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小説の形(昭和23年5月1日、三島由紀夫『罪びと』を脱稿する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三島由紀夫

昭和23年5月1日(1948年。 三島由紀夫(23歳)が『罪びと』という、単行本の一段組で12頁ほどの短編小説を脱稿しています。

『罪びと』は次のように書き出されます。

 雪のあとのまばゆい晴天へ大まかにさし出された寺院の ひさしからたえまなしに落ちるしずくを見ながら、まもる は突然息苦しい屈辱を感じた。

と、最初の1文からこの密度です。雪に清められた まばゆ い晴天と、「大まかにさし出された」黒々とした廂とが見事なコントラストをなし、そこにもう「護」という物語の主役が登場。彼が突然感じた「息苦しい屈辱」は読者に唐突に投げかけられる謎で、その謎が読者を次行へと誘う仕掛けになっています。絶え間ない「滴」は護の心象でもあるのでしょう。

2文目で、彼の屈辱が、「ここにゐる人すべての目が彼を不幸な人間として眺めてゐる」ことからくるものであることが明らかとなり、3文目で、その理由も分かります。戦後、彼が戦場から戻るとその直後に 許嫁 いいなずけ が死んでしまったのです。だから、周りの同情は至極当然で、それでも彼はなぜか ひど い「屈辱」を感じています。なぜ?とまた新たな謎。

4文目、5文目、6文目は、その新たな謎への応えです。護が出征するとき(「死んでこい」と強いられたとき)、人々は同情しなかった(同情するのを遠慮した)。その同じ彼らが、「同じ一つの死」に対してなのに、異なる反応をしていることへの反感。周りの空気で拵えられている人々の脆弱な感情の場に、死の当事者としていなくてはならないのが、護には「屈辱」以外の何者でもなかった──。

ここまででようやく一段落。半頁ほどの分量(全体が12頁なので、そのおよそ24分の1)なのに、すでに読者を沈思に誘う内容があります。一文一文に、鮮烈な映像的イメージがあったり、それに呼応した鋭い心理描写があったりで、それぞれで一句がひねれそうな密度です。

『罪びと』を脱稿した昭和23年5月1日(三島23歳)のちょうど22年後の昭和45年5月1日、三島(45歳)は、彼の小説で一番の長編となり、また、遺作ともなる『豊饒ほうじょうの海』の最終巻「天人五衰てんにん・ごすい 」を起稿したと推測されています。『豊饒の海』は4巻からなり、計1,368頁ほどの大冊で、『罪びと』のおよそ114倍の分量があります。

書き出しは、

 沖のかすみ が遠い船の姿を幽玄に見せる。それでも沖はきのふよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿たど られる。五月の海はなめらかである。日は強く、雲はかすか、空は青い。

と短い文を重ねています。なんとその後、4頁にもわたって海と空が描出され、「話者」(小説の中で語っている人。著者とは区別される)は、その海と空の状態・変化に「意味」があると感じており、それにぼんやりと見入っているのでした。

『罪びと』の場合は、廂からたえまなく落ちる滴を見ている護を見ているのは、もちろん護なのではなく、護の外側の、特に誰とは特定されない人であり(「中立の視点」)、護がそのとき突然感じた「屈辱」も見透かしている「神の視点」(全てが分かっている立場)です。「神の視点」で描くと、スパッ、スパッと鮮明なイメージを切り取って、物語をぐいぐい先に推し進めることができるかもしれません。かたや「天人五衰」では、「沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる」と感じているのが誰なのか、つまり話者が誰なのか明かされないまま、延々と海と空が描出され、4頁目の最後でようやく、

──安永透は倍率三十倍の望遠鏡から目を離した。

と、空と海を眺め思いに沈んでいるのが、駿河湾を臨む通信所で船舶の出入りを監視している、 とおる という名の16歳の少年であることが明かされます。1文目で主役と物語の視点が提示される『罪びと』とはずいぶん異なります。同じ作家が書いたものでも、「小説の形(テキスト量の寡多)で、これだけ違います。物語のストーリーやオチ、登場人物のキャラなどに主な興味のある読者には、誰の視点かも示されずに延々と空と海が描出される箇所を面白く読むのは至難かも。一人旅に出て、小半日、空と海をボケーと眺めるくらいの気持ちで活字に目をやるのがいいかもしれません。

