{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

日記という文学(高見順、永井荷風らの日記について)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高見順 永井荷風

昭和38年5月19日(1963年。 高見 順(56歳)が、日記で、父方の従兄の永井荷風に言及しています。荷風は4年前の昭和34年に79歳で死去しすでに故人ですが、高見の気はまだ収まらないようです。

・・・私は『荷風に近づこうと追いまわした』ことなど一度もない。絶対にない。・・・

高見が口惜しがるのは、荷風が日記(『 断腸亭日乗 だんちょうていにちじょう 』)に高見のことをさんざん書いたからでしょうか。『断腸亭日乗』は敗戦後数年して出版され始めました。それによると、

・・・この日の午後文士高見順踊子二三人を伴ひオペラ館客席に来れるを見たり。 原稿紙を風呂敷にも包まず手に持ち芝居を見ながらその原稿を訂正する態度実に驚入りたりと ふ。 かつて三上於菟吉おときち といふ文士神楽坂の待合にて芸者に酌をさせながら原稿をかきこの一枚が十円ヅツだから会計は心配するなと豪語せしはなしと好一対の愚談なり。・・・(永井荷風『断腸亭日乗』昭和15年2月16日)

・・・此日このひ到着の郵便物の中に文士高見順といふ面識なき人、往復端書はがきにてその作れる戯曲を浅草公園六区楽天地にて上演すべし。会費を出して来り見よといふがごとき事を申来れり。自家じか吹聴ふいちょうろう実にいと ふべし・・・(永井荷風『断腸亭日乗』昭和15年6月16日)

・・・文士高見順しばしば楽屋に来りに交際を求めむとすと云ふ。迷惑はなはだ し。・・・(永井荷風『断腸亭日乗』昭和15年9月13日)

高見荷風が従兄であるのを知って近づきたい(教えを乞いたい)と思うのは自然な感情と思いますが、それを荷風は嫌がりました。上の高見の日記が書かれた昭和38年の前年(昭和37年)から岩波書店で刊行された『荷風全集』に収録された『断腸亭日乗』は抄録でないようなので、上の荷風の日記もおそらく収録されていたのでしょう。高見としてはたまりませんね。

こんな感じで、2人は仲が良くありませんでしたが、膨大な日記をつけた点は共通しています。荷風の『断腸亭日乗』は全7巻で、 高見 順日記は全17巻で出版されています。

『断腸亭日乗』には軍部や政権やマスコミの批判も赤裸々に記してあり、人に知れたら、ただじゃ済まない怖い時代ですから、戦中は知り合いにもいっさい見せなかったようです。また、付き合った女性の一覧もあり、16人まで番号をふって紹介しています(笑)。柳橋芸者あり、新橋芸者あり、神楽坂の芸妓あり、私娼あり、家に置いた女性あり、見受した女性あり、しばしば会う女性あり、大蔵省官吏の娘あり、すし屋の娘あり、大工の娘あり、農家の娘あり、虎ノ門女学校卒業生あり、清元の内弟子あり、陸軍中将の娘あり、職工の娘あり、銀座カフェ「タイガー」の女給あり、「発狂して松沢病院にて死亡」した女性あり、「夫婦二人づれにて待合に来り秘戯を見せる」女性あり・・・。日記の出版は、私小説以上に“秘密”がさらされるわけですが、荷風は浅草のストリップ小屋に通い、自ら舞台に上り、写真を撮られることも憚らなかった人なので、日記の公開くらいなんでもなかったかもしれません。

石川啄木 室生犀星

石川啄木は日記の出版を絶対的に望まなかったようですが、「出版の意義あり」ということで死後出版されてしまいます(長浜 功『『啄木日記』公刊過程の真相 〜知られざる裏面の検証〜』(社会評論社)Amazon→)。やはり、いろいろ凄いことが書いてあるようです。北方謙三さんのハードボイルドに出てくる高樹警部(「老いぼれ犬」)は、意外にも、書斎に啄木の全集を並べ、夜、啄木の日記を紐解ひもと いたりします。小説の登場人物が作家の日記を読むというのはそうないことかもしれません。こういった「作中作品」には著者の読書体験が反映されていることでしょう。

室生犀星は、後に公開されることも多少意識して日記を書いている節があります( 『室生犀星全集 別巻一』Amazon→ (新潮社)に大正13年から昭和27年までの日記を収録されています。

