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生まれた場所と死んだ場所(三島由紀夫、大正14年1月14日、生まれる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生まれた年(大正14年)の三島由紀夫と母親の 倭文重しずえ  ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『三島由紀夫(人と文学シリーズ)』(学研)

 

三島由紀夫

大正14年1月14日(1925年。 三島由紀夫が東京四谷区永住町ながずみちょう (現・新宿区四谷四丁目22 map→)の「古い借家」(『仮面の告白』)で生まれています。同番地には明治42年頃、国府犀東こくぶ・さいとう (漢詩人。石川県金沢の犀川の東にいたので犀東。室生犀星は彼を真似て犀川の西に住んでいたので犀西(星)とした)が住んでおり、国府が住んでいた家かもしれません。

大正は15年12月25日までで、翌日の12月26日からは昭和。三島は昭和元年で満1歳となり、三島の満年齢と昭和の元号年は一致します。二・二六事件があった昭和11年に11歳となり、敗戦した昭和20年に20歳となり、60年安保の昭和35年に35歳、中国で文化大革命が始まる昭和41年に41歳です。“三島由紀夫という物差し”をあてると、“昭和”が見えてくるかもしれません。

生まれた家のことと生まれて直後のことを、三島は次のように書いています。

・・・私の家は殆ど鼻歌まじりと言いたいほどの気楽な速度で、傾斜の上を辷りだした。莫大な借財、差押、家屋敷の売却、それから窮迫が加わるにつれ暗い衝動のようにますますもえさかる病的な虚栄。――こうして私が生れたのは、土地柄のあまりよくない町の一角にある古い借家だった。こけおどかしの鉄の門や前庭や場末の礼拝堂ほどにひろい洋間などのある。・坂の上から見ると二階建であり坂の下から見ると三階建の・燻んだ暗い感じのする・何か錯雑した容子の威丈高な家だった。・・・

 ・・・どう説き聞かされても、また、どう笑い去られても、私には自分の生れた光景を見たという体験が信じられるばかりだった。 ・・・(中略)・・・私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われないところがあった。産湯を使わされた盥のふちのところである。下したての爽やかな木肌の盥で、内がわから見ていると、ふちのところにほんのりと光りがさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金でできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえて届かなかった。しかしそのふちの下のところの水は、反射のためか、それともそこへも光りがさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、小さな光る波同士がたえず鉢合せをしているようにみえた。・・・(ともに三島由紀夫の私小説的小説『仮面の告白』より)

三島は四谷四丁目のあと、昭和12年(12歳)には学習院初等科から中等科へ進学したのを期に東京都渋谷区(大山町15 map→)、昭和25年(25歳)には独立してか東京都目黒区(緑ヶ丘2323 map→)に転居、昭和33年に結婚し翌昭和34年(34歳)からは当地(東京都大田区南馬込四丁目32-8 map→)に住みます。このように住まいを3度変えましたが、面白いことに、昭和45年(45歳)自死を遂げた陸上自衛隊「市ヶ谷駐屯地」(東京都新宿区市谷本村町5-1)は、四谷四丁目の生家からわずか1kmほど。生まれた場所に戻ってきたような感じです。

三島が生まれたあたりの現況。左に見える「みょうが坂児童遊園」に沿って左に曲がったあたりに生家があった? 陸上自衛隊「市ヶ谷駐屯地」の正面入口。昭和45年11月25日、三島は「楯の会」のメンバーと、南馬込の自宅からここにやってきた
三島が生まれたあたりの現況。左に見える「みょうが坂児童遊園」に沿って左に曲がったあたりに生家があった? 陸上自衛隊「市ヶ谷駐屯地」の正面入口。昭和45年11月25日、三島は「楯の会」のメンバーと、南馬込の自宅からここにやってきた

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夏目漱石

三島の満年齢は昭和の元号年と一致しますが、夏目漱石の満年齢は明治の元号年に一致し、“明治のものさし”にできます。江戸城の明け渡しがきまった明治元年(慶応4年だったが9月8日に改元。1月1日から明治となる)に1歳で、竹橋事件のあった明治11年には11歳、日本が清国に宣戦布告した明治27年に27歳、日本がロシアに宣戦布告した明治37年には37歳になっています。明治の終わる45年には45歳となり、その後4年生きて大正5年に49歳で亡くなっています。漱石が50歳まで生きていないとは、ショックです(私などはとうに越してしまった・・・)。生まれたのは牛込(現在の新宿区喜久井町 1map→)で、亡くなったのは早稲田南町(やはり新宿区。現在「漱石公園」になっている map→)で、その間500mほど漱石は、里子に出されたり、養子に取られたり、松山(愛媛県)時代があったり、熊本時代があったり、英国留学時代があったり、東京内も転々としましたが、三島よりさらに近くに戻って来たのですね。

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牧野信一

牧野信一も、「生まれた場所に戻る」パターンでした。昭和11年3月24日、「朝日新聞」への連載の話が進行中でしたが、その結果も聞かずに、単身戻っていた郷里の神奈川県小田原の弟・英二の家で、自死してしまいます。 三島は長い世界旅行を2度してますし、夏目も愛媛県や熊本県に教師として赴任、2年4ヶ月ほどの英国留学も経験しています。それに比べ牧野は、郷里から東京へ出てはまた郷里に戻るの連続で、一生涯、郷里の引力下にあったといえます。それを逆手に、特異な牧野文学が生まれるわけですが

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「生まれた場所に戻る」パターンの人を3例紹介しましたが、辻 潤や中原中也や北原白秋は「放浪」パターンで長谷川 潔は「行って戻らず」パターン

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岡本太郎

昭和・明治の元号年を生きた人を紹介したので、大正の元号年と満年齢が一致する人はと探したら、岡本太郎が明治44年生まれでそうなのですね。大正12年の関東大震災の時12歳。

岡本が設計した「マミ会館」(東京都山王二丁目11-6 map→)の尖塔が、かつては当地を空を刺していた 岡本が設計した「マミ会館」(東京都山王二丁目11-6 map→)の尖塔が、かつては当地を空を刺していた

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三島由紀夫 『仮面の告白 (新潮文庫) 』 夏目漱石『道草 (新潮文庫)』。自伝的作品。養家の向かいの 太宗寺(たいそうじ) (東京都新宿区新宿二丁目9-2 map→)の地蔵によじ登って遊んだようだ
三島由紀夫 『仮面の告白 (新潮文庫) 』 夏目漱石『道草 (新潮文庫)』。自伝的作品。養家の向かいの 太宗寺たいそうじ (東京都新宿区新宿二丁目9-2 map→)の地蔵によじ登って遊んだようだ
玉川信明 編 『辻 潤 〜孤独な旅人〜』 岡本太郎『原色の呪文 〜現代の芸術精神〜 (講談社文芸文庫)』
玉川信明 編 『辻 潤 〜孤独な旅人〜』 岡本太郎『原色の呪文 〜現代の芸術精神〜 (講談社文芸文庫)』

■ 馬込文学マラソン:
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
牧野信一の『西部劇通信』を読む→
辻 潤の『絶望の書』を読む→
中原中也の「お会式の夜」を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→

■ 参考文献:
● 『三島由紀夫(人と文学シリーズ)』(学研 昭和54年発行)P.117、P.122、P.229-232 ●『三島由紀夫研究年表』 (安藤 武 西田書店 昭和63年発行)P.4、P.12、P.18、P.87、P.181 ●『夏目漱石(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 平成13年18刷参照)P.6-7、P.18-19、P.26-27、P.34-35 ● 『牧野信一と小田原』(金子昌夫 夢工房 平成14年発行) P.4、P.66

■ 参考サイト:
・ ウィキペディア/●三島由紀夫(平成25年1月13日更新版)→ ●大正(平成25年1月9日更新版)→ ●明治(平成29年12月13日更新版)→ ●岡本太郎(平成31年1月1日更新版)→ ●国府犀東(平成30年12月28日更新版)→

Online Maps - 地図と道順/内藤新宿(旧:江戸四宿)の変遷→

遁生レコードの世界 -ブラン公式サイト-/雑記諸々/三島由紀夫と四谷四丁目→

アリャリャな人生旅行記/三島由紀夫生家付近(四谷4丁目)→

※当ページの最終修正年月日
2019.9.28

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