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ハリス |
万延
元年11月4日(1860年。
、プロシア(ドイツ語でプロイセン。ドイツ帝国の中核となった王国。北東ヨーロッパ)の日本使節団代表のオイレンブルク(45歳)らプロシア公使館の館員と、米国の初代駐日総領事のハリスらが、当地の洗足池(東京都大田区南千束二丁目 Map→)の御松庵というところで朝食会を持っています。オイレンブルクは当地の景観がとても気に入ったようです。
黒船来航(1853年)から7年、この頃から明治になるまでに、日本にはどのような外国人がいて、どのような活動をしていたのでしょう。
幕末までの日本の鎖国体制は以下のようでした。
江戸初期はキリスト教は禁じても、海外との貿易は盛んでした。それが、元和
9年(1923年)平戸のイギリス商館が閉じ(オランダとの競争に破れた)、寛永元年(1624年)幕府はスペイン船の来航を禁止し、寛永10年(1633年)老中の奉書を携えた奉書船以外の海外渡航を禁止し、寛永12年(1635年)には日本人の海外渡航を全面禁止、在外日本人の帰国も禁じます。寛永16年(1639年)にはポルトガル船の来航も禁止し、寛永18年(1641年)には平戸のオランダ商館を長崎の出島に移してオランダ人との交流も長崎奉行の厳しい監視下におきました。元禄2年(1689年)長崎郊外に唐人屋敷を設け中国人(清国人)の居住もそこに限定し監視下において、鎖国体制がほぼ完成。キリスト教が日本に広まらないようにし、また、自由な貿易で西国の大名が利益をあげて力をつけるのを阻止するのが、その主な動機でした。
長崎に来航したのはオランダ船と中国船のみ。しかも、取引額は厳しく制限されました。
朝鮮とは、対馬藩主の宗氏を通して交流。慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)までの間に12回「通信使」(3回までは「回答兼刷還使」)という使節を江戸に迎えています。440名を超えるほどの行列をなしましたが、オランダに対してとは違い、費用は沿道の大名や地域の人々の国役負担とされ、賓客として丁重に迎えられました。日本が西洋の知識と技術を先んじて取り入れて天狗になって、朝鮮を軽視・蔑視するようになるのは明治になってからです。
琉球王国(現在の沖縄)に対しては、日本(薩摩藩)は、慶長14年(1609年)頃から侵略的・侮蔑的な外交を展開してきました。現在に連なる沖縄問題は、江戸の初期からの歴史を踏まえる必要があります。
蝦夷ヶ島
(現・北海道)では、アイヌが自立した社会を形成していましたが、豊臣秀吉や徳川家康が船役徴収権やアイヌとの独占交易権を保障した蠣崎氏(のちに松前氏)がアイヌを圧迫していきました。和人の度重なる不正交易にアイヌが立ち上がりましたが(シャクシャインの蜂起。寛文9〜11年(1669〜1671年))、鎮圧され、以後のアイヌは松前藩に全面的に服従することを余儀なくされます。
以上のように江戸時代は、長崎、対馬、薩摩、松前の4つの窓口に限定して、外国人(琉球人やアイヌを含む)と接してきました。
オランダ船がもたらすヨーロッパ情報は幕府にとって貴重で、オランダ商館の100〜150人を定期的に江戸に招き交流しました。莫大なその費用をオランダが自弁したのは、独占的な貿易に旨味があったからと推測されています。オランダ人の江戸参府は幕末の嘉永3年(1850年。黒船来航の3年前)まで167回行われました。オランダ人がもたらす西洋の学問・技術を「蘭学」といい、青木昆陽 、野呂元丈、杉田玄白、前野良沢、平賀源内、高野長英、緒方洪庵、大槻玄沢、渡辺崋山、佐久間象山といった蘭学に通じる人たちが、ヨーロッパ(世界)を視野に入れた思想・政策・学問を展開し、日本をリードしていきます。勝海舟も福沢諭吉も蘭学から出発しました。来日したオランダ商館の医師の中には、ケンペル、ツンベルク、シーボルトといった西洋の学問を伝えることに積極的な人がいました。とくに、文政6年(1623年)に来日したシーボルトは日本人門下生を多く育て絶大な影響を及ぼしました。
