|
||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||
|
昭和7年2月11日(1932年。 永井荷風(52歳)が、日記に、本音をぶちまけています(権力サイドを批判しようものなら無事でいられない暗黒時代ゆえ)。 ・・・同社は陸軍部内の有力者を星ヶ岡の 「同社」は「朝日新聞」のことで、「星ヶ岡の旗亭(酒を出す場所)」は
私たちは主にマスコミから社会的・政治的情報を得ます。そして、マスコミによって世論も形成されます。マスコミ以外の文献に当たれる人はほんの一握りでしょう。国民が好戦的になるもならないも、マスコミのさじ加減一つです。よって、マスコミの首根っこさえ押さえたら、権力サイドはもうやりたい放題。ただでさえ、日本には「出版法」「新聞紙法」という世界に類がないほど悪質な弾圧法があって、言論は厳しく制限されていました。 日中戦争の拡大方針が決まった時も、当局が最初にやったのは、大手マスコミの懐柔でした。 最後まで政権を批判した雑誌「改造」は、昭和17年に掲載した論文にいちゃもんがついて、廃刊に追い込まれることとなります。 昭和になって、特に満州事変ごろから、多くの作家が雪崩うって日本回帰しますが、なんのことはありません。当時、毎日のように2〜3冊は日本精神論や日本主義の本が出版されたというのですから、むべなるかなです。その手の「日本スゴい」本に刺激され、 多くの作家がその手の本を書くようになって、大衆は「有名人」に弱いので、すぐにそういった言説に染まり、その手の本が売れるようになれば、また新たに出版される・・・。そういったムーブメントに大衆が無自覚ならば、世論形成などチョロいもんですね。 「日本スゴい」本は、 自画自賛だけならアホっぽくとも無邪気なもんですが、だいたいが 他国を誹謗すること(ヘイト)とセットになっており、“戦争”(“戦争”の危機を煽った末の軍備増強)が準備されるところに大きな問題があります。近年(第二次安倍政権以降。平成24年〜)も、「日本スゴい」本が腐るほど出版されるようになり、テレビにも自国自賛の番組が恥ずかしげもなく垂れ流され、そして、巷ではヘイトスピーチが勢いづきました。 みんな、マスコミをコントロールしようとする人たちと、それに抵抗しないマスコミと、コントロールされ切ったマスコミをそれでも有難がる無知な人たちの責任です。 一瞬にして情報が行き交い、一瞬にして世論を塗り変えることすら可能なマスコミは、強力な公器になると同時に(政治に無知な人があふれ、民主主義崩壊寸前の日本ですが、マスコミが本気になれば、たちまち投票率90%以上にすることができるでしょう、マスコミが本気になれば・・・)、おぞましい凶器にもなるので、その運用に大衆は厳しい監視の目を常に光らせている必要があります。 関東大震災以降ラジオが普及し、また、戦後にはテレビも普及、情報が、より早く、より広い範囲に、より感情に訴える形で伝わるようになりました。マスコミの力が増大し、その危険性も高まりました。今や悪魔のように言われるヒトラーですが、当時は、マスコミを有効に利用して、人々の心をつかみ、神のように崇められていたことを忘れてはなりません。 放送が公共の福祉に適合し、民主主義的に自由に健全に発達するよう、昭和25年、「放送法」と「電波法」が施行されました。この2法の他にも「電波管理委員会設置法」というのがあって(合わせて電波3法という)、政府から独立した電波監理委員会が電波行政を行う権限を持っていましたが、なぜか昭和27年廃止され(第3次吉田 茂内閣)、現在は、放送行政の権限を総務大臣が握っています。政府がおかしくなればマスコミもおかしくなる仕組みであり、すぐにでも、政府から独立した電波監理委員会を復活させる必要があるでしょう。 平成27年、与党の自民党はテレビ朝日とNHKの幹部を呼び出し、平成28年にも当時の総務大臣が「政治的公平性」を欠くならば「電波を止める」と脅しました。近年の両局の萎縮ぶりと忖度ぶりにはため息しか出ません。 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない(「放送法」第三条。「放送番組編集の自由」について) 「政治的公平性」をいうのなら、マスコミの人気者に政治家が殊更に接近して仲の良さをアピールしたり、その人物に意向の代弁をさせたり、政治家がバラエティーの類に出て愛想を振りまいたり、あと、隣国が人工衛星の類を打ち上げただけで「ミサイルの類」だと大騒ぎして敵愾心を煽ったり、百田尚樹氏をNHKの経営委員に承認したり、政治家とジャーナリストが盃をかわしたりするのは、どんなもんでしょう?
最後に、むのたけじの言葉を紹介します。戦中、朝日新聞の記者として戦争に加担したむのは、戦後退社し、特定の権力や資本から距離をおいて週刊新聞「たいまつ」を発行しました。 ジャーナリズムにおける「不偏不党」という看板は、ちぎれてしまった隠れみのである。(「たいまつ」370番) かんじんの部分を伝えない新聞記事は、伝えた部分がホントでも、ウソの記事である。(「たいまつ」388番) 酔ってからの握手は、すべて不潔である。(「たいまつ」537番)
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |