなっていきます。国内は深刻な労働者不足となり、徴用制度が拡大され、会社ぐるみの徴用、中等学校(旧制の中学校・高等女学校・実業学校)以上の学生や女性も軍需工場に動員されるようになっていきます(学徒動員・女子挺身隊)。敗戦までに616万人が徴用されました。

学徒動員は昭和13年頃からありましたが、数度の閣議決定で方針が強化され、昭和19年の「学徒勤労令」によって法的根拠も与えられてしまいます。東京帝国大学法律学科の学生だった三島由紀夫も、昭和20年(19歳)、群馬県の中島飛行機の小泉工場(太田市西長岡町 Map→)に勤労動員されました(徴兵検査に合格していたが猶予があったためその間。入隊前の検査で結核の第三期症状と誤診され入隊を免れる。三島が入る予定だった部隊はフィリピンでほぼ全滅)。

女性の勤労動員も閣議決定等で促進され、昭和19年に女子挺身隊が結成、同年(昭和19年)「女子挺身勤労令」が公布され即日施行されました。

動員された少女たち。女子挺身隊(20-40歳の未婚者や子のいない未亡人が対象)にしては若い。学徒動員(中等学校以上の男女が対象)されたのだろう ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『詳説 日本史研究』(山川出版社)
動員された少女たち。女子挺身隊(20-40歳の未婚者や子のいない未亡人が対象)にしては若い。学徒動員(中等学校以上の男女が対象)されたのだろう ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『詳説 日本史研究』(山川出版社)

日本の統治下にあった朝鮮からも募集という形で労働者が集められ、炭鉱や鉱山などでの重労働につかせてきましたが、昭和19年9月からは朝鮮にも「国民徴用令」を直接適用。強制的に連行された人は100万人前後にものぼったとのこと。過酷な労働で命を落とす人もいました。力道山も半ば強制的に日本に連れてこられ相撲取りにさせられました昭和11年公開の蒲田映画「有りがたうさん」(監督:清水 宏、主演:上原 謙)に、白い服で歩く朝鮮の労働者の一群が出てきます。朝鮮の労働者を、しかも同情的に描いた作品で、戦前では まれ なのではないでしょうか?

徴用には徴兵は含まれないわけで、両方を合わせると、一体どれだけの人が強制的に動員されたでしょう?

北河賢三『国民総動員の時代 (岩波ブックレット)』。人・モノ・精神を差し出すことを 神子島健『戦場へ征く、戦場から還る ~火野葦平、石川達三、榊山 潤の描いた兵士たち~』(新曜社)
北河賢三『国民総動員の時代 (岩波ブックレット)』。人・モノ・精神を差し出すことを要求した“美しき国”の実態 神子島 健かごしま・たけし『戦場へ征く、戦場から還る ~火野葦平石川達三榊山 潤の描いた兵士たち~』(新曜社)
『学徒勤労動員の記録 〜戦争の中の少年・少女たち〜』(高文研)。編:神奈川の学徒勤労動員を記録する会 外村 大(とのむら・まさる) 『朝鮮人強制連行 (岩波新書)』。基本史料から浮かび上がるその実態
『学徒勤労動員の記録 〜戦争の中の少年・少女たち〜』(高文研)。編:神奈川の学徒勤労動員を記録する会 外村 大とのむら・まさる 『朝鮮人強制連行 (岩波新書)』。基本史料から浮かび上がるその実態

■ 馬込文学マラソン:
榊山 潤の『馬込文士村』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
高見 順の『死の淵より』を読む→
石坂洋次郎の『海を見に行く』を読む→
間宮茂輔の『あらがね』を読む→
佐多稲子の『水』を読む→
吉屋信子の『花物語』を読む→
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→

■ 参考文献:
●『ビルマ日記』(榊山 潤 南北社 昭和38年発行)P.3-20、P.197-205 ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと 五味 ごみ 文彦、 高埜 たかの 利彦、 鳥海 とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷)P.460-462、P.474-475 ●「国家総動員法」(長 幸男)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「国民徴用令」(長 幸男)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「学徒動員」(吉村徳蔵)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「朝鮮人強制連行」※「ブリタニカ国際大百科事典」の一項目コトバンク→ ●「南方徴用作家」(神谷忠孝)P.5-12 ※「北海道大学人文科学論集」(昭和59年発行)に収録HOKKAIDO UNIVERSITY→ ●「学徒動員と徴用」(山本定男)※『大田区史(下)』(東京都大田区 平成8年発行)P.584-585

※当ページの最終修正年月日
2023.12.23

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