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徴兵され、処刑され(明治11年8月23日、竹橋事件、起こる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青山霊園にある「竹橋事件」の石碑。処刑された55名と事件当日自死した1名の名が刻まれている


明治11年8月23日(1878年。 夜、皇居の竹橋(東京都千代田区牛ケ淵千代田1-3 Map→)附近で駐屯中の陸軍近衛兵259名が、徴兵制や待遇の改善をもとめ、明治天皇に直訴すべく決起しました。日本軍初の反乱、「竹橋事件」です。

彼らの多くは前年(明治10年)の西南戦争の激戦をくぐりぬけた政府軍の生き残りです。ところが政府は、そんな彼らに対する恩賞や配給品の削減を進めたのです。体を張って、それこそ命を捧げて戦い抜いたという誇りに傷がついたことでしょう。

事件は、発生後、2時間あまりで鎮圧されます。彼らは前夜までは成功をかなり確信していたようですが、なぜに、こんなにもあっけない幕引きとなったのでしょう。

じつはこの決起には、少尉、曹長、軍曹といった位のある軍人も関与しており、また「ある大物」にも話がいっていたのです。それらの人物の太鼓判があったから、兵卒らは、自信満々に立ち上がることができたようなのです。

「ある大物」とは当地(東京都大田区池上)の本門寺に墓Photo→のある鎮台予備砲隊隊長の岡本柳之助(25歳)。 ところが、決起のときが近づくにつれ、岡本の動きがおかしくなってきます。そして、なんと、決起の夜には、皇居とは方向が違う王子方面へと(軍事演習という名の)行軍を大隊に命じます。兵らは「おかしい」と気付きますが、大尉クラスが「企てには同意」「大隊長には良策がある」と説き伏せたようです。

かくして、皇居には、人も弾薬もさして集らず、集った兵たちは易々と捕縛されました。

当時の近衛砲兵大隊の将校ら。左から3番目の深沢巳吉砲兵大尉と左から6番目の宇都宮茂敏砲兵大尉は、反乱を阻止しようとして反乱軍に殺害された。鎮圧サイドの死者は計4名 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「Ancient Images of the Bakumatsu and Meiji periods」
当時の近衛砲兵大隊の将校ら。左から3番目の深沢巳吉砲兵大尉と左から6番目の宇都宮茂敏砲兵大尉は、反乱を阻止しようとして反乱軍に殺害された。鎮圧サイドの死者は計4名 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「Ancient Images of the Bakumatsu and Meiji periods」

そして、2ヶ月もたたないうちに55名が銃殺刑になりました(内2名は翌年処刑)。6,400人ほどの死者がでた西南戦争で処刑されたのは22人なので、「竹橋事件」を当局がいかに重大視したかがわかります。処刑された55名には、事件当日に決起を知ってプラリとついていった者まで含まれます。罪の重さでははく、「見せしめ」の側面が濃厚。一審も二審もない一方的な断罪でした。

現在彼らの墓(「旧近衛鎮台砲兵之墓」)は青山霊園(東京都港区南青山二丁目32-2 Map→)の11号29側にありますが(このページの冒頭の写真は拡大したもの)、近くには彼らを裁いた側の陸軍大将・乃木希典の墓があります。前者はほぼ忘れ去れて手を合わせる者も少なく、後者は「軍神」として崇められているようです。

昭和62年、墓の脇に「竹橋事件」の石碑が建つ。裏面には処刑された55名と事件当日自死した1名の名が刻まれている。ようやく、彼らに対する鎮魂の気運が高まってきた
昭和62年、墓の脇に「竹橋事件」の石碑が建つ。裏面には処刑された55名と事件当日自死した1名の名が刻まれている。ようやく、彼らに対する鎮魂の気運が高まってきた

岡本はというと、鎮圧後の取り調べ中に精神が錯乱したとされ官職を剥奪されますが、その後なぜか放免になっています。そして後に、福沢諭吉の門人となり、朝鮮の近代化を目指した 金玉均 きん・ぎょくきん らを慕って大陸にわたり、朝鮮の内部改革を主導、朝鮮の 閔妃 みんぴ (李氏朝鮮第26代国王高宗の妃)殺害にも関与、いろいろ裏がありそうです。

旭日旗

箱館戦争(戊辰戦争最後の戦い。明治元年から明治2年)に勝利し、新政府が国内を統一しましたが、新政府は直属の軍事力をほとんど持っていませんでした。今後の反政府行動に対処するため、徴兵制が導入されます。

明治5年に「徴兵のみことのり 」を明治天皇に出させて(明治政府は倒幕軍だった頃から一貫して「天皇の絶対性」を利用して世の中を動かそうとした。“維新”の本質)、有無を言わせないようにしておき、それとは別に「徴兵告諭」で国民皆兵を掲げます。

そして、翌明治6年「徴兵令」が布告されました。「竹橋事件」で決起した兵士らの多くもこの「徴兵令」で集められた若者たちです。処刑された55名の平均年齢は約23.8歳。多くが農家の二男三男でした。

明治15年に来日し17年間滞在したフランス人・ビゴー。日本兵の様子も多数スケッチした。この絵は徴兵検査の様子。「甲種合格」になることを、望む人もいれば、恐る人も 明治15年に来日し17年間滞在したフランス人・ビゴー。日本兵の様子も多数スケッチした。この絵は徴兵検査の様子。「甲種合格」になることを、望む人もいれば、恐る人も

「竹橋事件」を機に、明治15年、「軍人勅諭」が出されます(事件直後に山縣有朋(陸軍きょう )が「軍人訓戒」を出したが縛りが足りなかったのだろう)。天皇が軍の最高統率者であることを強調、天皇への絶対服従を要求する内容です。2700文字に及ぶ長文ですが、軍人にはそれを暗唱することが強制されました。「下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちにちん が命令を承ることと心得よ」とあり、天皇(最高統率者)のみならず、上官の命令にも絶対服従させる仕掛けになっています。こうやって「軍紀の厳格」が特徴の日本の軍隊が作り上げられていきます。

また、憲兵(軍部内秩序を維持する)、皇室警察(近衛兵以外の皇居警備組織)も設置されました。

「徴兵令」には最初、役人、公立学校の生徒、戸主、代人料だいにんりょう 納入者などの兵役が免除されましたが、兵役を逃れるために、養子縁組して戸主なるとか、わざと体を傷つけて徴兵検査に不合格になるといった徴兵忌避が少なからずありました。夏目漱石も大学生の徴兵猶予が26歳までなので、期限前に北海道に移籍して一戸を構えています。支配体制が整ってくると、免除項目が制限されていきました。

また、対外戦争が日程に上がってくると、大量の兵士が必要となり、国民皆兵が徹底されていきます。徴兵忌避者に対する罰則も設けられました。兵役年限も延長され、昭和2年には「兵役法へいえきほう 」と改称され、兵役は男子17歳から40歳までの義務となりました(「徴兵令」の布告当初は、3年間、常備軍(現役)に復したあと除隊、在郷軍人として召集を待つとされた)。敗戦の年(昭和20年)になると、男子15歳から60歳まで、女子も17歳から40歳までが戦闘員に編成されます。

澤地久枝 『火はわが胸中にあり 〜忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件〜(岩波現代文庫)』。命を落とした56名の人生を可能な限りに掘り起こした労作 加藤陽子『徴兵制と近代日本』(吉川弘文館)。「徴兵令」布告から、「兵役法」廃止までの70余年間の徴兵制の変遷をたどり、日本軍の特異性を剔出
澤地久枝 『火はわが胸中にあり 〜忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件〜(岩波現代文庫)』。命を落とした56名の人生を可能な限りに掘り起こした労作 加藤陽子『徴兵制と近代日本』(吉川弘文館)。「徴兵令」布告から、「兵役法」廃止までの70余年間の徴兵制の変遷をたどり、日本軍の特異性を剔出
一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活 (講談社現代新書) 』 『経済的徴兵制をぶっ潰せ! 〜戦争と学生〜 (岩波ブックレット)』。著者:雨宮処凛、白井聡、布施祐仁ほか
一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活 (講談社現代新書) 』 『経済的徴兵制をぶっ潰せ! 〜戦争と学生〜 (岩波ブックレット)』。著者:雨宮処凛、白井 聡、布施祐仁ほか

■ 参考文献:
●『火はわが胸中にあり(岩波現代文庫)』(澤地久枝 平成20年発行)P.5-11、P.284、P.289-290、P.341、P.373-374 ●「大森区史」(東京市大森区役所 昭和14年発行)P.621 ●「徴兵令」(吉田 裕)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「徴兵告諭」※「旺文社日本史辞典(三訂版)」コトバンク→ ●「軍人勅諭」(藤原 彰)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→) ●『徴兵制と近代日本 〜1868-1945〜』(加藤陽子 吉川弘文館 平成8年初版発行 平成28年発行6刷)P.7 ●「兵役法」※「百科事典マイペディア」(平凡社)に収録コトバンク→ ●『ビゴー 日本素描集(岩波文庫)』(編:清水 勲 昭和61年初版発行 平成5年発行20刷)P.42-45

※当ページの最終修正年月日
2024.3.9

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