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山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む(一人でなかった)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説の舞台は取り潰し寸前の伊達藩。そんな大変な時だというのに、藩の重臣、原田 甲斐 かい は動かない。政治の話ははぐらかして、静かに笑っているだけだ。そんな彼に失望して、親しい者までが、一人また一人と彼の元を去っていった。家族とも別れ、唯一の友ともいえた大鹿の「くびじろ」も、部下の善意によって仕留められ、甲斐は今や全くの一人。しかし、甲斐はなぜ動かないのだろう?

実は、彼には一つの考えがあったのだ。藩を救う最後の切り札。これは、人に絶対に明かせない。徹底して自分を悪者にして、自分の名誉や命までもかなぐり捨てて初めて成し遂げえることなのだ。彼はこの過酷なシナリオを、一人、笑顔の裏に隠しているのだった。

シナリオは遂行され、そして、甲斐は逆臣の汚名を着て死んでいく、一人で。

この長大な小説『樅ノ木は残った』はこれで終るかのようだった。が、実はここから先に、本当のクライマックスがある。一人で死んでいったかのような甲斐だったが、彼のことを心から理解する一人の人物が、浮き彫りになる。やはりそうだったのだ。

彼は一人でなかった。意外にも、きわめて官能的に、かつ美しく物語は幕を下ろす。


『樅ノ木は残った』について

山本周五郎『樅ノ木は残った(上) (山本周五郎長篇小説全集』。脚注、登場人物一覧、地図つき NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った(総集編。DVD)』。原作:山本周五郎。出演:平幹二朗、吉永小百合、田中絹代、栗原小巻ほか
山本周五郎『樅ノ木は残った(上) (山本周五郎長篇小説全集』。脚注、登場人物一覧、地図つき NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った(総集編。DVD)』。原作:山本周五郎。出演:平幹二朗、吉永小百合、田中絹代、栗原小巻ほか

昭和29年7月から「日本経済新聞」で連載された山本周五郎(執筆時51歳)の代表作。

歴史上、逆臣とされる原田甲斐(評定の場で反対派の 伊達安芸 だて・あき を殺害し、自らもその場で斬り殺された犯罪者。原田家は幼児まで男子は切腹に処され、お家断絶)を、周五郎は、自らを犠牲にして藩を救った人物として描いた。

質屋「きねや」に勤めていた少年・青年期に周五郎は、すでにこの小説のアイデアを持っていた(木村『山本周五郎 〜馬込時代〜』)。周五郎は子どもの頃から貸本などで村上浪六を読んでいたので、村上の『原田甲斐』(明治32年刊)も読んだだろうか。当地(東京都大田区)在住時(昭和6-21年)、周五郎が当地の「みやこキネマ」で見た映画「原田甲斐」も村上原作のものではないだろうか(近藤『馬込文学地図』、日本映画データベース/村上浪六→)。村上の『原田甲斐』も原田を大忠臣に描いており、55年後の『樅ノ木は残った』に大きな影響を与えたと思う。また、『樅ノ木は残った』執筆の2年前(昭和27年)、中山義秀も『原田甲斐』という小説を書いている。甲斐を忠臣ではないが、悪人でもない凡庸な人物として描いている。周五郎は同作も当然意識しただろう。

作中の伊藤七十郎は、尾﨑士郎がモデルのようだ(木村『山本周五郎 〜馬込時代〜』)


山本周五郎について

当地(東京都大田区)在住時の山本周五郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』
当地(東京都大田区)在住時の山本周五郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』

一人野山をいく少年
明治36年6月22日(1903年)、山梨県北都留つる初狩はつかりmap→で生まれる。両親が未婚だったため祖父が猛反対、祖父の姉の家の物置小屋で生まれた。本名は明治36年生まれなので 三十六さとむ (清水三十六)。明治40年(4歳)、初狩村を襲った山津波で、祖父母と叔父と叔母と家を失い、一家は東京(北区豊島)へ。そこでも水害に遭い、さらに横浜市中区久保町へ。戸部小学校(のちに西前小学校)に通った。貸本屋に通い、植物図鑑を片手に一人野山を歩くことを好む。大正2年(10歳)、担任の教師から小説家になることを勧められる。

