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傘を貸す(傘を貸す(明治44年11月5日付けの安田靫彦あて岡倉天心の手紙より))

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治44年11月5日(1911年。 岡倉天心(48歳)が、安田靫彦ゆきひこ (27歳)に以下の手紙を書いています。

・・・昨日橋本正素君横浜へ参られ原富太郎氏と話の結果、老兄ならびに今村紫紅君研究費として向二ケ年間、毎月壱百円支出相成候事に決し候間、左様御承知被下度。なお原君一応御面会相成度趣に付、来七、八日頃橋本氏同道横浜へ御出相成度、期日取極更に申上候。この 件に関し、正素君特に尽力相成候に付御含被下度候 五浦生

候文で読みづらいですが、文意は、「橋本正素(橋本静水。35歳)が横浜の原 富太郎(三渓)と話した結果、あなた(安田靫彦)と今村紫紅しこう (30歳)とに2年間にわたり毎月100円出してくれることになったので、近日中に橋本と三渓に会いに行ってください。この件に関して橋本がいろいろと尽力してくれました」といったところでしょうか。文末の「五浦生」は天心のことです。年長の天心と橋本が仲を取りもち、若い日本画家に対する支援を三渓から引き出したのが分かります。

当時のお金を現在の値段に単純に換算することはできませんが、明治19年の警察官の初任給から推測すると1円は3万円ほどでしょうか。すると、月に300万円ほど。高いようですが、日本画は、高価な紙や絵の具を使用するので、妥当な金額なのかもしれません。

翌年(明治45年)の文展で、安田も紫紅も入賞し、三渓の期待に応えました。なお、前田青邨せいそんも、三渓邸の画室を借りて制作した作品が同展でやはり入賞を果たしています。

原 三渓とは何者でしょう?

原 三渓
原 三渓

三渓は、生糸貿易で莫大な富を築いた財界のリーダーです。かつ、書画、漢学、歴史をたしなみ(跡見学校での教職経験もある)、臨春閣りんしゅんかく といった歴史的建造物の保存や、芸術家支援などにも尽力しました。

三渓は明治39年より自邸を「三渓園」(横浜市中区本牧三之谷58-1 Map→)として公開していましたが、そこに芸術家たち専用の部屋も用意し、さらには、質の高い美術品を数多く収集、それらの鑑賞会を開いて、自らも参加して激論を交わし、芸術家たちに強烈な刺激を与えました。 下村観山しもむら・かんざん小林古径速水御舟はやみ・ぎょしゅう佐藤朝山(23歳)らも三渓の世話になりました。

三渓の長男・原 善一郎の結婚披露宴(大正6年)には、 阿部次郎(34歳)、和辻哲郎(28歳)、安倍能成(33歳)、芥川龍之介(25歳)らの姿もありました。 芥川は善一郎とは東京府立第三中学校での同級。和辻は、 てる 夫人が三渓の長女・西郷春子と親友で、夫婦ともども「三渓園」を頻繁に訪れました。和辻は優れた南画が見たいという夏目漱石を「三渓園」に連れていったこともあったとか。三渓の周りには文化人が絶えませんでした。

このような、芸術家を経済的に援助する活動はいつ頃からあったのでしょう。

王侯・貴族が芸術家に作品制作を依頼し、芸術家がそれに応えて制作するという商取引は大昔からあったのでしょうが、そういった商取引を超えて、常日頃から特定の芸術家を庇護する活動(その庇護者をパトロンという)は、西洋のルネサンスあたりからかもしれません。その時代、芸術家は「職人」から「芸術家」として、個性を必要とする知的で精神的な存在として高く評価され始めました。

原 三渓
教皇ユリウス2世

ルネサンスを代表する作品の1つ「システィーナ礼拝堂天井画」は、教皇ユリウス2世がミケランジェロに命じて描かせたものです。教皇ユリウス2世は自らが作者をミケランジェロに決め、他に譲らず、揺るぎない考えで実行させたのだそうです。「システィーナ礼拝堂天井画」は、ミケランジェロと教皇ユリウス2世との「合作」とも言われています。

原 三渓もそうですが、パトロンには、芸術に対する深い理解が必要でしょう。打算があって金を出すのではなく、芸術そのものを守り育てることが動機の活動ですから。

芸術分野ではありませんが、 渋田利右衛門 しぶた・りうえもん という函館の本好きの豪商が、貧乏のどん底にあった勝 海舟を助けたのもパトロン的行動でしょう。渋田はに200両もの書物代を与え、さらには、自分が死んだあとに頼りにするようにと心ある2、3の人をに紹介。渋田がいなかったら、後のはなかったでしょう。むろん、の才覚を見抜いてのことでしょう。

