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我らは力士(昭和6年7月31日、「大森相撲協会」の初の本場所が開かれる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「大森相撲協会」の面々。左から、今井達夫尾﨑士郎中村武羅夫山本周五郎鈴木彦次郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館)


昭和6年7月31日(1931年。 大森相撲協会」初の本場所が、当地(東京都大田区)の“虎大尽だいじん ”の屋敷跡で開かれました。

天神山てんじんやま (「北野神社」(東京都大田区南馬込二丁目26-14 Map→)あたり)の吉田 甲子太郎きねたろうの家の前に集合し、ふんどし を肩に、池上通り闊歩かっぽ して会場に向ったは、当地の文士ら20数名。「大森相撲協会」と名前は立派ですが、同好会のようなものですね。

“虎大尽”とは、第一次世界大戦期(大正3-7年)に船舶輸送業で巨万の財をなした山本唯三郎たださぶろう 。料亭のような場所で暗いからといってお札に火をつけている親爺の絵が、昔、教科書に載っていましたが、その人。かつて当地(「大田区立大森第四中学校」(東京都大田区池上一丁目15-1 Map→)があるあたり)に広大な屋敷を構えていました。大正6年、朝鮮半島でポーター150名を携えて虎狩りをし、その後に清浦奎吾、渋沢栄一、大倉喜三郎ら200名を招いて虎肉の試食会を行ったことから“虎大尽”と呼ばれたそうです(いい趣味ですね(笑))。そんな山本も、大戦後の不況で、ことごとく財を失い、昭和2年、胃ケイレンを起こして54歳で世を去りました。その4年後(昭和6年)、“虎大尽”の夢の跡で、「大森相撲協会」の本場所が催されました。

尾崎士郎 鈴木彦次郎 山本周五郎

「大森相撲協会」は、尾﨑士郎鈴木彦次郎がノリで作り、その年(昭和6年)の1月に当地にやってきた山本周五郎が勢いをつけました。周五郎が関わっていた雑誌「日本魂」の編集部には後の相撲評論家・彦山光三がいて、彦山の 伝手つて で恐れ多くも本場の相撲協会ともつながりができます。

話に乗ってきたのが、上の写真にも写っている今井達夫中村武羅夫。あと、サトウハチロー、秋田忠義、松沢太平、吉田甲子太郎、室伏高信添田知道藤浦 洸榊山 潤など。

そしてどんなだったかというと、尾﨑短編「夏草」(「尾﨑士郎全集 第五巻」Amazon→に収録)に書いています。ふんどし の締め方もおぼつかず、

・・・いいかげんに締めて土俵へのぼるとすぐずるずるとほどける。
「おい、やっとこさで身体にくっついているんだから褌に手をさわるだけは止せよ」
「何を言っていやがる、褌をおさえないで相撲がとれるかい、そんならおれはもうやめる」・・・

と、もう喧嘩けんか が始まり、

・・・いっそこうなったら、もう鈴木君とか吉田君とか呼ぶことをやめて、道で会っても、「よう、関取、──いい天気でごんすのう」と大がかりな物の言い方をすることにしようじゃないかと言いだすものがあり・・・

と、一面では大はしゃぎ。会場についても、

・・・「虎大尽なら相手にとって不足はないが、しかし、大丈夫だろうか?」
「大丈夫だとも、──否応なしに乗込んでも文句をいうものはあるまい」
「いっそのこと虎大尽の慰霊祭ということにしたらどうだ?」・・・

といった適当さ(笑)。そして、いよいよ取り組みが始ると、

・・・せみヶ峰は悠揚ゆうよう として土俵にあらわれたにもかかわらず四股しこを踏むとき左足を高くあげすぎたので身体の均衡をうしなって前へ膝もちをついたが、ニヤリと笑ってすぐ仕切にとりかかった。立ちあがるや、長身の松ノ音、弱敵とあなどってひと突きに突っ放そうとするところを蝉ヶ峰よく残し、やにわに松ノ音の首すじにかじ りついた。松ノ音は五尺七寸である。一気に持ち出そうとしたが蝉ヶ峰、両足を松ノ音の背中に回してやもりのように吸いついたまま離れず、そのまま土俵際までぶら下げていって・・・(以上、尾﨑士郎の『夏草』より)

さらには、奇声で脅かしたり、「故意に褌をゆるめて対手を悩したり」、「時ならぬ放屁をしたり」、睾丸をつかんだり(?)・・・と、これを相撲と言っていいのでしょうか !?

『夏草』では滑稽に書いていますが、実際はけっこう真剣だったようです。上の写真でも、皆、マジですもんね。特に「平錦」(周五郎)はいつも真剣にぶつかってきて、双方に生傷が絶えなかったようです。強豪の「夕凪」(尾﨑)、「飛竜山」(鈴木)との取り組みでは特に力がはいったようです。鈴木はこの頃から相撲小説を書き始め、尾﨑はのちに(昭和25年より)、本場の大相撲の横綱審議委員も務めます(尾﨑が突っ張りの稽古をした欅→)。

他にも、当地(東京都大田区・品川区)は、相撲関係のことがけっこうあります。

天龍

「大森相撲協会」ができた翌年(昭和7年)1月、大相撲の西方にしがたの関取(幕内と十両)の大部分が日本相撲協会を脱退する事件がありました。関脇天龍(29歳)(当地(東京都大田区中央四丁目)に住んでいた(今も残る表札→)。当地の古書店「天誠書林」(東京都大田区山王二丁目)の店主だった和久田誠男は天龍の息子)が中心になり、当地の中華料理店「春秋園」(伊藤博文の墓(東京都品川区西大井六丁目10-18 Map→)近くにあった)を拠点に、10ヶ条の要求を日本相撲協会に提出しましたが、交渉が決裂、脱退にいたりました。「春秋園事件」と呼ばれています。

天龍らが掲げた10ヶ条は、「会計制度の確立」「興行時間の改正」「入場料を安くして皆の大相撲に」「相撲茶屋の撤廃」「年寄制度の廃止」「養老金制度の確立」「地方巡業制度の改善」「力士の生活の安定」「冗員の整理」「力士の共済制度の確立」です。

協会は1月場所の無期延期を発表せざるを得なくなりました。

一方、脱退力士たちはマゲを切り落とし、東方ひがしかたの力士も誘って、「大日本新興力士団(後に大日本相撲連盟と改名)」を結成。早くも2月には東京根岸で初興行し、総当たりのリーグ戦で盛り上がり、まずは大成功。

当地に住まい、お墓もある伝説的プロレスラー・力道山も元は大相撲の力士でした。

実相寺じっそうじ (東京都大田区池上二丁目10-17 Map→)には、58連勝という偉業(明治9年〜明治14年。歴代4位?)を果たした横綱の初代・ 梅が谷藤太郎うめがたに・とうたろうの墓碑があります。昭和3年に83才で死去しますが、横綱経験者の最長寿記録だそうです(平成30年3月16日時点)。

当地には尾上おのえ 部屋(東京都大田区池上八丁目8-8 Map→ Photo→)があり、 把瑠都ばると (エストニア共和国出身)が、平成24年の大相撲1月場所で優勝しました。また、平成26年の大相撲1月場所では、当部屋の小兵・十両の里山が、37場所ぶりで再入幕し、見るものに深い感銘を与えました。 里山夫人も女子相撲のアジア女子選手権優勝の実績があり。里山という 四股名しこな は本名。奄美大島の笠利町かさりちょうMap→出身です。

名横綱の 大鵬たいほう は、序二段の頃、 雪谷ゆきがや 八幡神社(東京都大田区東雪谷二丁目25-1 Map→)で子どもに相撲を教えていたそうです。境内に彼の手形のある「出世石」Photo→があります。

『大相撲の解剖図鑑』(エクスナレッジ)。監修:第三十四代木村庄之助、伊藤勝治。相撲のいろは 大山眞人『昭和大相撲騒動記 〜天龍・出羽ヶ嶽・双葉山の昭和7年〜 (平凡社新書) 』
『大相撲の解剖図鑑』(エクスナレッジ)。監修:第三十四代木村庄之助、伊藤勝治。相撲のいろは 大山眞人『昭和大相撲騒動記 〜天龍・出羽ヶ嶽・双葉山の昭和7年〜 (平凡社新書) 』
和田靜香、金井真紀『世界のおすもうさん』(岩波書店)。女相撲、学生相撲、沖縄相撲、韓国シルム、モンゴル相撲・・・国籍、性別、社会環境を超えて「はっきよい!」 「シコふんじゃった。」(東宝)。監督:周防(すお) 正行。出演:本木雅弘、柄本 明、竹中直人ほか。チャラい男が土俵に上がるはめに・・・。キネマ旬報ベストテン第1位
和田靜香、金井真紀『世界のおすもうさん』(岩波書店)。女相撲、学生相撲、沖縄相撲、韓国シルム、モンゴル相撲・・・国籍、性別、社会環境を超えて「はっきよい!」 「シコふんじゃった。」(東宝)。監督:周防すお 正行。出演:本木雅弘、柄本 明、竹中直人ほか。チャラい男が土俵に上がるはめに・・・。キネマ旬報ベストテン第1位

■ 馬込文学マラソン:
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→
藤浦 洸の『らんぷの絵』を読む→
榊山 潤の『馬込文士村』を読む→
村松友視の『力道山がいた』を読む→

■ 参考文献:
●『馬込文学地図』(近藤富枝 集英社 昭和51年発行)P.204-208 ●『馬込文士村 <10>』(谷口英久)※「産経新聞」(平成3年1月25日号)に掲載 ●『山本周五郎 馬込時代』(木村久邇典 福武書店 昭和58年発行)P.41-57 ●『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年初版発行 昭和61年発行2刷)P.33 ●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.452 ●『相撲風雲録』(天龍(和久田三郎) 昭和30年初版発行 同年発行4版)P.90-99 ●『昭和大相撲騒動記 ~天龍・出羽ヶ嶽・双葉山の昭和7年~(平凡社新書) 』大山眞人 平成18年発行)P.42-47

※当ページの最終修正年月日
2023.7.31

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