銀座の質屋に奉公
大正5年(13歳)、中学校を1学期通っただけで中退。通学を希望したが、家の経済事情が許さなかった。隣家の青年が番頭をしていた銀座の質屋「きねや」の徒弟となる。店主の影響もあってか、16歳頃から小説を書き始める。関東大震災で「きねや」が閉鎖したのを機に、関西に向かう。「大阪朝日新聞」に震災の体験記を書いて初めて稿料を得る。雑誌編集に従事した後、大正15年(23歳)、「文藝春秋」に発表した『須磨寺附近』で文壇に登場。以後、神戸から、千葉県浦安、鎌倉腰越(この頃、許婚がいた土生はぶ きよいと強引に結婚木村『山本周五郎 〜馬込時代〜』)を経て、昭和6年(28歳)、当地(東京都大田区)に来る。

快作の連打
昭和17年(39歳)、『日本婦道記』で文壇に認められる。きよい亡き後、戦後、きんと再婚、横浜(中区本牧)に戻る。きんの影響もあってか作品に伸びやかさが加わった。自宅近くの間門園を仕事場にし、火事場で拾った子どもを育てつつ自立していく少女を描いた『柳橋物語』、宮本武蔵を滑稽に描いた『よじょう』、歴史上悪漢とされる田沼意次を理想に燃える人物に描いた『栄花物語』、権力に抹殺されていく由井正雪を描いた『正雪記』、そして『樅ノ木は残った』と次々に快作を生み出す。昭和30年代(52歳~)も、荒っぽくも人道的な医者を描いた『赤ひげ診療』、漁師町を描いた『青べか物語』、構想に40年を費やした『虚空遍歴』、泣けるほどに実直な男を描いた『さぶ』などを書き人気を得る。「純文学は高校生にも書けるが、富裕な家に生まれ大学に学び、社会の中産階級以上しか経験していない人々には(大衆)小説は書けない」という周五郎の言葉に、彼の小説観が要約されている。健気な弱者を愛し、権力や馴れ合いやヤクザ者を嫌う。

「読者から認められればよし」ということで、直木賞をはじめ賞の類はいっさい辞退。 大して尊敬もしていない人に選ばれるということを自尊心が許さなかった。軍からの報道班員としての従軍要請も辞退、総理大臣と天皇陛下が主催する園遊会の招待にも応じなかった。ひたすら書くことが供養であり奉仕であると考え、知り合いの葬儀にも顔を出さなかったという。

死の10時間前まで原稿用紙に向かっていたが、昭和42年2月14日、満63歳で死去。墓所は神奈川県朝比奈峠の鎌倉霊園( )。

山本周五郎
・ 「“勉励”という言葉は、まさに彼の人生のためにだけ存在した」(藤浦 洸

山本周五郎 『さぶ (新潮文庫)』 木村久邇典『山本周五郎 〜馬込時代〜』(福武書店)
山本周五郎『さぶ(新潮文庫)』 木村久邇典山本周五郎 〜馬込時代〜』(福武書店)

山本周五郎と馬込文学圏

昭和6年1月15日(28歳)、今井達夫松沢太平のすすめで、鎌倉から当地(東京都大田区南馬込一丁目18-5 map→)に越してくる。今井の紹介で尾﨑士郎鈴木彦次郎と付き合い始め、二人の紹介で講談社の仕事をするようになり、主に時代小説を書く。昭和21年(42歳)2月まで留まる。周五郎が当地にいた時期は15年戦争の期間とほぼ一致。

尾﨑士郎らと大森相撲協会を作り「馬錦」というしこ名で活躍。 なびくことをしない周五郎に、尾﨑は「曲軒」(へそ曲がりの意)というあだ名が付けた。

添田知道筒井敏雄花岡朝生広津和郎日吉早苗、石田一郎、平松幹夫、北園克衛、秋山青磁(写真家)(「きねや」での徒弟仲間)らと交友。

二男二女に恵まれるが、太平洋戦争中に妻(病死)と長男(空襲で行方不明)を失う。

後年、当地をモチーフにした小説『青の時代』を構想するが、当地での面白可笑しい出来事もしょせんは関係した作家だけにしか通じない自己満足と考え、筆が進まなかった(近藤『馬込文学地図』)。

作家別馬込文学圏地図「山本周五郎」→


参考文献

●『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.210-214 ●『山本周五郎 〜馬込時代〜』木村久邇典 福武書店 昭和58年発行)P.15-20、P.39-40、P.71-73、P.92-93、P.131 ●『大田文学地図』染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.97-98 ●『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行 同年発行2刷を参照)P.4-20 ●『周五郎ノート(2)』 ※『山本周五郎小説全集9 樅ノ木は残った』(新潮社 昭和42年発行 昭和44年15刷参照)付録


参考サイト

日本映画データベース/村上浪六→


※当ページの最終修正年月日
2019.5.9

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