母一人子一人の高見 順は、「岡」のつく2人に助けられています。1人は、母親の針仕事の得先の岡本癖三酔へきさんすいで、彼は正岡子規門下。6歳の高見に俳句を教えました。高見が第一高等学校(現・東京大学)に進学するときは、東京府立第一中学校(現・日比谷高校)校長の川田正澂 かわだ・まさずみが岡田顕三を紹介。高見は岡田からの個人的な育英資金で進学できました。岡田は、(株)フジクラの創業者・藤倉善八の甥で、フジクラの電線事業の技術面で活躍した人だそうです。 後年、高見は、『岡田顕三伝』の編纂に携わり、その恩に報いています。

1人の金持ちが金を出すのではなく、皆が少しずつ金や力を出し合う、今でいうクラウドファンディングのようなことも行われてきました。

昭和7年、スランプにあった徳田秋声(60歳)を援助するため、阿部知二、井伏鱒二尾﨑士郎、船橋聖一、室生犀星岡田三郎榊山 潤らが「秋声会」を結成、同人誌「あらくれ」(秋声の代表作の1つ『あらくれ』にちなむ)を創刊、秋声を顕彰するとともに、彼に活躍の場を与え、励ましました。その後秋声は文学的に再起し、晩年の円熟期を迎えます。

昭和7年には「辻 潤後援会」もできました。その頃、辻(47歳)は、過度の飲酒で精神に異常を来し、救いが必要でした。「辻 潤後援会」には、谷崎潤一郎佐藤春夫北原白秋萩原朔太郎、加藤一夫、佐藤朝山新居 格にい・いたる武者小路実篤、宮嶋 資夫すけお室伏高信らが参加。プロレタリア作家もいれば、白樺派、詩人、彫刻家、思想家もいます。の多方面への影響力が伺えます。彼らは銀座の伊東屋で自分たちが書いた色紙などを売り、の静養費を作りました。7年前の大正14年にも、が喘息の発作に見舞われた時、上のメンバーのほか荒畑寒村らも参加しての治療費を作りました。

大杉 栄有島武郎から資金援助を受けていたのは普通に納得できますが、後藤新平、頭山 満とうやま・みつる、杉山茂丸らも大杉の援助に列したのには驚き?

竹田道太郎『近代日本画を育てた豪商原三渓 (有隣新書)』 高階 秀爾『芸術のパトロンたち (岩波新書)』
竹田道太郎『近代日本画を育てた豪商 原 三渓 (有隣新書)』 高階秀爾『芸術のパトロンたち(岩波新書)』
『華麗なる激情」。システィーナ礼拝堂の長さ40mもの巨大な天井画は、いかにして描かれたか。彫刻家を自認するミケランジェロ(絵など描きたくなかった?)と、なんとしてでもミケランジェロに描かせたい教皇ユリウス2世との対立と友情。ミケランジェロをチャールトン・ヘストン、教皇ユリウス2世をレックス・ハリスンが演じる。監督:キャロル・リード

『華麗なる激情」。システィーナ礼拝堂の長さ40mもの巨大な天井画は、いかにして描かれたか。彫刻家を自認するミケランジェロ(絵など描きたくなかった?)と、なんとしてでもミケランジェロに描かせたい教皇ユリウス2世との対立と友情。ミケランジェロをチャールトン・ヘストン、教皇ユリウス2世をレックス・ハリスンが演じる。監督:キャロル・リード


■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む→
子母沢 寛の『勝 海舟』を読む→
高見 順の『死の淵より』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
榊山 潤の『馬込文士村』を読む→
辻 潤の『絶望の書』を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→

■ 参考文献:
●「明治時代の1円は現在いくらか。単純な答えが欲しい。」レファレンス共同データベース→ ●『近代日本画を育てた豪商 原 三渓』(竹田道太郎 昭和52年初版発行 昭和56年発行3刷)P.53-55 ●『原 三渓に学ぶ 公共貢献物語』(はまぎん産業文化振興財団 平成23年発行)P.8-13、P.42-43、P.60-61 ●『芸術のパトロンたち(岩波新書)』(高階秀爾 平成9年発行)P.4-8、P.42-46 ●『氷川清話(講談社学芸文庫)』(勝 海舟 編:江藤 淳、松浦 玲 平成12年初版発行 平成27年発行40刷)P.26-30 ● 『高見 順(人と作品)』(石光 葆 清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年発行2刷)P.22-24、P.35-36 ●「神奈川文学年表(大正元年~15年)」神奈川近代文学館→ ●「フジクラの歴史 〜基礎確立の時代〜」株式会社フジクラ→ ●「徳田秋声」(野口冨士男)※『新潮日本文学小辞典』(昭和43年発行)に収録 ●『歴史作家 榊山 潤』(小田 淳 叢文社 平成14年発行)P.145-146 ●『自伝的女流文壇史(中公文庫)』(吉屋信子 昭和52年初版発行 平成17年発行改版)P.182-206  ●『辻 潤 〜「個」に生きる〜』(高木 護 たいまつ新社 昭和54年発行)P.171-172、P.181-182 ●『大杉 栄自叙伝』松岡正剛の千夜千冊→ ●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 昭和58年発行2刷)P.105

※当ページの最終修正年月日
2024.11.5

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