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江戸攻めは、なぜ中止になったか(慶応4年3月14日、西郷隆盛と勝海舟、会談する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右下が勝 海舟。以下右回りにアーネスト・サトウ、パークス、木梨精一郎、西郷隆盛 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:●ウィキペディア/・勝 海舟(平成26年1月23日更新版)→ ・アーネスト・サトウ(平成26年1月31日更新版)→ ・ハリー・パークス(平成25年11月25日更新版)→ ・木梨精一郎(平成25年11月2日更新版)→ ・西郷隆盛(平成26年2月26日更新版)→


慶応4年3月14日(1868年。 旧・幕府軍陸軍総裁・勝 海舟(45歳)が東京田町の薩摩藩蔵屋敷(東京都港区芝5-33-1 第一田町ビル前 map→)に赴き、西軍下参謀(実質上の参謀)・西郷隆盛(39歳)と会見、翌日に予定されていた西軍の江戸攻撃の中止が約されました。

西郷と海舟の会見の図 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用しました 画:結城素明(聖徳記念絵画館壁画) 出典:明治神宮崇敬会/明治天皇聖蹟/第5回/江戸開城談判→ 薩摩藩蔵屋敷跡にたつ石碑
西郷海舟の会見の図 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 画:結城素明(聖徳記念絵画館壁画) 出典:明治神宮崇敬会/明治天皇聖蹟/第5回/江戸開城談判→ 薩摩藩蔵屋敷跡にたつ石碑

江戸を攻める気まんまんの西郷が、ここにいたって、なぜ、海舟が出した条件を飲んだのでしょう?

17日前の2月25日には、駿府(現・静岡)にまで進軍していた西郷は、徳川慶喜(30歳)や海舟の処刑は譲れぬ線として持っていました。西郷は寛大なイメージで語られることが多いですが、実際には大久保利通同様、江戸攻めの最強硬論者だったのです。その西郷が、突然江戸攻めを止めたのです。

実は、前日(3月13日)、西軍参謀の木梨精一郎(22歳)が西郷の命令で、英国公使のパークス(40歳)に会いにいっています。江戸に進軍する際、横浜に駐屯している英軍が妨げないよう依頼に行ったのです。攘夷派による外国人襲撃(生麦事件など)が多発していたため、文久3年(1863年)から、居留民保護を目的に横浜の山手に英兵1,000名が駐留していました。仏兵も300名駐留、当時日本は海外列強に半ば侵略されていたといってもいいのでしょう(両軍が全面撤退するのは明治8年)。木梨の来訪を受けたパークスは、「慶喜が恭順の意を表しているのにそれを攻撃するのは万国公法に違反する」 「居留民を保護する上でも同意できない」と突っぱねました。木梨からの報告を受けた西郷(品川まで進軍していた)は愕然とします。英国を敵に回すわけにもいかず、この時点で江戸攻撃を断念したようなのです。

これには裏があって、4日前の3月9日あたりから、パークスの懐刀の書記官・アーネスト・サトウ(24歳)が、江戸の情勢を探りに海舟に会っています。そのとき両者の間で交わされた情報や示唆しさ は、当然サトウからパークスに伝わったでしょう。

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天璋院 静寛院
天璋院
静寛院

また、西郷が私淑した前薩摩藩藩主・島津斉彬なりあきら(没後9年)の養女天璋院てんしょういん (32歳。篤姫(13代将軍・家定の妻))から嘆願があったことも西郷の心を揺さぶったことでしょう。 薩摩が朝廷の御旗(偽旗ですが)を担いで徳川家に“賊軍”のレッテルを貼った時も、薩摩の出の天璋院と、朝廷の出の 静寛院せいかんいん (21歳。和宮かずのみや (14代将軍・ 家茂いえもち の妻))はあくまでも“幕府の人”として振る舞いました。彼女らの貞節が幕府をどれだけ助けたかしれません。

山岡鉄舟
山岡鉄舟

3月9日(アーネスト・サトウ海舟を最初に訪ねた日)、旧幕府側の山岡鉄舟(31歳。慶喜の身辺を警護した槍の名手・高橋泥舟の義弟。海舟、鉄舟、泥舟を「幕末の三舟」という)が命がけで駿府に乗り込み、徳川家処分の交渉の使者として西郷に会ったことも大きいでしょう。その時同伴した 益満休之助 ますみつ・きゅうのすけ が、山岡と西郷の橋渡しをしたようです 。益満は「江戸薩摩藩邸焼討事件」の首謀者ですが、海舟が身請けし、海舟の命で動きました。同じ薩摩の同志・益満を海舟が助けたと知って、西郷は涙を流したそうで、その涙をもって、江戸は救われたとする人もいるようです(子母沢勝海舟(5)』P.146-148)。

以上のような経緯があり、江戸攻めの中止は、海舟西郷の会談前にほぼ決定していたと考えられます。

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海舟西郷の会談日時と場所には、異説があります。

1万もの西軍が当地の本門寺(東京都大田区池上一丁目1-1 map→)を本営にしたことから、両者の会談もそこで行われたとする人もいます。本門寺の庭園「 松濤園しょうとうえん 」には会見の碑も建っています。

1月3日からの鳥羽・伏見の戦いで薩摩・長州に大敗した慶喜(30歳)に追討令がでて 有栖川宮熾仁 ありすがわのみや・たるひと 親王(33歳)を大総督とする西軍が東海道・東山道・北陸道の三道から江戸攻撃に動き出します。西郷は東海道の先鋒軍の実質的な参謀で、独断で東海道の要衝箱根を占拠、いったん駿府に戻ったあと、3月9日(鉄舟と会った日。アーネスト・サトウ海舟に会った日)、有栖川親王から3月15日に江戸を攻撃するよう命令が出て、再度3月11日駿府を出発、箱根を越え、多摩川を越えて当地に達しました。

江戸攻撃に係る西郷海舟の会談は、海舟の『慶応四戊辰日記』に、13日と14日に「高輪薩州之藩邸」で行われたと書かれています。厳密には、13日に高輪の薩摩藩下屋敷で打ち合わせをし、14日に田町の薩摩藩蔵屋敷で本格的な会談があったようです。海舟が書簡で会談の提案をし、「高輪薩州之藩邸」という場所も海舟が指定したもよう。3月13日には、西郷は本陣の本門寺を出て、もう品川あたりにいました。木梨は当日のパークスの様子を品川で西郷に伝えています。

よって、3月13~14日の本門寺での両者の会談はあり得ません。では、当地での両者の会談は何かの勘違いでしょうか。

その後の西郷の足取りは、江戸攻めを中止した翌日の3月15日京都に向けて出立、3月16日に駿府に入いり、3月19日に京都に到着、翌日(3月20日)参内して慶喜助命の勅裁を得て、3月22日には京都を出立、3月28日(27日?)横浜でパークスに会い、3月28日本門寺に帰って来ています(半藤『幕末史』P.352)。そして、1ヶ月ほど(4月29日頃まで)留まったようなので、当地で海舟に会うことができたでしょう。 西郷は4月5日、大久保利通あてに海舟に会わない旨手紙を書いています。仲を勘ぐられたくないからでしょうか。

江戸城が明け渡される前日と前々日(4月9日と10日)、海舟が旧幕府軍の処遇などについて嘆願しに本門寺を訪れ、参謀の木梨精一郎(22歳)と海江田信義(36歳)に会っています。10日には、西郷にも会ったようです(半藤『幕末史』P.366)。本門寺の両者の会見の碑はその時の印と考えるのがいいのではないでしょうか。

西郷は本門寺近くの 理境院 ( りきょういん ) (東京都大田区池上一丁目34-3 map→ ) を宿舎にしたという。赤い門が寺格の高さを物語る 「松濤園」の西郷と海舟の会見の碑(昭和11年建立)。会見の場で茶を出した中島直太郎という人の証言があるが・・・
西郷本門寺近くの理境院りきょういん (東京都大田区池上一丁目34-3 map→)を宿舎にしたという。赤い門が寺格の高さを物語る 「松濤園」の西郷海舟の会見の碑(昭和11年建立)。会見の場で茶を出した中島直太郎という人の証言があるが・・・

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松浦玲 『勝海舟と西郷隆盛 (岩波新書)』 萩原延壽『江戸開城 〜遠い崖(アーネスト・サトウ日記抄)7 (朝日文庫)』
松浦 玲『勝 海舟西郷隆盛 (岩波新書)』 萩原延壽『江戸開城 〜遠い崖(アーネスト・サトウ日記抄)7 (朝日文庫)』

■ 馬込文学マラソン:
子母沢 寛の 『勝海舟』 を読む→

■ 参考文献:
● 『勝海舟(5)「江戸開城」』(子母沢 寛 新潮社 昭和40年発行)P.148、P.203-204、P.273-283 ●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行) P.402-403 ●『幕末維新江戸東京史跡辞典』(新人物往来社 平成12年発行)P.268-269 ●『濁流 ~雑談=近衛文麿~』(山本有三 毎日新聞社 昭和49年発行)P.32-46 ●『勝 海舟(現代視点)』(旺文社 昭和58年発行)P.122-123 ●『氷川清話(講談社学術文庫)』(勝 海舟 編:松浦 玲、江藤 淳 平成12年初版発行 平成27年40刷参照)P.72-74、P.374-377 ●『幕末維新「西郷・勝会見」その池上説に迫る』(東京都大田区立池上図書館 ※平成28年8月13日~9月7日池上図書館での展示資料) ●『幕末史(新潮文庫)』(半藤一利 平成24年発行)P.348-368

※当ページの最終修正年月日
2020.3.12

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