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“その日暮らし”の心(家や屋号について)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城昌幸

昭和51年11月27日(1976年。 城昌幸(72歳)が死去しました。 4,750冊もの蔵書は、自宅近くの馬込図書館(中馬込二丁目)に寄贈され、 「城昌幸記念文庫」 がつくられます。

の屋号 「 其蜩庵きちょうあん」 の扁額へんがく も寄贈され、現在、同館2階の「馬込文士村資料室」に入いると右手に立てかけてあります。かつては、この部屋に「城昌幸記念文庫」も併設されていましたが、現在はほとんどが閉架図書(リクエストされた本を出してもらう方式)になりました。※リンク:東京都大田区立図書館/城昌幸文庫→

「其蜩庵」をそのまま読むと 「きちょうあん」 ですが、 「その日暮らし(其=その、蜩=ひぐらし)」 とも読めます。 の 『若さま侍捕物手帖』 は人気を博し、「五大捕物帳」の一つに数えられているようです。300編を越え、何度も映画化・ドラマ化され、はこの小説でしこたま儲けたようです。当地にあった自宅「其蜩庵」は、写真が残っていますが、贅を尽くしたものと見受けられます。そういった金がぼんぼん入ってくる生活にあっても、若いときの苦労や受けた恩、「その日暮らし」 の気概を忘れないようにと、は「其蜩庵」と掲げたのではないでしょうか。

毎日の散歩を欠かさなかったは、家の佇まいに関心が強く、好ましく住みこなしている家があると佇んで見とれたそうです。若い頃から、建てるあてもなく、家の設計図をひいており、「其蜩庵」建設のおりも大工の棟梁にいろいろ注文を出したようです。

・・・僕は素晴らしい幸運にめぐまれた。というのは、棟梁の出口静氏が、こちらの呼吸とぴったり合い、予想以上の仕事をしてくれたからだ。
 その前に一度、家の修繕をしたことがあったが、その時の大工は、いちいちこちらの注文にさからい、素人は黙っていろという態度なので、これは災難だとあきらめたことがある。
 それが出口さんの場合だと、僕の法外な希望をあくまで尊重し、研究し、専門的基礎知識を縦横に駆使して、常に予想以上の効果をあげてくれた。よくいわれることだが、家を建てることは棟梁の人柄ひとつにきまる。・・・(城昌幸『えぴきゅりあん』より)

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作家はいろいろ面白い屋号をつけますね。

芥川龍之介

芥川龍之介は書斎に 「 餓鬼窟 がきくつ 」の扁額が掲げました。芥川は帝大を出たあと横須賀の海軍機関学校(三笠公園に隣接して建つ横須賀学院の場所にあった)で2年ちょっと英語教師をしましたが、執筆だけで生計を立てるめどがたち、結婚もし、家族の生計を助けるためもあってか実家に戻り、「餓鬼窟」を掲げます。日曜日を人に会う日と決め、庭を見下ろす二階のこの12畳に人を通したところ、たちまち「門前市をなす賑わい」(小島政二郎)となったとか。芥川は大正11年(30歳)、「餓鬼窟」の額を「澄江堂ちょうこうどう 」に差し替えました。ずいぶん“きれいな名”に変えたのですね。前年(大正10年。29歳)の4ヶ月に及ぶ中国旅行の影響があるでしょうか。中国の雲南省には澄江という県があります。

「餓鬼窟」における面会日の様子を、小島政二郎が次にように書いています。

・・・そこの書斎で耳にした西洋の作家を覚えて帰って、丸善へ買いに行ったり注文したりした。漢詩の話が出れば、それを買って来て読んだ。
「漢詩ばかりは、日本出来の活版本は不安でね」
 そういう話を聞くと、わざわざ木版本を買って寒山詩を読んだりした。が、英語も漢文も、字引なしでは読めない私は、遅々として進まぬ自分の読書力をどんなに嘆いたかしれなかった。
 が、芥川の読書の範囲、趣味の限界は、実に広汎にわたっていた。ドイツ語、フランス語が口を突いて出た。西洋の絵画、彫刻、音楽、哲学、歴史、支那画、日本画、陶器、織物──文学だけだって、今近代の話をしていたかと思うと、古典の話になったりした。アメリカ文学の現代作家をさえ彼は読みあさっていた。・・・(小島政二郎『眼中の人』より)

「餓鬼窟」でくつろぐ芥川
「餓鬼窟」でくつろぐ芥川 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』

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宇野千代 尾崎士郎

自らが命名した屋号ではなさそうですが、尾崎士郎(25歳)宇野千代(25歳)が当地(東京都大田区南馬込四丁目)に建てた“愛の巣”は、「馬込放送局」と呼ばれました。作家たちの溜まり場となって、あらゆる情報(うわさ)が、そこに集まり、そこから拡散されるためのようです。

