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自転車に乗る志賀直哉(明治33年元旦。16歳) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』 大正10年12月20日(1921年。 、萩原朔太郎(35歳)が「自転車日記」(crossbiker's diary→)をつけ始めています。 十二月二十日 今日ヨリ自転車ヲ習ハント欲ス。貸自転車屋ニ行キテ問ヘバ、損料半日二十銭也ト言フ。ヨリテ一台ヲ借リ、附近ノ空地ニ至リテ稽古ス。操縦スコブル至難。ペタルヲ踏メバ と、一日目は惨憺たるご様子。 でも、めげずに翌日もチャレンジしています。弟の弥六に教わりますが、彼から「酔漢ノ漫歩」とからかわれました。4日目に直進できるようになりますが、曲がろうとするとたちまち転倒。その後「物理の法則に従って腰を使え」との弥六の助言が的を得ていたためか、たちまち1周でき、得意になって道に乗り出します。が、坂で加速してしまい大慌て。通行人に「危シ、危シ、避ケヨ、避ケヨ」と呼びかけますが、通行人から「
ところが、年を越して気を取り直して、1月10日から再度挑戦。新型の自転車にはブレーキがついていることを知って道が開けます。それまでの自転車にはブレーキがなかったようです。そりゃ、恐いですね! 朔太郎はそこら中、走り回って、「天下アニカクノゴトキ爽快事アランヤ」とはしゃいでいます。 急に進歩したようで、1月15日には地図と磁石をもっての遠乗りに成功します。汽車で往復したら50銭かかるところを、自転車ならば途中で汁粉を食べても8銭しかかからないと父親に自慢。すると父親は何の用事で行ったのかと聞きます。用はないと答えると、用がないのに8銭かかったのかと父親は笑いました。朔太郎と父親は険悪な仲と思っていましたが、けっこう仲がいいではないですか? 夏目漱石は、朔太郎よりも19年前頃(明治35年頃。35歳頃)、自転車にチャレンジし、やはり「自転車日記」(青空文庫→)を書いています。翌明治36年の「ホトトギス」に掲載されたので、朔太郎が 漱石は明治32-36年(33~36歳)、ロンドンに留学し、そこで神経衰弱が酷くなります。気分転換にと下宿のおばさんが勧めてくれたのが自転車でした。日記には、 ・・・婆さんは講和条件の第一 と書かれています。「婆さん」に降参したので、自分のことを「降参人」と呼んでいます。かなりひねくれてますね(笑)。 そして、乗り方を教えてくれた知り合いのことは「監督官」と呼びました。練習場所が見つかると、「監督官」はさっそく「さあここで乗って見たまえ」と言い放ちます。 ・・・乗って見たまえとはすでに と、まるで落語です。その後も、やはり何度も何度も転倒し、石垣にぶつかり、生爪をはがし、どなられ、からかわれ、出来る訳もない「遠乗り」をきれいな娘さんに誘われたり! ・・・・。ロンドン時代は漱石にとって「もっとも不愉快の二年」だったそうですが、自転車はなんらかの気晴らしにはなったでしょうか?「自転車日記」の滑稽味は、2年後(明治38年。38歳。漱石の満年齢と明治の元号年は一致する)、やはり「ホトトギス」に連載される漱石最初の小説『吾輩は猫である』に引き継がれます。 堺 利彦(31歳)は、漱石がトライしたと思しき明治35年のさらに1年前の明治34年の秋頃から自転車に乗り始めています。当時高価だった自転車を大枚をはたいて購入、やはり店に突っ込んだりとヘマをやりつつも、
日本では自転車に乗る人はまだ稀だったでしょうが、 朝報社内では自転車が流行、内村鑑三(40歳)も3日間で50回転倒の末に習得、やはり自転車通勤しています。社主の黒岩涙香(39歳)も200回転倒の末に千葉まで遠乗りできるようになりました。幸徳秋水(30歳)も購入して夢中になりましたが、畑に突っ込んでお百姓さんに怒鳴られたり、電信柱に激突したり・・・。彼らは「新しいもの」(社会主義にしても自転車にしても)に果敢に取り組む“モダンボーイ”だったのでしょうね。
そんな自転車騒動の中、志賀直哉はやすやすと乗りこなしています。志賀は運動神経抜群です。2台の自転車で曲乗りしたり、急坂の東京小石川の
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |