{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

時代の物差し(三島由紀夫、大正14年1月14日、生まれる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三島由紀夫

大正14年1月14日(1925年。 三島由紀夫が東京四谷区永住町ながずみちょう (現・新宿区四谷四丁目22 map→)の「古い借家」(『仮面の告白』より)で生まれました。同番地に明治42年頃、漢詩人の 国府犀東 こくぶ・さいとう が住んでおり、案外、国府が住んでいた家で三島は生まれたのかも?

大正は15年12月25日までで(大正天皇はクリスマスに逝去した)、翌日の12月26日からは昭和。三島は昭和元年に満1歳となり、三島の満年齢と昭和の元号げんごう年は一致します。

三島由紀夫という物差し”をあてると、“昭和”が見えてくるかもしれません。

二・二六事件があった昭和11年2月26日、11歳でした。後年、二・二六事件を題材にした『英霊の声』『憂国』『十日の菊』(「二・二六事件三部作」)を書いた三島も、事件当初は、 級友が「ソーリが殺された」と囁いても「ソーリ」(総理大臣)がなんだか分からなかったそうです(実際は、間違えられて義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が殺害され、岡田啓介総理は難を逃れた)。*

敗戦した昭和20年には20歳になります。帝大在学中でしたが、1月10日(19歳)「中島飛行機」の小泉工場(「旧中島飛行機地下工場跡」(群馬県太田市西長岡町 Map→))に動員されました(学徒動員)。体が弱かったため事務係となり、ものを書く時間もあって、『中世』を執筆。能楽の勉強も始めています。2月19日に入営通知が来て、本籍地の兵庫県富合村とみあいむら に出立、入隊検査を受けます。前年に受けた徴兵検査では合格(第二乙種)でしたが(乙種には第一、第二、第三があった)、入隊検査で肺浸潤(結核の第三期)の診断がくだり(医師の誤診とされる)、即日帰郷することになりました。5月に「高座海軍工廠」(神奈川県座間市栗原 Map→ ※敗戦間際まで働いた)に動員されるまでの間に、毅然と生きる少年・少女とそれを密かに妬む大人たちを描いた『サーカス』や、『成吉思汗実録』(那珂通世。昭和18年発行)を元に書いた『エスガイの狩』を脱稿しています(エスガイはジンギス・カンの父親。井上 靖も戦争末期に『成吉思汗実録』を入手しそれを参照して『蒼き狼』を書いた)。**

あと、昭和20年、三島には3つの死がありました。1つ目は、敗戦を伝えた玉音の4日目(8月19日)、敗戦を境に心変わりした連隊長を射殺して自らも命を絶った蓮田善明の死。蓮田は三島を高く評価した人物です。2つ目は、10月23日に腸チフスで亡くなった妹の美津子の死。三島と母親は交代で看護、死の数時間前、意識のない中で美津子は「お兄ちゃま、どうもありがとう」と呟き、三島は号泣したとのこと。そして、3つ目は、自分自身の死。死を決意して遺書・遺髪・遺爪まで残しながら戦争で死ななかった(死ねなかった)“死の欠落”(国のために死ぬことを国は推奨していた)。以後三島は、死のことを考えながら生きて行くことになります。この3つの死は三島の文学的情熱の源泉ともなりました。*

60年安保闘争」のあった昭和35年に三島は35歳になりました。「60年安保闘争」は、昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約とともに調印された「日米安保条約」の改定に反対して行われた戦後最大の国民運動です(新安保条約での、日本側だけが義務を負う点、駐留米軍の活動を日本が把握できない点、事実上の軍事同盟化が問題になった*)。当地の羽田空港を舞台にした「ハガチー事件」(米国のアイゼンハワー大統領の訪日の打ち合わせに来た大統領新聞係秘書・ハガチーがデモ隊に包囲された)や、新安保条約が自然承認される6月19日の前日(6月18日)の33万人もの人が国会を取り囲む空前のデモなどがありました。三島は昭和33年に結婚し翌昭和34年(34歳)からは当地(東京都大田区南馬込四丁目32-8 Map→)に住んだので、「ハガチー事件」の時は当地にいたのですね。*

中国で文化大革命が始まる昭和41年に41歳になりました。

夏目漱石

夏目漱石の満年齢は明治の元号年と一致します。“明治のものさし”にできます。

江戸城の明け渡しがきまった明治元年(慶応4年だったが9月8日に改元。遡って1月1日から明治となる)に1歳で、竹橋事件のあった明治11年には11歳、日本が清国を攻撃した明治27年に27歳、日本がロシアを攻めた明治37年には37歳になっています。明治の終わる45年には45歳、その後4年生きて大正5年に49歳で亡くなりました(漱石が50まで生きていないとは!)。生まれたのは牛込(現在の新宿区喜久井町 1map→)で、亡くなったのは「漱石山房」のあった早稲田南町みなみちょう(やはり新宿区)。現在「(新宿区立)漱石公園」(早稲田南町7 Map→ Site→ ※隣接して「(新宿区立)漱石山房記念館」Site→がある)になっています。その間は500mほど漱石は、里子に出されたり、養子に取られたり、松山(愛媛県)時代があったり、熊本時代があったり、英国に留学したり、東京内も転々としましたが、三島同様、出生の地の近くに戻って来たのですね。

岡本太郎

昭和・明治の元号年と共に生きた人を紹介したので、大正の元号年と満年齢が一致する人はと探したら、岡本太郎が明治44年生まれでそうでした。大正12年の関東大震災の時12歳。生まれたのは神奈川県川崎で、没したのは東京の青山。川崎には「(川崎市)岡本太郎美術館」(川崎市多摩区枡形ますがた 七丁目1-5 Map→ Site→)が、青山には「岡本太郎記念館」(東京都港区南青山六丁目1-19 Map→ Site→)が建っています。

明治時代より前は「一世一元の制」でなかったので、元号がコロコロ変わって“時代の物差し”としてあまり使えません。江戸時代が始まって1年目を「江戸1年」とすると、その江戸の時代年と満年齢が一致するのが狩野探幽。1602年生まれなので、江戸幕府が誕生した1603年に満1歳となり、江戸72年(1674年)に72歳で亡くなっています。生まれは京都ですが、江戸幕府の御用絵師になり江戸に移動、そこで没しました。

出口裕弘『三島由紀夫・昭和の迷宮』(新潮社)* 半藤一利『漱石・明治・日本の青春』(新講社)
出口裕弘『三島由紀夫・昭和の迷宮』(新潮社)* 半藤一利『漱石・明治・日本の青春』(新講社)
『岡本太郎 〜挑む/夢と誓い(抄)〜 (人間の記録 (77)) 』(日本図書センター) 門脇むつみ『巨匠 狩野探幽の誕生 〜江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇〜 (朝日選書)』
『岡本太郎 〜挑む/夢と誓い(抄)〜 (人間の記録 (77)) 』(日本図書センター) 門脇むつみ『巨匠 狩野探幽の誕生 〜江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇〜 (朝日選書)』

■ 馬込文学マラソン:
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
井上 靖の『氷壁』を読む→

■ 参考文献:
● 『三島由紀夫(人と文学シリーズ)』(編集責任者:桜田 滿* 学研 昭和54年発行)P.117、P.122、P.229-232 ●「年譜」(山口 基)※ 『三島由紀夫(人と文学シリーズ)』(学研)に収録* ●『三島由紀夫研究年表』(安藤 武 西田書店 昭和63年発行)P.4、P.12、P.17、P.18、P.38、P.43-52、P.87、P.181 ●「安保闘争」(荒 敬)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→* ●「ハガチー事件」※「ブリタニカ国際大百科事典」に収録コトバンク→* ●『夏目漱石(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 平成13年18刷参照)P.6-7、P.18-19、P.26-27、P.34-35 ●「三島由紀夫と四谷四丁目」遁生レコードの世界 ブラン公式サイト→ ●「三島由紀夫生家付近(四谷4丁目)」真夜中の俳句帖→

※当ページの最終修正年月日
2024.1.14

この頁の頭に戻る