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大正13年4月24日(1924年。 高見 順(17歳)が、芸術至上主義の詩人に対する反感を日記に吐き出しています。この年、高見は第一高等学校(一高)文科に進学。一高は全寮制だったので、親元を離れ、自由を満喫していました。 ・・・北原白秋、西条八十、日夏耿之介、川路柳虹、(野口米次郎)、白鳥省吾、・・・(中略)・・・(萩原朔太郎)、佐藤惣之助、百田宗治、三木露風、生田春月 若い高見にとって詩は、「切実な現実生活の表現」でなくてはならず、芸術至上主義などは民衆の生活からかけ離れた抽象的で気取った言葉の羅列であり、「くたばっちまへ」でした。 東京府立第一中学3年の頃(15歳頃。大正11年頃)より、大杉 栄(死後1年)の『自叙伝』『正義を求める心』や、 アナキズムの基礎文献ともいえるクロポトキンの『相互扶助論』(訳:大杉 栄)や『パンの略取』(訳:幸徳秋水)を愛読 、その頃(大正11年)、有島武郎(44歳)が自ら所有する広大な有島農場(北海道 この年(大正13年)、プロレタリア系の作家が結集して同人誌「文芸戦線」が創刊(6月創刊。上の高見日記の2ヶ月後)されます。当然高見も手にします。この頃プロレタリア文学が勃興し、高見に限らず多くの作家がその影響を受けました。芸術至上主義の芥川龍之介までが、社会主義関係の洋書をむさぼり読んだのも大正13年頃です。 プロレタリア文学のプロレタリアとは労働者のこと。今までの文学は、書生や学生や教師や芸者や小金を手にした作家らが主な主人公で、油や泥にまみれて働く労働者や社会の底辺にいる人々を直視した作品は限られていました。「文芸戦線」は、後者の生き様を表現の中心に据えました。葉山嘉樹や間宮茂輔のように自ら労働現場に身を投じる作家も現れました。 大正3年に勃発し900万人以上の死者を出した、人間の愚かさの象徴「第一次世界大戦」(終結は大正7年)を食い止め得なかった旧来の文化・思想・芸術への不信と絶望もありました。 大正6年にはロシア革命が起き、5年後の大正11年、史上初の社会主義国家(共生・共産・平等を謳った)・ソビエト連邦(ソ連)が誕生。その中央集権性(独裁性、反民主性)やそれに伴う残虐な粛清が露見する前だったので、社会主義とソ連に期待する世界的な動向が生まれました。 日本でも社会主義を特集した雑誌「改造」は売れに売れます。また、同年(大正11年)には、(第一次)日本共産党も結成されました。大正13年の「文芸戦線」創刊には以上のような背景があったのです。 「文芸戦線」には、葉山嘉樹、林 房雄、千田是也、黒島伝治、村山知義、藤森成吉、蔵原惟人、平林たい子らも参加して活況を呈しますが、昭和2年頃から社会主義運動の内部で共産主義部分の純化を図ろうとする勢力が力を持ちはじめ(「福本イズム」、アナキズムの排除、共同戦線に対する批判)、分裂が生じ始めます。 昭和3年5月(「三・一五大弾圧」(昭和3年3月)の2ヶ月後)には、弾圧の激化に抵抗し、「文芸戦線」から飛び出した人たちを核に、共産主義をより徹底させ、当局との対決姿勢を鮮明にした「戦旗」が創刊されます。参加した蔵原惟人、小林多喜二、中野重治、徳永 直、佐多稲子、村山知義らが次々とプロレタリア文学の名作を残していきました。小林多喜二の『蟹工船』も、徳永 直の『太陽のない町』も同誌に掲載されたものです。「戦旗」は広く支持されましたが(発行部数2万2千部にも達した)、発禁につぐ発禁で、3年後の昭和6年には廃刊。主要メンバーの小林は特別高等警察(特高)によって殺害されました。 このプロレタリア文学運動とは別に、「文芸戦線」創刊の4ヶ月後(大正13年10月)、芸術派の文芸同人誌「文芸時代」が創刊され、新文学(モダニズム文学)の一翼をになっていきます。 17歳の高見は、一高で社会思想研究会に所属し、ダダイストやアナキストの溜まり場「南天堂書房」(東京都文京区本駒込)にも出入りするといったバリバリの左派志向でしたが、文学的には「文芸時代」の方を愛好したようです。 「文芸時代」には、横光利一(28歳)、川端康成(25歳)、今 東光、佐佐木茂索、鈴木彦次郎ら14名が同人として参加。旧来の私小説的リアリズムとは一線を画し、詩的表現を大胆に小説に持ち込みました。その実験的・先鋭的な作品は、新感覚派と呼ばれ脚光を浴びました。やはり旧来の“知性”に対する不信と反感が根底にあったのでしょう。ダダイズムや未来派や表現主義といった新しい芸術思潮の影響が感じられます。 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。 「文芸戦線」と「文芸時代」はライヴァルでしたが、葉山が新感覚派のテイストを取り入れたり、横光がマルクス主義の歴史観を取り入れたりと相互の影響がありました。 関東大震災(大正12年9月)前後には他にも、文芸誌が多数生まれています。両誌発行の1年前、大正12年1月には文芸総合誌「文藝春秋」を創刊され、中堅知識階級の多数から支持され、現在に至ります。 両誌発行の1年後の大正14年には、室生犀星(36歳)を慕う堀 辰雄(21歳)らが「
同じ大正14年の7月には、「新潮」の編集長・中村武羅夫(38歳)を中心に、尾﨑士郎(27歳)、岡田三郎(35歳)、間宮茂輔(26歳)、佐佐木
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |