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攘夷派はいづこへ(明治9年10月24日、「神風連の乱」が起こる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治9年10月24日(1876年。 熊本の士族(旧武士)の政府に対する反乱「神風連しんぷうれんの乱」が起きました。

明治政府は、この3月に「廃刀令」を出して刀を帯びる特権(誇り)を士族から ぎ取り、8月には禄(給与)4〜6年分の公債を出しその後の禄は打ち切るとしました。国学者 桜園 おうえん に学んだ門人で明治になっても尊皇攘夷の念を熱く抱く者たちが神風連に結集。彼らには、「尊皇攘夷のエネルギーを権力奪取に利用するだけ利用して明治になって変節した政府」への強烈な憤りがありました。

桜園の後継者と目された太田黒伴雄おおたぐろ・ともお(42歳)、加屋霽堅かや・はるかた (40歳)を中心に約170名は、熊本鎮台司令官と熊本県令、その他県庁役人4名を殺害、その後、熊本城内の新政府軍の鎮台を襲撃し占拠しました。

しかし、彼らは国学・神道の信奉者なので、鉄砲といった西洋由来の武具は一切使わず槍と刀を手にしたので、政府軍の兵力の前ではあえなく散るのみでした。太田黒も加屋も戦死し、86名は 金峰山きんぽうざん(熊本県熊本市西区河内町岳かわちまちたけ Map→)山頂で自刃。その他のメンバーも捕縛されて、翌日の25日には鎮定、純粋な尊皇攘夷派がまたごっそりと姿を消しました

三島由紀夫の『奔馬ほんば 』(「豊饒の海」第2巻)Amazon→は、昭和初期が舞台ですが、神風連に傾倒する いさお という少年が出てきます。 彼は“純粋”であろうとし、その規範を神風連に見出します。

大正8年1月、芥川龍之介(26歳)が『開化の 良人 おっと 青空文庫→を書いています。作中の「私」は最初、神風連に「一向同情はできない」「自滅する方が当然」と考えますが・・・。

溝口健二監督の映画に「神風連」 がありますが、フィルムは見つかっていないようです。脚本は出版されていますAmazon→

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米国のペリーが4艘の軍艦(黒船)を率いてやってきたのが嘉永6年(1853年)です。いじめっ子に追随するがごとく、英国、フランス、ロシア、それに長年日本と穏やかに国交したオランダまでが、日本に対して強圧的になってきます。圧倒的な暴力(軍事力)をチラつかせて開国を迫まるような“野蛮な国々”をよしとする日本人はいなかったはずです。「帰ってくれ」「さもなくば許さず」といった攘夷の念を、薩長土肥に限らず、朝廷も、幕府も、日本に住むほぼ100%の人が共有したことでしょう。

しばらくすると攘夷の念を爆発させる人が現れ始めます。安政6年7月27日(1859年)ロシアのムラヴィヨフが7艘の軍艦で来航のおり、乗組員の海軍少将・ロマン・モフェト、水兵イワン・ソコロフ、調理師のミハイル・マカロフの3名が横浜で襲われ前者2名が絶命(最初の外国人殺害)、横浜で葬られました(「外国人墓地」(横浜市中区山手町96 Map→)の始まり)(「ロシア人2名殺害事件」)。

幕府も攘夷の念を共有していましたが、列強と折衝に当たらなくてはならない立場にあり、抵抗したならば、強大な軍事力で叩きのめされることも分かっていたので、攘夷の念はいったん脇に置いて、時間を稼ぎ、その間に台場の建設や、軍備の調達、西洋式の軍事技術の習得を急いだのでした。「ロシア人2名殺害事件」はそういった時に起きました。ロシアは全艦隊の砲窓を開いて200門以上の大砲を突き出して威嚇しつつ、下手人と指図した人の捕縛と処刑を迫ってきました。

事態を収束させようとした幕府は、水戸藩の家老・ 安島信立 あじま・のぶたつ (48歳)に切腹、 茅根伊予之介 ちのね・いよのすけ (35歳)と 鵜飼 うがい 吉左衛門(61歳)に死罪、吉左衛門の息子の鵜飼幸吉(31歳)に獄門を言い渡します。この4人は“真犯人”の代わりに死ぬことになったのでしょうか(6年後かに水戸天狗党の小林幸八が自供し処刑された)。こうやって、「安政の大獄」が始まりました。

幕府の厳しい処断に攘夷派は強く反発し、翌安政6年3月3日(1860年)、水戸と薩摩の浪士が大老・井伊直弼(44歳)を殺害(「桜田門外の変」)。この頃になると、攘夷の矛先は外国人だけでなく、外国人と対応する幕府へも向けられていきます。翌文久元年(1861年)には水戸浪士が東禅寺(東京都港区高輪三丁目16-16 Map→)の英国公使館が襲撃されます(「第一次東禅寺事件」)。

