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三島由紀夫の家が近くにあると知った。 番地を見たら、私の住むアパートからとても近い。 近くに彼が住むような家があっただろうか? ある夏の夕方、地図を片手に、 三島邸探しに出かけた。 ふだん曲がらない道を一つ曲がれば、近所でも “見知らぬ土地” 。 角を2度折れると、信じられないほど高級感漂う一角に出た。 白い大きな家が目に飛び込んでくる。 案の定、表札に「三島由紀夫」とある。 門前に立つだけでなにやら恐い。 三島由紀夫というとどうしても、あの壮絶な最期が思い起こされるのだ。 でも、にわかには立ち去ることもできない。 閉ざされた門の内側の壁には焼き物の絵がはめ込まれてあり、その上の常緑樹の茂みに目を凝らすと白い彫像の肌がわずかにのぞいて見える。 そのとき、バイオリンケースを抱えた少女が近くに立っていたように記憶する。が、あれは現実だったか? 夏の夕焼けが三島邸の白い外壁を赤く染めていた。 俄然、興味が湧いてきた。彼はあの家でどんな小説を書いたのだろう? 高校生の頃、『仮面の告白』や『金閣寺』に挑戦したが、どちらも読み通すことができなかった。 集中力と根性をまったく欠いていた。 今だったら読み通せるか? 彼の何かスゴいのを読んでみたい。 そして、見つけたのが『豊饒の海』だ。4巻からなる長編だ。4巻目の末尾に署名した日、三島は死に赴く。 これを読めば、彼の死の秘密の一端を知ることができるかもしれない。 それからの数ヶ月間、 『豊饒の海』を読むのを日課にした。 難しい箇所もたくさんあって、理解できたとは到底言えない。でも、イメージされる情景は恐いほど美しい。 アパートのベランダから三島邸が見えることに気付いた。 晴れた日にはベランダに椅子を出してひも解く、時折左手に見える三島邸の屋根に目をやりながら。 著者を近くに感じながらの読書にワクワクしどうしだった。・・・この至福の読書体験が、この「馬込文学マラソン」というサイトを始めるきっかけになった。 『豊饒の海』について三島由紀夫が晩年の6年間を費やして書いた小説。昭和42年1月(42歳)から 「新潮」 に連載され順次刊行される。 『春の雪』 『
平安後期に菅原孝標女が書いたとされる超常的な小説『浜松中納言物語』にヒントを得て書かれた。三島は学習院高等科で、『浜松中納言物語』の末巻(第五巻)を復元した松尾 聡に国文法と古典を教わっている。 冒頭から登場する
初版は各巻が異なる色の絹で覆われている。 4巻目の『天人五衰』 のカバー絵は瑶子夫人(日本画家・杉山
三島由紀夫について
天才肌 理知的で、かつ妖しさ漂う作風 昭和27年(27歳)、『卒塔婆小町』(『近代能楽集 Amazon→』の1つ) が長岡輝子(44歳)の目にとまり、文学座に戯曲を提供するようになった。 昭和31年(31歳)、金閣寺放火事件を題材にした『金閣寺』を脱稿。 世界的に注目され、2度ノーベル文学賞の候補になる。 当地(東京都大田区)に越してきた頃に書いた『鏡子の家』(昭和33年 33歳)は、平野 謙らから酷評された。この頃から、映画に出たり、写真の被写体になったり、レコードを作ったりする。 生真面目に文学にかじりついているのがアホらしくなったのだろうか。 政治への傾斜 昭和45年11月25日(45歳)、森田必勝ら「盾の会」の4名と東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地に行き、隊員を前に演説、その後切腹した。 墓所は多磨霊園( )。 ■ 三島由紀夫評 ・ 「いつも存在しようとしながら存在できなかった」(平岡 ・ 「三島さんは優しい人だった。よく気のつく人だった。高笑いする人だった。この高笑いは、彼の素性のよさと、汚れのない人柄を示していた。仕事の約束をキチンと守る人だった」(山口 瞳)(左右社 『〆切本』P.251)
三島由紀夫と馬込文学圏昭和34年(34歳。結婚後1年)、長岡輝子(51歳)が見つけた土地(東京都大田区南馬込四丁目32-8 map→)に 「悪者が住むような家」 を建て、昭和45年に自死するまでの11年間住む。 来訪者は、横尾忠則 、森 茉莉、三輪明宏、大江健三郎、ドナルド・キーン 、澁澤龍彦 、浅利慶太 、安部公房、万代 潔(民族派の雑誌 「論争ジャーナル」 編集部。 「楯の会」構想のきっかえとなった人物。 彼に会った4ヶ月後から三島は自衛隊に体験入隊)など。パーティーがしばしば催され「大森鹿鳴館」と呼ばれた。 三島邸からわずか数十歩のところに三島が高く評価した稲垣足穂が居候した衣巻省三邸があった。 三島は知っていただろうか? ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |