{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

倒幕勢力の陰謀(慶応4年1月3日、「鳥羽伏見の戦い」、起きる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鳥羽・伏見の戦いの様子 ※絵2枚の一部を合成・着色。内一枚は「慶長四年 大功記たいこうき 大山崎之図」。時事ネタが禁止されていたため、違う戦争を装ったようだ。「太閤記」の主人公は勝者の豊臣秀吉だが、「太功記」の主人公は敗者の明智光秀 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『戊辰戦記絵巻』(保勲会)(NDL→) 「慶長四年 太功記大山崎之図NDL→


慶応4年1月3日(1868年。 、「鳥羽・伏見の戦い」がありました。旧幕府勢力(旧幕臣・会津藩・庄内藩・奥羽越列藩同盟など)と倒幕勢力(薩長土肥(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)とそれになびいた藩ならびに換骨奪胎された朝廷)とが争った「戊辰戦争」最初の戦いです。

前年の慶応3年(1867年)、幕府が政権を放棄(大政奉還)し、江戸幕府は終焉。それによって天皇を中心にして諸藩が合議する共和的な政体にスムースに移行できたはずなのに、なぜ、まだ争わなければならなかったのでしょう?

安藤信正 孝明天皇 和宮
安藤信正
孝明天皇
和宮

大老・井伊直弼のあと幕政の中心にたった老中・安藤信正は公武合体を進め、孝明天皇も同意の上、孝明天皇の妹の和宮かずのみやが14代将軍・徳川家茂いえもちの妻になりました(1861年)。朝廷(公)と幕府(武)との協調路線は着実に進みつつあったのです。

薩摩藩・長州藩も、二つの戦争(薩英戦争(1863年)と四国艦隊下関砲撃事件(1864年))で「攘夷は不可能」(単純に攘夷を実行すれば自藩のみならず日本は破滅する)を痛感、強引に開国を迫る海外列強を嫌悪し通商条約を認めなかった孝明天皇(34歳)も1865年通商条約の勅許を出したので、幕府を攻撃するための尊王攘夷という大義名分はもはや成り立たなくなりました

朝廷も薩摩藩も長州藩も最初は公武合体を進めていました。薩摩藩兵と会津藩兵に守護された朝廷は、長州藩の勢力(藩内の中下級藩士を中心とする尊王攘夷派が主導権を握っていた)と尊王攘夷派の公家が追い出しました(「八月十八日の政変」1863年)。

尊王攘夷派から京都を守るために結成された新撰組が京都の旅館「池田屋」で20数名の尊王攘夷派を殺傷しました(「池田屋事件」1864年6月)。それに憤激した長州藩兵が京都に攻め上がり京都御所付近で戦闘に入りますが、御所を守る薩摩藩兵と会津藩兵と桑名藩兵に敗北(「蛤御門の変」1864年7月)、幕府はそれを機に長州に出兵、再度公武合体派が実権を握っていた長州は幕府に謝罪、家老3名を切腹させて収束させました(「第一次長州征伐」1864年12月まで)。そして、上述のように、翌1865年孝明天皇が開国を認めたことで、公武合体と開国の方針でスムースに進みそうでした。

ところが、「攘夷は不可能」と悟った薩摩藩がイギリスに接近、西郷隆盛や大久保利通ら下級武士をリーダーに、武器の輸入、洋式工場の建設などを進め、軍事力をつけてきてました。もはや幕府の長州征伐の命令には従わず、長州藩の武器調達の手助けをするまでになります。

長州藩でも、高杉晋作が民兵組織「奇兵隊」を結成、公武合体派から主導権を奪取。

土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介で「薩長同盟」が結ばれ(1866年1月)、両藩の倒幕への態度が固まります。ここからは尊王攘夷の大義名分は関係なしの権力闘争(倒幕運動)です。幕府と一緒にやっていこうという孝明天皇の意思に反して幕府を倒そうというのですからもはや「尊王」ではなく、イギリスの力を借りるのですからもはや「攘夷」でもありません。

そんな動きの中で、同年(1866年)12月25日(「薩長同盟」密約後1年も経っていない)、倒幕勢力にとって目の上のたんこぶ的存在の孝明天皇(35歳)が死去します。死因は天然痘とされていますが、12月27日に全快を祝う祝宴が予定されていたのに突然亡くなりました。倒幕勢力による毒殺説が有力です。イギリスの駐日公使の元で日英外交に従事したアーネスト・サトウは日記に「内幕を知る一日本人によって、帝は殺された」とはっきり書いています。『幕末史』の著者・半藤一利も毒殺説を支持していました。(事実だとしたら)倒幕勢力はとんでもないことをやらかしたものです。

徳川慶喜
徳川慶喜

徳川慶喜が15代将軍になったのは、孝明天皇の死の20日前です(12月5日)。慶喜が宮中に上がった途端、反幕府の公家たちが放逐されます。孝明天皇と慶喜のペアを倒幕勢力は極度に警戒しました。孝明天皇が亡くなってからは、岩倉具視ら朝廷内の倒幕勢力が再びむくむくとのし上がってきます。