翌文久2年(1862年)になると事件の目白押しで、水戸浪士によって老中・安藤信正が襲撃され(1月15日「坂下門外の変」)、東禅寺がまた襲撃され(5月29日「第二次東禅寺事件」)、薩摩藩士によって英国人が斬られました(8月21日「(横浜)生麦事件」)。高杉晋作(23歳)、久坂玄瑞くさか・げんずい (22歳)ら長州藩士ら11名らは英国公使オールコック(53歳)の襲撃を計画しましたが未遂に終わりました(11月13日「梅屋敷事件」)高杉らは、1ヶ月後の12月12日、品川 御殿山 ごてんやま (東京都品川区北品川四丁目7 Map→ の完成間近だった英国公使館を焼討ちにしています。久坂、井上 かおる 、伊藤博文も参加。後に“偉人”とされる人たちもずいぶん過激なことをしたのですね(「英国公使館焼討ち事件」)。長州の攘夷派は水戸や薩摩の攘夷実践に遅れまじと犯行に及んだのでしょう。

「英国公使館焼討ち事件」の17日後の12月29日(文久2年。1862年)には、高杉や久坂とも交流があった土佐の坂本龍馬(26歳)が、江戸氷川の勝 海舟(39歳)を訪ね、話によっては勝を斬るつもりだったようです。1年とんで元治げんじ元年7月11日(1864年)には、京都で、 河上彦斎かわかみ・げんさい(29歳)らが、佐久間象山しょうざん(53歳)を斬殺。オランダ語を通して西洋を理解しようとした人たちは、無知な攘夷派からすると海外列強に媚びへつらう“西洋かぶれ”にしか見えず、その標的になりました。

薩摩と長州は、文久3年(1863年)の「薩英戦争」、元治元年(1864年)のフランス、米国、英国、オランダによる「下関攻撃」で西洋の軍事力を目の当たりにして、攘夷を引っ込めますが、かといって幕府に協力しません。幕府と一体になって事に当たろうとした皇室にも協力しませんでした。彼らは、もはや、攘夷でも尊皇でもなく、攘夷と尊皇を利用する倒幕勢力

久坂は「蛤御門の変」で自刃(1864年。24歳)。幕府と一緒にやろうとした孝明天皇も倒幕勢力にとっては邪魔もので、慶応2年12月25日(1867年。35歳)亡きものにされました(異説あり)。高杉は慶応3年(1867年。27歳)、結核で死去します。

高杉久坂の師匠・吉田松陰は「安政の大獄」の余波で死に追いやられますが(安政6年(1859年)死去。29歳)、松陰が密航に成功し、米国から何がしかを学び、成功の見込みのない攘夷は脇に置き、幕府側の海舟象山に協力したならば(本当に国のことを思うのならできたはず)、久坂高杉も伊藤も井上も過激な攘夷に走らず、幕府は存続し、のちに自然な形で解体し、平和に近代的な政治体制に移行できたかもしれません。

明治になって開国派に転向した倒幕勢力は、攘夷を捨てない彦斎のような人たちが邪魔になります。暗殺事件の嫌疑がかけられ、 明治4年、彦斎は斬首されました。再び攘夷の機運が高まる昭和初年(昭和2年)、有志によって当地(東京都大田区)の本門寺に彦斎の碑が建てられましたPhoto→。碑文を同じく熊本出身の徳富蘇峰が書いていますPhoto→

町田明広『攘夷の幕末史 (講談社現代新書)』 野口武彦 『幕末明治 不平士族ものがたり』(草思社)
町田明広『攘夷の幕末史 (講談社現代新書)』 野口武彦『幕末明治 不平士族ものがたり』(草思社)
『城下の人 〜新編・石光真清の手記(一) 西南戦争・日清戦争(中公文庫)』。神風連の乱、西南戦争、大津事件、日清・日露戦争などについて書かれた「自伝の名作」。毎日出版文化賞受賞 島崎藤村『夜明け前(岩波文庫)』。幕末に国学に自らの道を見出した男は、明治になって政府の手のひら返しの政策に絶望、発狂、座敷牢で死にゆく。藤村の父親がモデルだ。神奈川県湯河原で藤村は小説の想が練ったという
『城下の人 〜新編・石光真清いしみつ・まきよ の手記(一) 西南戦争・日清戦争(中公文庫)』。神風連の乱、西南戦争、大津事件、日清・日露戦争などについて書かれた「自伝の名作」。毎日出版文化賞受賞 島崎藤村『夜明け前(岩波文庫)』。幕末に国学に自らの道を見出した男は、明治になって政府の手のひら返しの政策に絶望、発狂、座敷牢で死にゆく。藤村の父親がモデルだ。神奈川県湯河原で藤村は小説の想が練ったという

■ 馬込文学マラソン:
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
芥川龍之介の『魔術』を読む→

■ 参考文献:
●『明治大正史(上)』(中村隆英たかふさ  東京大学出版会 平成27年発行 同年発行4刷参照)P.10、P.67-68、P.183-189 ●『幕末史(新潮文庫)』(半藤一利 平成24年発行)P.132-304、P.256-260 ●「神風連の乱」(猪飼いかい 隆明)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に掲載コトバンク→ ●「林 桜園」(飯倉洋一)※「朝日日本歴史人物事典」(朝日新聞出版)に掲載コトバンク→) ●『大田区史年表』(東京都大田区 監修:新倉善之 昭和54年発行)P.379-405 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.82-83 ●『蒲田地方と梅屋敷』(北村正治 眺風会 昭和33年発行) ●『満天の花』(佐川光晴)※「東京新聞」(夕刊)に連載 No.175-No.199(令和元年) ●『高杉晋作(文春文庫)』(一坂太郎 平成14年発行)P.30-36

※当ページの最終修正年月日
2024.10.24

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