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得意の空手チョップで巨漢外国人レスラーをなぎ倒して、敗戦で意気消沈していた日本国民を勇気づけた力道山。 『力道山がいた』 の著者村松友視氏は、少年の頃、この伝説的プロレスラーの活躍を目の当たりにして、彼の熱烈なファンになっていく。 リングまで足を運んで力道山に声援を送った村松少年は、家に帰るとこんな感じだ。 ・・・力道山の勝ちを確認して、私は安心して電車に乗って清水の家へ帰った。 そして風呂に入って湯船に躯を沈めようとすると、パンツをはいていることに気づいた。 それを脱いでふたたび沈もうとすると、下着のシャツを着ていた。 つまり、プロレスの興奮の余熱が私をボーッとさせていたのだろう。 シャツを脱いで湯船に浸かろうとして、少し冷静になった私は腕時計を外さなきゃいけないと気づき、外そうとしたが手首には腕時計がなかった。・・・(『力道山がいた』 より) これほどまでに力道山は、村松少年の心を鷲づかみにしたのだった。 このように、 『力道山がいた』 では、著者の経験を織り交ぜて、力道山の破天荒な生き様が克明に描かれていく。 本書で驚いたのは、なんといっても後半で徐々に明らかになっていく力道山のプロレスラーになるまでの生い立ちだ。 彼が生きている間はひた隠しにされたことである・・・。力道山の渾身の空手チョップには、当時のファンが夢想だにしなかった思いが込められていた。 『力道山がいた』 について少年の頃から力道山の大ファンだった村松友視による力道山の評伝。著者の自伝も加味されている。平成12年(村松62歳)、朝日新聞社から発行された。 力道山と馬込文学圏昭和30年頃、力道山(30歳)は日本橋から馬込文学圏(大田区梅田町34。 現・南馬込六-30-22)に越してきた。 1000坪ほどの敷地で、芝の庭で大型犬を4匹放し飼いにしていたという。 6年後、馬込車両検修場(都営地下鉄浅草線の車両基地)の用地として買収され、赤坂に去った。 死後、葬られたのは池上本門寺。 近辺に高田延彦の高田道場(後に移転)や、長州力のファイティング・オブ・ワールドジャパン(WJ)の道場があるのは、力道山の墓所に近いからだともいわれる。 当地は“プロレスの聖地”なのだろう。
著者・村松友視について静岡県富士宮の母親の妹の家に疎開するが、近所に母親も疎開していて、しょっちゅう遊びに行く。自分の母親とは知らずに「おばちゃん」と呼んでいたという。祖母に引き取られ飯田村(現・浜松市)の農家の納屋の二階に疎開(※2)。5歳くらいだったが新聞配達をして駄賃にふかしたサツマイモをもらった。 その後、静岡県清水市(下清水八幡神社の裏あたり)に移転し、静岡高校を卒業するまで祖母と過ごした。学校の休みごとに鎌倉で愛人と暮らしている祖父の梢風の元に遊びに行き、華やかな文士生活を垣間みる。梢風は売れっ子の作家だったのだ。 中学3年のとき、梢風の愛人から「おばちゃん」が実の母親と知らされ、虚構を生きてきた自分に気づく。昭和36年(20歳)、梢風の葬儀の場で母親と改めて対面した。 編集者から作家へ。多様な交友
村松友視と馬込文学圏30歳代(昭和45年~)の編集者時代、大井町(馬込文学圏。東京都品川区)に住んだ。 小説 『泪橋』 は近所の鈴ケ森の刑場跡や泪橋から着想したという。 参考文献●『鎌倉のおばさん(新潮文庫)』(村松友視 新潮社 平成12年発行)P.68、P.140、P.151-162、P.165、P.170、P.195、P.211-212、P.226-239 ●「ニッポン人脈記 出会い橋なみだ橋」(「朝日新聞」平成20年5月19日夕刊4版掲載) ●『学校裏から始まった2』(西村俊康 ハーツ&マインズ 平成17年発行)P.75-82 ●『あいうえおおた』(財団法人大田区産業振興協会編)P.45 ●『読ませる技術』(山口文憲 マガジンハウス 平成13年発行)P.59 参考サイト●ウィキペディア/馬込車両検修場(平成25年8月23日更新版)→ ●静岡新聞/ 静中、静校創立125周年ホームページ 「卒業生の思い 作家 村松友視氏」→ ※当ページの最終修正年月日 |