「天人五衰」のカバーを描いたのは杉山 遥子(ようこ) (三島夫人)。透が眺めやった海もこんなだったか。カバーをとると、海の深さを思わせる濃紺の光沢ある布装(Photo→)
「天人五衰」のカバーを描いたのは杉山 遥子ようこ三島夫人)。透が眺めやった海もこんなだったか。カバーをとると、海の深さを思わせる濃紺の光沢ある布装(Photo→

「小説の形」(テキスト量の寡多)は、視点提示のタイミングだけでなく、文体全体の構成(プロット)にも当然影響するでしょう。芥川龍之介の死から2ヶ月もたたない時期に、芥川を偲んで書かれた「 沓掛 くつかけ にて」で志賀直哉は、芥川の小説を「 仕舞 しまい で読者に背負投げを食はす」(終わりの方で読者をビックリさせる)傾向があり、読者の頭にはストーリーの面白さしか残らず、プロセスの良さが忘れられ惜しいと指摘しました。こういった傾向は夏目漱石にもあり、「読者に隠し、釣っていくところ」が好きになれないとも書いています。視点についても、視点のある人物のその状況では、目に入るはずのないものまで書き込むのは、表現上は面白くても、見えすいていて好ましくないとしました。短編小説や大衆小説(多くの人が好む類の小説)が陥りやすい点を見事に摘出。芥川漱石を見事にぶった切るんですから、やはり志賀直哉です。

川端康成には『雪国』といったそこそこの長編小説がありますが、実はこれは、複数の雑誌(7誌)に12年間にもわたって発表された中短編小説の集合体で、それぞれを単独作品として読むこともできます。鎌倉を舞台にした『千羽鶴』『山の音』無敗の名人・本因坊秀哉の引退碁について書かれた『名人』も、同様の方法で発表されました。

星 新一に代表される「ショート・ショート」という、短編小説よりもっと短く、数ページで完結する小説があります。「ショート・ショート」の先駆とされる城 昌幸の作品集『怪奇製造人』には30篇も収録されていますが、その中でも一番短い「古い長持」(3ページ)という小説を読んでみました。

・・・桐の葉が、軒に音をたてて散るのを聞いていた、お婆さんが、突然こんなことをたずねた。
「あの、中二階の奥にござンしたね、古い長持が」
 夕刊を眼鏡越しに読んでいたお爺さんは、ちょっと顔を上げただけだった。
「ここへお嫁にきた晩、あなたは、こわい顔なすって、あの長持は決して開けてはいけないとおっしゃいましたね。・・・・(城 昌幸「古い長持」の冒頭)

「ショート・ショート」に限って言えば、「釣られて」「背負投げを食らわされる」のも悪くないかな?

松本和也『テクスト分析入門 〜小説を分析的に読むための実践〜』(ひつじ書房) 菅原克也『小説のしくみ 〜近代文学の「語り」と物語分析〜』(東京大学出版会)
松本和也『テクスト分析入門 〜小説を分析的に読むための実践〜』(ひつじ書房) 菅原克也『小説のしくみ 〜近代文学の「語り」と物語分析〜』(東京大学出版会)
川端康成『掌の小説 (新潮文庫) 』。2〜10頁ほどの短編を122編収録。清水 宏監督の映画「有りがたうさん」の原作「有難う」もその一篇 プルースト『失われた時を求めて〈1〉 (光文社古典新訳文庫)』。「20世紀最高の文学」にして最長の小説。冒険的読書となるだろうか?
川端康成『掌の小説 (新潮文庫) 』。2〜10頁ほどの短編を122編収録。清水 宏監督の映画「有りがたうさん」の原作「有難う」もその一篇 プルースト『失われた時を求めて〈1〉 (光文社古典新訳文庫)』。「20世紀最高の文学」にして最長の小説。冒険的読書となるだろうか?

■ 馬込文学マラソン:
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
芥川龍之介の『魔術』を読む→
志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→
城 昌幸の『怪奇製造人』を読む→

■ 参考文献:
●『三島由紀夫研究年表』(安藤 武 西田書店 昭和63年発行)P.63-67、P.308 ●『決定版 三島由紀夫全集17』(新潮社 平成14年発行)P.775-779 ※解題 ●「「神の視点」という小説の表現法」(本条克明)文章は時空を超えて→ ●「清水港と三島由紀夫『天人五衰』(豊饒の海・第四巻)」(なべさん)なべろぐ→ ●「沓掛にて」(志賀直哉 昭和2年発表(志賀44歳))※『志賀直哉全集 第六巻』(岩波書店 平成11年発行)に収録 ●『雪国(川端康成全集 第五巻)』(新潮社 昭和44年発行)P.388

※当ページの最終修正年月日
2023.5.2

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