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室生犀星の『黒髪の書』を読む/救いを探る - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

室生犀星『黒髪の書』

子どもの頃、室生犀星は悲惨だった。 生後一週間で寺に捨てられ、拾われた先の養母からは日々激しい折檻を受けた。 小学校の教師からも叱られどおしで、自尊心はズタズタで、子どもながらに川に飛び込んで死んでやろうとさえ思ったという。

犀星は、皆から嫌われるもの、例えば毛虫などに親しみの眼を向ける人だった。 否定され続けた自分を重ねて見ていたのかもしれない。

この 『黒髪の書』 でも、犀星は疎外されたものに目を向ける。

牢獄から出てきて世間の冷たい視線にさらされる男、身持ちのよくない乞食の妻に激しく嫉妬する乞食の夫、病的なまでに繊細な神経を持つ人、重い病に冒されつつある男、片目の犬・・・。 何かしら幸福から縁遠いものたち。

そして犀星は、彼らを見つめ、“救い” を探る。

この小説の中で、彼らは救われるだろうか? もし彼らに救いがあれば、それは犀星の救いでもあったろうし、読む我々の救いでもあるのだろう。

雪の本門寺 『黒髪の書』 の第三話 「餓人伝」 の舞台の池上本門寺。夜になって風雪は強まり、お堂の縁の下に住まう人たちを容赦なく襲う (平成13年1月撮影)

『黒髪の書』 について

室生犀星 『黒髪の書』
室生犀星 『黒髪の書』

室生犀星66歳の時の作品集。昭和30年、新潮社から出版された。 この本の出版の前に犀星には7年間のブランクがあり、これが出版されたとき、“奇跡の復活”と言われた。

タイトルには、皆かつては黒髪の人であったという意味が込もる。 人生における、老いや零落を見つめている。


室生犀星について

室生犀星
室生犀星 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:『馬込文士村ガイドブック(改定版)』

逆境
明治22(1889)年8月1日、石川県金沢市で生まれる。 父は加賀藩士小畠吉種、母は吉種に仕えた女性。 犀星出生時、吉種は63歳で、世間体をはばかって生後1週間の犀星を真言宗雨宝院map→に捨てた。寺の住職の内妻ハツが育てる。 他にテヱ、真道、きんという三人の貰い子があり、兄弟姉妹として過ごす。花柳界に身売りした優しい義姉テヱを思って、後年 『蒼白き巣窟』 を書く(1万字近くの伏せ字あり)。

明治35年(12歳)、 高等小学校を3年で中退、義兄真道が勤める金沢地方裁判所の給仕になる。 上司の川越弥一などを真似て俳句を作り始める。 川越らが句を添削してくれた。明治37年(15歳)「北国新聞」に俳句が初掲載され、 明治40年(17歳)には「新声」で詩が首位になり、詩で身を立てる決意をする。この頃から犀星と名乗る。

翌年、養母ハツを避けて金石出張所(金石海岸)に転勤、一人暮らしを始めるが、文学への思いが高じて裁判所を退職、石川県三国町の 「みくに新聞」 に入社、新聞小説などを書くが、1ヶ月もしないで社長と衝突して退職。 翌年、赤倉を頼って上京(明治43年。21歳)、裁判所のアルバイトや詩の代作で食いつなぐ。

「朱欒」に掲載された詩でブレイク
東京での生活は2年で立ち行かなくなり、明治45年(23歳)、帰郷、定職を持たない犀星への周囲の目は冷たかった。 哀愁ある詩風となる。 「スバル」「朱欒」などに作品を発表、萩原朔太郎(26歳)を激しく感動させた。大正3年(25歳)、朔太郎山村暮鳥と人魚詩社を設立、翌年、同人誌 「卓上噴水」 を創刊(3号で廃刊)。

大正5年(27歳)、再び上京。 朔太郎と感情詩社を設立、同人誌 「感情」 を創刊(大正8年32号まで)。 大正6年(28歳)、養父真乗(雨宝院住職。養 嗣子しし になっても寺を継がない犀星を理解した)が死去、わずかばかりを相続し、それを元手に、大正7年(29歳)、第一詩集 『愛の詩集』 (1月)、第二詩集 『抒情小曲集』 (9月)を出版、評価される。

ふるさとは遠きにありて思ふもの 
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや・・・
(『抒情小曲集』所収「小景異情」 より。初出:「朱欒」(最終号))

帰郷の際、文通相手の浅川とみ子と会い、結婚を約し、この年(大正7年2月)結婚、第二詩集はとみ子が着物を売って助けた。この頃からドストエフスキートルストイを耽読。人の不幸を見つめる。