ここからはめちゃくちゃです。1867年、年端のいかない明治天皇(14歳)が皇位を継承しますが、側近の意のままだったことでしょう。10月13~14日、岩倉具視周辺で偽造された天皇承認の記しのない「(偽の)倒幕の密勅(偽勅)」が薩摩藩と長州藩に出され、両藩はそれをありがたくいただき「(偽)官軍」となります。かたや、孝明天皇から厚く信任されて京都守護職を務めていた会津藩や徳川家は天皇に歯向かう「朝敵(賊軍)」とされてしまうのです。

実は、「(偽の)倒幕の密勅(偽勅)」が出されたのと同じ10月14日、徳川慶喜が大政奉還を朝廷に上奏しています。岩倉や西郷らは大政奉還されて朝廷と幕府が丸くまとまる前に(偽の)倒幕の密勅(偽勅)を出して、朝廷と幕府の間を裂こうとしたのです。

やはり10月14日、西郷は江戸に 益満休之助 ますみつ・きゅうのすけ らを送り、500名ほどの不逞浪士団を結成させ、商家の襲撃、辻斬り、放火といったテロ行為をさせ江戸を蹂躙。不逞浪士団が逃げ込んだ東京三田の薩摩藩邸を幕府側の諸藩兵が討ち入るといった「江戸薩摩藩邸焼討事件」も起きました。「争いを起こして、反撃という形で旧幕府勢力を叩き潰そう」という倒幕側からすると、思うつぼだったかもしれません。

大政奉還後、岩倉が明治天皇に差し出した「王政復古の大策」により、朝廷の摂政、左大臣、右大臣といった官職が全て廃止され、新たに総裁、議定ぎじょう 、参与という役職が作られました。その過程で新政府のメンバーに岩倉などがちゃっかり名を連ねます。新政府の最初の重大会議「小御所会議」(12月9日(1867年))でも公武合体派の公家は排除されました。議題は「慶喜を全ての職から下ろし、徳川家の地所も全て朝廷に納めさせること」について。反対した松平春嶽や山内容堂らも、議場の外で待機していた西郷の「短刀一本あればケリがつく」の一言で黙ったようです。西郷は恐ろしい男。

そして、翌1868年(慶応4年)。話を冒頭に戻します。1月1日、慶喜は薩摩討伐の命令を発し、京都へ向けて進撃、両軍は、1月3日、鳥羽・伏見でぶつかります(「鳥羽・伏見の戦い」)。しかし、旧幕府勢力は15,000名の兵力がありながら、圧倒的な重火器を擁する5,000名ほどの倒幕勢力に4日間ほどで破れてしまいます。孝明天皇から信任されていた旧幕府勢力は、倒幕勢力が掲げた「(偽の)錦の御旗」(岩倉は大久保利通と品川弥二郎に図(岩倉の秘書だった 玉松 操 たままつ・みさお が作成)を示し作製を託した)により「朝敵(賊軍)」に仕立て上げられてしまいます。

その後、戊辰戦争は、「上野戦争」「北越戦争」「会津戦争」「箱館戦争」と、翌明治2年(1869年)まで続きます。孝明天皇から信任されていた勢力がことごとく(?)「朝敵(賊軍)」にされていきます。とんだ尊王攘夷です。

こうして“明治維新”がやってきます。汚い手を使い放題でも「勝てば官軍」なのですね。その恥ずべき結果主義、結果オーライ、表層主義、「偽装・上げ底OK主義」を現今の日本人は乗り越えられたのでしょうか?

半藤一利『幕末史 (新潮文庫)』。テロに、謀略に、醜い権力闘争・・・、“明治維新”などと称揚するのはいかがなものか?と考えさせられる一書 早乙女 貢『会津士魂 (1) 〜会津藩京へ〜 (集英社文庫) 』。孝明天皇から篤く信頼された会津藩が“朝敵”とされた経緯を詳細に追う。吉川英治文学賞受賞作。全13巻
半藤一利『幕末史 (新潮文庫)』。テロに、謀略に、醜い権力闘争に・・・、“明治維新”などと称揚するのはいかがなものか?と考えさせられる一書 早乙女 貢『会津士魂( 1) 〜会津藩京へ〜 (集英社文庫) 』。孝明天皇から篤く信頼された会津藩が“朝敵”とされた経緯を詳細に追う。吉川英治文学賞受賞作。全13巻
原田伊織『明治維新という過ち 〜日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〜〔完全増補版〕 (講談社文庫)』 NHK大河ドラマ「八重の桜」。会津から見た幕末
原田伊織『明治維新という過ち 〜日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〜〔完全増補版〕 (講談社文庫)』 NHK大河ドラマ「八重の桜」。会津から見た幕末

■ 参考文献:
●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと 五味 ごみ 文彦、 高埜 たかの 利彦、 鳥海 とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.318-321、P.323-327、P.329 ●「和宮降嫁」(河内八郎)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●『幕末史(新潮文庫)』(半藤一利 平成24年発行)P.256-260、P.275、P.290-298 ●『大田区史年表』 (監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.401

※当ページの最終修正年月日
2023.8.4

この頁の頭に戻る