関東大震災のとき、ラジオがまだ普及していなかったためもあって、朝鮮人や主義者が暴動を起こすとのデマが飛び交い、自警団を中心に彼らの虐殺がなされました。その反省もあって、震災から2年した大正14年、JOAK(NHKラジオ第一放送)が愛宕山あたごやま (東京都港区)に開局され、日本でもラジオ放送が始まりました。尾崎宇野の当地入りは、ちょうどその頃で、彼らに限らずとも、「放送局」がしょっちゅう話題になっていたのでしょう。

「馬込放送局」は、当地に元から住んでいた「都新聞」の学芸部長の上泉秀信かみいずみ・ひでのぶ (26歳)が見つけた納屋を改造したもの。当時のことを宇野は次のように書いています。

・・・私たちはそこへ、家とも言えない、おかしな家を建てた。大根畑の中にあった農家の納屋を、ただ同然の金で買いとり、上泉の借地の続きに、ほんの五十坪ほどの地所を借りて、そこまで納屋を曵いて来て、明かり取りの窓をつけ、三畳ほどの土間を残して、六畳の畳を入れた・・・(中略)・・・二人の寝起きするのも、書き物をするのも、食事をするのも、同じ六畳の畳の部屋だけで間に合う。焜炉こんろ は軒下に持ち出して煮炊きする。その最低限度の生活を、少しも不便とは思わなかった。・・・(中略)・・・どんな生活でもあれ、その家の中で始まるものを私は、愉しい、と思うのであった。
 そのおかしな家は、馬込の往還から少し入った、ちょっとした坂の途中にあった。窓には青いカーテンがかけてあるので、夜になると、そのカーテンを透して、青い灯影が遠くからも見えた。・・・(宇野千代『生きて行く私』より)

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昭和13年頃、立原道造(24歳)が、埼玉県別所沼map→辺りに、「ヒアシンスハウス(風信子荘)」というワンルーム住宅を建てる計画をすすめていました。フィアンセの水戸部アサイと週末を過ごすための家。当時、別所沼は葦が生い茂る原始の香りがする場所だったそうです。彼らは友人らを招き、芸術談義にあけくれることも夢見たことでしょう。 立原の結核の病状が進んでいたため、転地療養する場にする目的もあったようです。立原はこの家のために50通りもの設計図を描いたとか。立原は、帝大建築科在学中、辰野賞を3度も受賞する将来を嘱望される建築家の卵でもあったのです。

その頃、彼は、「僕は、窓がひとつ欲しい。」で始まる草稿を残しています。

・・・あまり大きくてはいけない。 そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。 窓台は大きい方がいいだらう。 窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。

そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。 湖水のほとりにはポプラがある。 お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。 湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。

僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。 タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。・・・ (立原道造「鉛筆・ネクタイ・窓」より)

家に立てる旗や、住所の書かれた名刺まで出来ていたのに、病状はことのほか悪く、立原は「ヒアシンスハウス」を見ずして、翌昭和14年3月(24歳)、帰らぬ人となります。

立原の没後65年した平成16年、彼がひいた設計図を元に建てられた「ヒアシンスハウス」 ヒアシンスハウス Haus-hyazinth official site→* 立原は「ヒアシンスハウス」の設計図を50種ほど描いたそうだ
立原の没後65年した平成16年、彼がひいた設計図を元に建てられた「ヒアシンスハウス」 ヒアシンスハウス Haus-hyazinth official site→ 立原は「ヒアシンスハウス」の設計図を50種ほど描いたそうだ

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外にも、夏目漱石の 「 愚陀仏庵ぐだぶつあん 」 、尾崎士郎の後の 「風々雨々荘(ふうふうあめあめそう? 山本周五郎の屋号?)」、永井荷風の 「 断腸亭だんちょうてい」「偏奇館へんきかん」 、遠藤周作の 「狐狸庵こりあん」 、幸田露伴の 「蝸牛庵かぎゅうあん 」 、西東三鬼の「三鬼館」など、いろいろ面白い屋号があり、それぞれの家にはそれぞれの“物語”があることでしょう。

城昌幸 『随筆 えぴきゅりあん』 宇野千代『生きて行く私 (角川文庫)』
城昌幸 『随筆 えぴきゅりあん』 宇野千代 『生きて行く私 (角川文庫)』

■ 馬込文学マラソン:
城昌幸の 『怪奇製造人』 を読む→
芥川龍之介の 『魔術』 を読む→
尾侮m郎の 『空想部落』 を読む→
宇野千代の 『色ざんげ』 を読む→
小島政二郎の『眼中の人』を読む→
山本周五郎の 『樅ノ木は残った』 を読む→

■ 参考文献:
・ 『立原道造・愛の手紙(文学アルバム)』
 (小川和佑 毎日新聞社 昭和53年発行) P.34、P.45-47

■ 参考サイト:
ウィキペディア/若さま侍捕物手帖(平成29年4月8日更新版)→
ウィキペディア/澄江(平成28年7月3日更新版)→
ウィキペディア/NHKラジオ第1放送(平成29年11月16日更新版)→

東京紅團/断腸亭から偏奇館まで→

いわきBiweekly Review 「日々の新聞(第78号)」 ヒアシンスハウス→

※当ページの最終修正年月日
2017.12.03

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