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右下が勝 海舟。以下右回りにアーネスト・サトウ、パークス、木梨精一郎、西郷隆盛 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:●「As loucas aventuras de um samurai no faroeste」(mdig→) ●『明治肖像録』(明治館)(NDL→) ●「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料」(横浜開港資料館) ●ウィキペディア/・ハリー・パークス(平成25年11月25日更新版)→ ・西郷隆盛(平成26年2月26日更新版)→ 慶応4年3月14日(1868年。
旧・幕府軍陸軍総裁・勝 海舟(45歳)が東京田町の薩摩藩蔵屋敷に赴き、東征大総督府
江戸を攻める気まんまんの西郷が、ここにいたって、なぜ、海舟が出した条件を飲んだのでしょう? 17日前の2月25日には、駿府(現・静岡)にまで進軍していた西郷は、徳川慶喜(30歳)や海舟の処刑は譲れぬ線として持っていました。西郷は寛大なイメージで語られることが多いようですが、実際には大久保利通同様、江戸攻めの最強硬論者だったのです。その西郷が、突然江戸攻めを止めたのです。 実は、前日(3月13日)、西軍参謀の木梨精一郎(22歳)が西郷の命令で、英国公使のパークス(40歳)に会いにいっています。江戸に進軍する際、横浜に駐屯している英軍が妨げないよう依頼に行ったのです。攘夷派による外国人襲撃(生麦事件など)が多発していたため、文久3年(1863年)から、居留民保護を目的に横浜の山手に英兵1,000名が駐留していました。仏兵も300名駐留、当時日本は海外列強に半ば侵略されていたといってもいいのでしょう(両軍が全面撤退するのは明治8年)。木梨の来訪を受けたパークスは、「慶喜が恭順の意を表しているのにそれを攻撃するのは万国公法に違反する」 「居留民を保護する上でも同意できない」と突っぱねました。木梨からの報告を受けた西郷(品川まで進軍していた)は愕然とします。英国を敵に回すわけにもいかず、この時点で江戸攻撃を断念したようなのです。 これには裏があって、4日前の3月9日あたりから、パークスの懐刀の書記官・アーネスト・サトウ(24歳)が、江戸の情勢を探りに海舟に会っています。そのとき両者の間で交わされた情報や
また、西郷が私淑した前薩摩藩藩主・島津
3月9日(アーネスト・サトウが海舟を最初に訪ねた日)、旧幕府側の山岡鉄舟(31歳。慶喜の身辺を警護した槍の名手・高橋泥舟の義弟。海舟、鉄舟、泥舟を「幕末の三舟」という)が命がけで駿府に乗り込み、徳川家処分の交渉の使者として西郷に会ったことも大きかったことでしょう。その時同伴した
以上のような経緯があり、江戸攻めの中止は、海舟と西郷の会見前にほぼ決定していたと考えられます。 1万もの西軍が当地の本門寺(東京都大田区池上一丁目1-1 Map→)を本営にしたことから、両者の会見もそこで行われたとする人もいます。本門寺の庭園「
1月3日からの鳥羽・伏見の戦いで薩摩・長州に大敗した慶喜(30歳)に追討令がでて、
江戸攻撃に係る西郷と海舟の会見は、海舟の『慶応四戊辰日記』に、13日と14日に「高輪薩州之藩邸」で行われたと書かれています。13日に高輪の薩摩藩下屋敷で打ち合わせをし、14日に田町の薩摩藩蔵屋敷で本格的な会見があったようです。海舟が書簡で会見の提案をし、「高輪薩州之藩邸」という場所も海舟が指定したもよう。3月13日には、西郷は本門寺を出て、もう品川あたりにいました。よって、3月13~14日の本門寺での両者の会見はあり得ません。では、当地での両者の会見とは何でしょう。 その後の西郷の足取りは、江戸攻め中止の翌日(3月15日)京都に向けて出立、3月19日に京都に到着、翌日(3月20日)参内して慶喜助命の勅裁を得て、3月22日には京都を出立、3月28日(27日?)横浜でパークスに会い、3月28日本門寺に帰って来ています。そして、1ヶ月ほど(4月29日頃まで)留まったようなので、当地でも海舟に会うことができたでしょう。 西郷は4月5日、大久保利通あてに海舟に会わない旨手紙を書いています。仲を勘ぐられたくないからでしょうか。実際はどうだったか? 江戸城が明け渡される前日と前々日(4月9日と10日)、海舟が旧幕府軍の処遇などについて嘆願しに本門寺を訪れ、参謀の木梨と海江田信義(36歳)に会っています。10日には、西郷にも会ったようです。本門寺の会見の碑はその時の記念と考えるのがいいのではないでしょうか。
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