芦田均 原 敬
原 敬

芦田 均も大量の日記を残しました。芦田は、戦前から、軍部の言いなりの政府とその翼賛政策を批判、リベラルを貫いて、戦後は、第47代内閣総理大臣になった人です。第一高等学校(現・東大)に入学した翌年から、死の床につく1ヶ月前まで日記をつけ、その数は73冊にものぼるとか(『芦田 均日記〈第1巻〉 〜敗戦前夜から憲法制定まで 新国家の建設へ〜』(岩波書店) Amazon→)。政治家になる前の20年間外交官だったので、外国語が堪能で、フランス語、英語、ロシア語も多用。戦前・戦中は、当局に見つからないよう、日記を靴の底に隠すこともあったそうです。

政治家では、原 敬はら・たかし (第19代内閣総理大臣)も82冊もの日記を残しています(栗田直樹『原 敬日記を読む』(成文堂) Amazon→)。日記をつけ日々内省している政治家が今どれだけいるでしょう? 残したくない、隠したい政治家にはとうてい無理ですね?

モース

大森貝塚の発見者・モースも、明治10年、横浜港に入港した日から、スケッチ入りで克明な日記を記しています。当時の第一級資料でしょう(モース『日本その日その日 (1) (東洋文庫 )』 Amazon→)。彼ほど日本の風習や文化に関心を寄せた外国人も少ないでしょう。火事場がお気に入りで、繰り返し現場に足を運び、克明に記録しています。

敗戦後A級戦犯容疑をかけられることとなる徳富蘇峰は(老齢と病気を理由に不起訴)、玉音ぎょくおん 放送(昭和天皇による「終戦の詔書しょうしょ 」の音読放送)後3日目(昭和20年8月18日)から約2年間、日々の思いを口述しています(『頑蘇がんそ夢物語 〜徳富蘇峰 終戦後日記〜』(講談社)Amazon→)。占領下の日本を、信頼していた軍部を、朝鮮戦争を、戦後の蘇峰がどう思ったか、興味深いものがあります。

当地(東京都大田区)にもかなり空襲があり、ほとんどの作家は疎開しますが(または、させられますが)山本周五郎添田知道は、敗戦まで当地に留まっています。二人は、親友で(途中で絶交)、ともに当時日記をつけています。同じ事柄が違う立場から書かれていて面白いです。(山本周五郎 『戦中日記 (ハルキ文庫)』Amazon→添田知道『空襲下日記』(刀水書房)Amazon→

高見 順『闘病日記〈上〉 (同時代ライブラリー)』(岩波書店) 永井荷風『断腸亭日乗(摘録 ) 上 (岩波文庫)』
高見 順『闘病日記〈上〉 (同時代ライブラリー)』(岩波書店) 永井荷風『断腸亭日乗(摘録 ) 上 (岩波文庫)』
ドナルド・キーン 『百代の過客 ~日記にみる日本人~ (講談社学術文庫) 』 『日記で読む近現代日本政治史』(ミネルヴァ書房)。木戸孝允、原敬、牧野伸顕、重光葵、東久邇宮、佐藤榮作らの日記を紹介
ドナルド・キーン 『百代の過客 ~日記にみる日本人~ (講談社学術文庫) 』 『日記で読む近現代日本政治史』(ミネルヴァ書房)。木戸孝允、原 敬、牧野伸顕、重光葵、東久邇宮、佐藤榮作らの日記を紹介

■ 馬込文学マラソン:
高見 順の『死の淵より』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→

■ 参考文献:
● 『高見 順 ~人と作品~』(石光 葆 清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年2刷参照)P.12-18 ●『詩人 高見 順 その生と死』(上林猷夫かんばやし・みちお  講談社 平成3年発行)P.232-235 ●『永井荷風(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行)P.20-36、P.72-83 ●『小説家たちの休日 ~昭和文壇実録~』(文:川本三郎 写真:樋口 進 文藝春秋 平成22年初版発行 平成22年発行2刷参照)P.8-13 ●『室生犀星全集 別巻一』(新潮社 昭和41年発行)P.193 ●『最後のリベラリスト・芦田 均』(宮野 澄 文藝春秋 昭和62年発行)P.239-244 ●「私娼の生態(1)−3 断腸亭日乗(荷風日記)より その1」(旧聞)旧聞アトランダム→

※当ページの最終修正年月日
2023.5.19

この頁の頭に戻る