家族のために書きまくる
詩だけでは食っていけず、新たな道をさぐるべく芥川龍之介に接近。ドストエフスキーの 『カラマゾフの兄弟』 に触発されて小説を書き始める。 大正8年(30歳)、瀧田樗陰に見いだされて、自伝小説 『幼年時代』『性に眼覚める頃』『或る少女の死まで』(初期三部作)を書いて成功。 翌年、33編もの小説を濫作。

若い作家をさかんに支援、同人誌「驢馬」や「四季」を支えた。 大正末から昭和初期にかけてモダニズムが隆盛、遅れを取る。 円本の恩恵で家計は安定していた。

面目躍如の「市井鬼物」
昭和9年(45歳)、「詩よ君とお別れする」の一文を発表、抒情的な作風と決別、善悪を越えた民衆の放埒なエネルギーを書く。それらは 「市井鬼物」と呼ばれ高く評価された。 全集の刊行も始まり、芥川賞の選考委員となる。

前衛を貫く
戦中は、王朝物や甚吉物(作者の分身“甚吉”を主人公にした一連の作品)で、生きることの切なさと生命への愛惜を描く。戦争を讃えるものも残した。

戦後、沈黙がちだったが、昭和30年(66歳)、 『黒髪の書』 『随筆 女ひと』 で復活。娘の朝子をモデルにした小説 『杏っ子』 がベストセラーとなる。 最晩年の 『われはうたへどやぶれかぶれ』 まで、独自な文体で前衛を貫いた。 生涯に出版した本は150冊、小説は700編、詩は1300編に及ぶ。

昭和37(1962)年(72歳)、肺ガンで死去。 墓所は石川県金沢市の野田山墓地(石川県金沢市野田町野田山1番地2 map→)( ) 。

室生犀星
・ 「室生といふ男は、見る物聞く物、何につけても、子供のやうな驚き方をする男である」 (萩原朔太郎(「讀賣新聞」昭和12年3月10日「室生犀星を檢討する」より)

・ 「世間に気も使わなければ、気を使われようとも思っていない」(芥川龍之介(「でき上がった人 ~室生犀星氏~」より)

室生犀星文学アルバム『切なき思ひを愛す』 『室生犀星詩集 (新潮文庫)』
室生犀星文学アルバム 『切なき思ひを愛す』 室生犀星詩集 (新潮文庫)』

室生犀星と馬込文学圏

昭和3年11月10日(39歳)、萩原朔太郎(42歳)の妻稲子が探した借家(現・山王四丁目13)に、東京田端から越してきた。 近くの弁天池の湿気が子どもの健康に障るのを心配し、4年後の昭和7年(43歳)、万福寺の隣に家を建てて終生住む(現・南馬込一丁目 49-5「室生マンション」 map→)。庭の地面を 「女性の肌」 にたとえ、庭作りに丹誠を込めた。 踏み石を雑巾で拭くほど。 妻を亡くした時は墓を庭に作った。 当地にいたのはおよそ33年間。万福寺に庭石の一部が移され、彼の句碑が立つ。家の離れは馬込第三小学校(北馬込一丁目)に移築され保存されている。

避暑や疎開で軽井沢へ行く際、当地の家の留守番を伊藤信吉立原道造が務めている。

萩原朔太郎とはしばしば大げんかしながらも終生親しくし、片山広子佐藤惣之助竹村俊郎平木二六芥川龍之介津村信夫衣巻省三らとも親交。宇野千代尾﨑士郎の夫婦とは肌が合わず、衣巻の家でうだうだしていた稲垣足穂をたしなめた。

馬込にある4つの小学校のうち3校(馬込小学校・馬込第三小学校など)の校歌の詞は犀星による。

作家別馬込文学圏地図 「室生犀星」→


参考文献

●『評伝 室生犀星』(船登芳雄 三弥井書店 平成9年発行)P.99-134、P. 183-195 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年発行) P.52-53、P.70-74 ● 『大森 犀星 昭和』 室生朝子 リブロポート 昭和63年発行) P.159-161 ●『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行) P.120-125、P.160-178 ●『馬込文士村の作家たち』 野村裕 自費出版 昭和59発行) P.66-80 ● 『文学者たちの軽井沢(上)』(吉村裕美 軽井沢新聞社 平成21年初版参照) P.24-25 ●『馬込村文芸の会 十年の歩み』 (発行:大沢富三郎 平成6年) P.52-53、P.111  ●『眼中の人』小島政二郎 文京書房 昭和50年発行) まえがき ●『我が愛する詩人の伝記(新潮文庫)』(室生犀星 昭和41年初版発行 昭和54年18刷参照) P.13-14 ●『室生犀星文学アルバム ~切なき思ひを愛す~』( 菁柿堂 せいしどう 平成24年発行)P.32-35


※当ページの最終修正年月日
2018.11.11

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