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“日本が戦争を仕掛けた(昭和16年12月8日、日本海軍、ハワイの真珠湾の米海軍を奇襲する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本軍の奇襲によって米海軍の戦艦・アリゾナは、1,177名の米兵とともに沈没した ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:米国国立公文書記録管理局が管理する写真

 

昭和16年12月8日(1941年。 日本軍が、ハワイのオアフ島の真珠湾の米海軍太平洋艦隊基地map→を奇襲(宣戦布告しないで攻撃)、戦艦5 せき を含む7隻を沈没ないし擱座かくざ (壊れて動かなくなること)させ(大破・中破・小破を含めると計17隻)、231機を喪失させ、5千名近い人に身体的被害(4,784名。うち戦死・行方不明・戦傷後死亡2,402名。民間人103名を含む)を与えました。

日本軍は同日(12月8日)真珠湾の攻撃よりも1時間以上も早くに、英国領マレー半島にも上陸、半島沖の英国東洋艦隊の主力を撃滅(英国にも宣戦布告しなかった)、翌昭和17年5月までに東南アジアのほぼ全域を制圧しました(昭和16年12月中にグアム島と香港、翌昭和17年1月にはフィリピンのマニラ、2月にはマレー半島とシンガポール、3月には蘭印らんいん(オランダ領インド(現・インドネシア)、5月までにビルマ(現・ミャンマー)、フィリピン全島を占領)。

山本五十六
山本五十六

山本五十六いそろく (大将。連合艦隊司令長官)は、必ずや米英との戦争を招くことになると日独伊の三国同盟締結に強硬に反対し、日本を破滅に導くとして米英との戦争に最後の最後まで反対でしたが、戦争を仕掛ける以上はその最初に最大限の戦果を上げる以外にないと考え真珠湾攻撃を発案しました。真珠湾攻撃に限っていえば大きな“戦果”がありましたが、戦争を嫌っていた米国国民(昭和15年9月に日本軍が仏印(現・ベトナム)南部に武力進駐を強行するまでは、米国国務長官ハルもルーズベルト大統領も日本との戦争回避を望んでいた)を一挙に戦争へと向かわせる結果となり、結果的には大失敗に終わります。米国国民は「Remember Pearl Narbor!」(真珠湾を忘れるな。日本の卑怯なだまし討ちを忘れるな)を合言葉にまとまってしまいます。

日本が日米交渉を断念して米国との戦争に踏み切ったのは、米国が「中国と仏印からの全面撤兵」「日独伊三国同盟の空文化」「中国の国民政府(蒋介石しょうかいせき の重慶政府)以外の政権を不承認」を突きつけてきたからです。日本は昭和6年の満州事変以後、謀略に謀略を重ねて大陸に侵攻していました。また中国の蒋介石政権を支援する米英の援助ルートを遮断するために仏印にも武力進駐していました。それらを米国は全否定してきたのです。

近衛文麿首相(50歳)は中国から撤兵してでも日米交渉を継続しようとしましたが、陸軍大臣の東条英機(56歳)が撤兵に強く反対し、(第3次)近衛内閣は総辞職に追い込まれました(決断を避けて逃げたとの見方もある)。東条が首相になって(陸軍大臣を兼任)対米英戦争となりました。

当初、真珠湾における日本軍の“戦果”に日本中が沸き立ちました(きっとスポーツの国際試合で日本チームが大勝利したときのようだったのでしょうね)。伊藤 整(36歳)は「今日は人々みな喜色ありて明るい」と書き、小林秀雄(39歳)は「大戦争がちょうどいい時にはじまってくれたという気持ちなのだ。戦争は思想のいろいろな無駄なものを一挙になくしてくれた」と書き、亀井勝一郎(34歳)は「返答であり、復讐だったのである。維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴すべきときが来た」と書いています。横光利一(43歳)も、「祖先を神だと信じた民族が勝ったのだ」 「もっとも自然なことだ」と書き、高村光太郎(58歳)などはずばり「十二月八日」という詩で「記憶せよ、十二月八日。この日世界の歴史あらたまる」と戦争を賛美しました。 豊島与志雄 とよしま・よしお (52歳。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』やロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』の訳者として知られる)は「これでいよいよ『聖戦』の意義がはっきりした」と書き、尾崎一雄(41歳)は「アングロサクソン人を亜細亜から放逐せよ」「彼らは彼らの犯せる罪を背負ってその生れた所へ帰ってゆくがいい」と書きました。阿川弘之(当時20歳)も後年「暗雲垂れこめていたものが一挙に吹き払われた感じ」と書いています。 上林 暁 かんばやし・あかつき (39歳)は「新しい世界へ急展回したことを、私ははっきりと感じた」と書き、清水 幾太郎 いくたろう (34歳)は「長い間の苦しい便秘の後に ようや く便通があったという感じ」と表現しています。

坂口安吾(35歳)は、真珠湾攻撃の際、小型特殊潜水艇「 甲標的 こうひょうてき 」に乗って出撃し未帰還になった9名(当時「九軍神」と呼ばれた)に感激して『真珠』青空文庫→を書いています(実は10名参加で、酒巻和男少尉は米国の捕虜になり、カウントされていない。「生きて捕虜の辱めを受けざる」が美徳とされたので、彼が生きていたのでは“美談”にならず困るのだった)。

社会性を捨象し、勉強しないで書いた「身の回り文学」「自分の思い文学」「思いつき文学」「考えるな文学」「“文学的”文学」の作者が、時代の空気にいかに流されやすいか物語っています。

ドナルド・キーンが言い切っています。

・・・作家たちは戦争勃発の際、ほとんど一致して軍国主義者の背後に立った。彼らは、緒戦しょせんの勝利を誇り、戦勢が傾きはじめたときは努力を倍加するよう力説した。敗戦が迫ってきたときのみ、若干の作家は意気を沮喪そそうさせたが、他のものは、さらに自己をむち打って熱狂的な軍国主義に走った。・・・(ドナルド・キーン「日本の作家と大東亜戦争」)

日本には戦争に疑問をもったり反対する人はいなかったのでしょうか?

大本営(天皇直属の戦争指導機関)は国策の欠陥を示すことは発表しませんでしたし、マスコミも軍部と癒着し戦意を高揚させるようなことを国民に盛んに垂れ流したので、多くの国民が「大日本帝国バンザイ!」となり日の丸を振りました。国策に反する出版物は排除され国策に反する学者も排除され国策に反対する人たちは捕まり、あるものは殺されました国策に異議を唱えた政治家も排除されました。

しかし、日本軍が勝利を重ねたのは真珠湾攻撃からわずか半年ほどです。昭和17年5月には珊瑚海海戦(珊瑚海 map→)で米国の機動部隊の反撃にあってポートモレスビー(ニューギニア島。現在、パプアニューギニアの首都 map→)の攻略に失敗、翌6月にはミッドウェー海戦(ミッドウェー島 map→)で日本海軍は敗北、翌昭和18年2月には日本陸軍が補給路を断たれてガダルカナル島から退却し、同年5月にはアッツ島map→の日本兵が全滅。翌昭和19年6月にはマリアナ沖海戦で壊滅的打撃を受けて、制海権も制空権も失って、マリアナ諸島のサイパン島map→も占領されます。同年11月頃からマリアナ諸島から飛んでくる大型爆撃機B29によって本土が空襲されるようになりました。

半藤一利『昭和史(1926-1945)(平凡社ライブラリー)』。満州事変からアジア・太平洋戦争に破れるまでの流れ 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)。なぜ、日本人は戦争を選び続けたのか。高校生と考える歴史講座
半藤一利『昭和史(1926-1945)(平凡社ライブラリー)』。満州事変からアジア・太平洋戦争に破れるまでの一連の流れ 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)。なぜ、日本人は戦争を選び続けたのか。高校生と考える歴史講座
保阪正康『山本五十六の戦争』(毎日新聞出版)。対米英戦争に反対しながらも、真珠湾攻撃を指揮することになる男の生涯 山崎豊子『約束の海 (新潮文庫) 』。「戦争をしないための軍隊」を模索する。山崎最後の作品(未完)。酒巻和男少将をモデルにした人物も登場する
保阪正康『山本五十六の戦争』(毎日新聞出版)。対米英戦争に反対しながらも、真珠湾攻撃を指揮することになる男の生涯 山崎豊子『約束の海 (新潮文庫) 』。「戦争をしないための軍隊」を模索する。山崎最後の作品(未完)。酒巻和男少将をモデルにした人物も登場する

■ 参考文献:
●『図説 太平洋戦争』(平塚柾緒まさお 、森山康平 河出書房新社 平成7年初版発行 平成13年発行12刷参照)P.16、P.27 ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと 五味 ごみ 文彦、 高埜 たかの 利彦、 鳥海 とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.472-477 ●『昭和史(1926-1945)(平凡社ライブラリー)』(半藤一利 平成21年発行)P.338-345、P.384-405 ●『真珠湾の日(文春文庫)』(半藤一利 平成15年初版発行 平成23年発行2刷参照)P.10-11、P.407-413 ●「天声人語」(「朝日新聞」平成25年12月8日掲載) ●『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(加藤典洋 幻戯書房 平成29年発行)P.61-63、P.65-67 ●「真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」(吉川 慧)THE FUFFINGTON POST→) 

※当ページの最終修正年月日
2022.12.9

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