シーボルトは「シーボルト事件」(日本地図を国外に持ち出そうとして処罰された)により国外追放処分となりますが、その追放令が解除された安政6年(1859年)、長男のアレクサンダー・フォン・シーボルトを伴って再来日を果たします。アレクサンダーは在日英国公使館の通訳を勤め、明治になってもお雇い外国人として40年間つとめ、明治27年の「日英通商航海条約」締結(「日英修好通商条約」の改定。列強とのと初の平等条約)にも功績がありました。次男のハインリヒ・フォン・シーボルトも明治2年に来日し、外交官として活躍。考古学にも造詣が深く、大森貝塚発見に先鞭をつけています。
前述のハリスが米国の初代駐日総領事に着任したのが、黒船来航の3年後の安政3年(1856年)。ハリスが将軍(13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂)に強く迫って不平等な「日米修好通商条約」に調印させたのが安政5年(1858年)です。同年、幕府は、オランダ、ロシア、英国、フランスとも修好通商条約を結ばざるを得なくなります。2年遅れて万延元年(1860年)前述のプロイセンのオイレンブルクらが来日、同年米国公使・ハリスの斡旋で日本と修好通商条約を結びます。前述した当地での朝食会(同年11月4日)でも当然その話が出たことでしょう。
英国のオールコックが初代公使に着任したのが翌安政6年(1859年)、オールコックから引き継いで慶応元年(1856年)パークスが公使になります。オールコックとパークスの元で通訳・書記官として活躍したのがアーネスト・サトウです。パークスとサトウは、慶応4年(1868年)の江戸城の無血明け渡しでも大きな役割を果たしました。オールコックと来日した画家のワーグマン(28歳)は、水戸浪士によるイギリス公使館(東禅寺)襲撃事件や日本の習俗などを描写。文久2年(1862年)、居留外国人向けの漫画雑誌「ジャパン・パンチ」を創刊しました(日本で最初に創刊された漫画雑誌。明治20年まで刊行)。
五姓田義松、高橋由一、山本芳翠に洋画の伝授もしました。
安政6年(1859年)ロシアのムラヴィヨフが7艘の軍艦で来航のおり、無知な攘夷派が乗組員2名を殺害しました。
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『シーボルト 日本植物誌 (ちくま学芸文庫) 』。監修・解説:大場秀章。オランダ商館の医師だったシーボルトは、植物にも深い関心を寄せた |
『ヒュースケン 日本日記 〜1855-61〜 (岩波文庫) 』。ヒュースケンはハリスの秘書兼通訳を務めたが、万延元年(1861年)、攘夷派に斬殺される |
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『ワーグマン日本素描集 (岩波文庫)』。編:清水 勲。ワーグマンは日本人女性と結婚し、日本で没した大の親日派。時にはリアルに時にはユーモラスに日本の諸相を描く |
『F.ベアト写真集 1 (新装版)』(明石書店)。編:横浜開港資料館。 ギリシャ生まれの写真家・フェリーチェ・ベアトも元治元年(1864年)来日、多くの写真を残した |
■ 馬込文学マラソン:
・子母沢 寛の『勝 海舟』を読む→
■ 参考文献:
●『大田区史年表』 (監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行) P.384-386、P.390 ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 信、五味文彦、高埜利彦、鳥海 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.252-258、P.320 ●「プロシア」※「プリタニカ国際大百科事典」に収録(コトバンク→) ●「オイレンブルク」※「プリタニカ国際大百科事典」に収録(コトバンク→) ●「ハリス」(内海 孝)※「朝日日本歴史人物事典」(朝日新聞出版)に収録(コトバンク→) ●「蘭学」(大鳥蘭三郎)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)(コトバンク→) ●「オールコック」(内海 孝)※「朝日日本歴史人物事典」(朝日新聞出版)に収録(コトバンク→) ●「ワーグマン」(三輪英夫)※「朝日日本歴史人物事典」(朝日新聞出版)に収録(コトバンク→)
※当ページの最終修正年月日
2024.11.4
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