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川端龍子(65歳)は金閣寺放火事件直後より事件を題材に「金閣炎上」を描き始め、2ヶ月後の青龍展で発表、話題になった ●全体像→ ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「川端龍子(現代日本の美術)」(集英社) 昭和25年7月2日(1950。
の雨降る未明(午前3時頃)、京都「
「舎利殿」(国宝)をはじめ、「足利義満(室町幕府第3代将軍)の木像」(国宝。義満の別荘が死後「鹿苑寺」になった)、運慶の「観音菩薩像」、「阿弥陀如来像」、「経文」など数々の文化財が灰に帰しました。 事件後、姿が見えない同寺院の見習い僧侶・林
林の供述に「私の行いを見ると醜いので美に対する嫉妬の考えから焼いたのですが真の気持ちは表現しにくいのであります」とありました。 この「表現しにくい」「真の気持ち」に迫ったのが三島由紀夫です。事件の6年後(昭和31年)の1月(31歳)から、雑誌「新潮」に小説 『金閣寺』を連載し始めます。三島作品で「一人称告白体」で書かれたのは、8年前(23歳)に書かれた『仮面の告白』とこの『金閣寺』2作のみで、後者も、主人公に仮託して自らの青年期の心理を描出したと考えられます。 三島は林の供述にある「美に対する嫉妬」という言葉に着目し、そこから「美」(完全・絶対)的なものを滅ぼそうとの感情(犯行動機)を導き出そうとします。青春期にままある「美(完全・絶対)への憧れ」と「現実に直面した時のコンプレックス・嫉妬」のグロテスクなコントラストが、華麗な文体でこれでもかと綴られていきます。読んでいて怖くなるのは、これらの心の動きの片鱗を自分の中にも見つけるからでしょう。小説家の平野啓一郎さんは子どもの頃小説に全く興味がなかったそうですが、中2の頃『金閣寺』を読み、文学にのめり込んでいったそうです。平野さん自身、小説の中の「私」同様周囲との違和感を感じ始めた頃でした。 金閣の他にも「美の象徴」として
主人公の「私」が、もう一つの「美の象徴」である金閣を見たときは次のようでした。 ・・・しかし私は、わざと少年らしく(私はこんな時だけ、故意の演技の場合だけ、少年らしかつた)、陽気に先に立つて、ほとんど駆けて行つた。そこであれほど夢みてゐた金閣は、大そうあつけなく、私の前にその全容をあらはした。・・・(三島由紀夫『金閣寺』より) 自意識に目覚め始めた頃の少年の心理が痛々しいほどにあばかれていきます。 ・・・私の感情にも、吃音があつたのだ。私の感情はいつも間に合はない。・・・(三島由紀夫『金閣寺』より) と端的に表現。「私」の世界が浮き彫りにされていきます。 三島の『金閣寺』は日本近代文学の最高峰の1つとして数えられることもありますが、それに違和感を持った人もいました。その一人が
水上が驚いたのは、犯人の林と自分の境遇が驚くほど似ていること。水上が生まれた福井県大飯郡本郷村(現・おおい町(大飯原発がある町) Map→)は、林が生まれた京都府
三島の『金閣寺』連載(昭和31年)の6年後(昭和37年)、水上(43歳)は『五番町夕霧楼』(Amazon→)(映画化1:東映、出演:佐久間良子、川原崎長一郎)→ 映画化2:松竹、出演:松坂慶子、奥田瑛二→)を発表。三島が犯人の心理を摘出しようとしたのとは異なり、犯人の心情に寄り添いました。林が犯行前に遊郭に行った事実を、自分のことを理解してくれていた幼馴染の遊女・夕子に会いに行くという話に作り変えています。寺院の腐敗にも触れました。 お寺の長い廊下をふくぞうきんの冷たさだけだと思った。ぞうきんにはにおいもある。そのにおいを私は書きたかった。(水上 勉) 林は裁判で懲役7年の判決を受け、事件から5年後(昭和30年10月。金閣再建の落慶法要も同じ月)に出所しましたが(恩赦減刑あり)、入獄中から悪化した結核により半年もしないうちに死んでしまいます(昭和31年3月。26歳)。三島の『金閣寺』の連載中(「新潮」の昭和31年1月〜10月号)の死でした。監獄から出た林が『金閣寺』を読んだとしたら、どんな感想を持ったでしょう。これから真っ当に人生を歩もうとしたでしょうに。モデルの扱いに問題がなかったか検討されてもいいかもしれません(罪を犯した人だからどう書かれてもいいとは言えない)。水上の『金閣炎上』は林の死後に書かれ、林の霊を慰めたことでしょう。 出火寺の金閣寺の住職・村上慈海は、弟子をまともに育てられなかったとの批判に晒されました。三島も水上も作中で、寺院の腐敗の象徴としてその住職を「俗物」「
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