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大正14年1月14日(1925年。
三島由紀夫が東京四谷区 大正は15年12月25日までで(大正天皇はクリスマスに逝去した)、翌日の12月26日からは昭和。三島は昭和元年に満1歳となり、三島の満年齢と昭和の “三島由紀夫という物差し”をあてると、“昭和”が見えてくるかもしれません。 二・二六事件があった昭和11年2月26日、11歳でした。後年、二・二六事件を題材にした『英霊の声』『憂国』『十日の菊』(「二・二六事件三部作」)を書いた三島も、事件当初は、 級友が「ソーリが殺された」と囁いても「ソーリ」(総理大臣)がなんだか分からなかったそうです(実際は、間違えられて義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が殺害され、岡田啓介総理は難を逃れた)。* 敗戦した昭和20年には20歳になります。帝大在学中でしたが、1月10日(19歳)「中島飛行機」の小泉工場(「旧中島飛行機地下工場跡」(群馬県太田市西長岡町 Map→))に動員されました(学徒動員)。体が弱かったため事務係となり、ものを書く時間もあって、『中世』を執筆。能楽の勉強も始めています。2月19日に入営通知が来て、本籍地の兵庫県 あと、昭和20年、三島には3つの死がありました。1つ目は、敗戦を伝えた玉音の4日目(8月19日)、敗戦を境に心変わりした連隊長を射殺して自らも命を絶った蓮田善明の死。蓮田は三島を高く評価した人物です。2つ目は、10月23日に腸チフスで亡くなった妹の美津子の死。三島と母親は交代で看護、死の数時間前、意識のない中で美津子は「お兄ちゃま、どうもありがとう」と呟き、三島は号泣したとのこと。そして、3つ目は、自分自身の死。死を決意して遺書・遺髪・遺爪まで残しながら戦争で死ななかった(死ねなかった)“死の欠落”(国のために死ぬことを国は推奨していた)。以後三島は、死のことを考えながら生きて行くことになります。この3つの死は三島の文学的情熱の源泉ともなりました。* 「60年安保闘争」のあった昭和35年に三島は35歳になりました。「60年安保闘争」は、昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約とともに調印された「日米安保条約」の改定に反対して行われた戦後最大の国民運動です(新安保条約での、日本側だけが義務を負う点、駐留米軍の活動を日本が把握できない点、事実上の軍事同盟化が問題になった*)。当地の羽田空港を舞台にした「ハガチー事件」(米国のアイゼンハワー大統領の訪日の打ち合わせに来た大統領新聞係秘書・ハガチーがデモ隊に包囲された)や、新安保条約が自然承認される6月19日の前日(6月18日)の33万人もの人が国会を取り囲む空前のデモなどがありました。三島は昭和33年に結婚し翌昭和34年(34歳)からは当地(東京都大田区南馬込四丁目32-8 Map→)に住んだので、「ハガチー事件」の時は当地にいたのですね。* 中国で文化大革命が始まる昭和41年に41歳になりました。 夏目漱石の満年齢は明治の元号年と一致します。“明治のものさし”にできます。 江戸城の明け渡しがきまった明治元年(慶応4年だったが9月8日に改元。遡って1月1日から明治となる)に1歳で、竹橋事件のあった明治11年には11歳、日本が清国を攻撃した明治27年に27歳、日本がロシアを攻めた明治37年には37歳になっています。明治の終わる45年には45歳、その後4年生きて大正5年に49歳で亡くなりました(漱石が50まで生きていないとは!)。生まれたのは牛込(現在の新宿区喜久井町 1map→)で、亡くなったのは「漱石山房」のあった早稲田 昭和・明治の元号年と共に生きた人を紹介したので、大正の元号年と満年齢が一致する人はと探したら、岡本太郎が明治44年生まれでそうでした。大正12年の関東大震災の時12歳。生まれたのは神奈川県川崎で、没したのは東京の青山。川崎には「(川崎市)岡本太郎美術館」(川崎市多摩区 明治時代より前は「一世一元の制」でなかったので、元号がコロコロ変わって“時代の物差し”としてあまり使えません。江戸時代が始まって1年目を「江戸1年」とすると、その江戸の時代年と満年齢が一致するのが狩野探幽。1602年生まれなので、江戸幕府が誕生した1603年に満1歳となり、江戸72年(1674年)に72歳で亡くなっています。生まれは京都ですが、江戸幕府の御用絵師になり江戸に移動、そこで没しました。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |