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日清戦争、是か? 否か?(明治27年7月29日、福沢諭吉の「日清の戦争は文野の戦争なり」の社説、時事新報に掲載される)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日清戦争中の明治27年8月8日に「時事新報」に掲載された絵。日本兵が清兵に「文明」の弾丸を打ち込んでいる。日本兵が抱えているのは朝鮮人。朝鮮を守っているらしいが、朝鮮をせしめようとしているようにも見える ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 ※一部着色  出典 :「日清戦争開戦前夜の思想状況 ~金 玉均暗殺事件をめぐる一考察~」(小林瑞乃)※「青山学院大学 紀要(第64輯)」に収録(CiNii→


福沢諭吉

明治27年7月29日(1894年。 福沢諭吉(59歳)が主宰する「時事新報」に、「日清の戦争は 文野ぶんや の戦争なり」というタイトルの社説が掲載されました。

「文野」とは「明」と「 蛮」。日清戦争は、文明国の日本が、野蛮な国・清国(中国)を教え導くための「正しい戦争」である、としたのです。文中、中国(清、支那)や中国軍(清兵)を、「腐敗国」「腐敗軍」「進歩を妨げんとするもの」「頑迷不霊」「普通の道理を解せず」と貶めています。

・・・かの政府の挙動はかくも、幾千の清兵はいずれも無辜むこ〔罪がないこと〕の人民にして、これを みなごろし にするは憐れむべきがごとくなれども、世界の文明進歩のためにその妨害物を排除せんとするに、多少の殺風景を演ずるは到底免れざるの数なれば、彼等も不幸にして清国のごとき腐敗政府の もと に生れたるその運命のつたなきを、おのず から諦むるの外なかるべし。・・・(中略)・・・もしも支那人が今度の失敗に り、文明の勢力の大いに かしこま るべきを悟りて、自からその非を あらた め、四百余州の腐雲敗霧を一掃して、文明日新の余光を仰ぐにも至らば、多少の損失のごときは物の数にもあらずして、むしろ文明の誘導者たる日本国人に向かい、三拝九拝してその恩を謝することなるべし。・・・(※以下のサイトから孫引きさせていただきました。前坂俊之オフィシャルウェブサイト/「日清の戦争は文野の戦争なり(文明の衝突なり)」(福沢諭吉)→

意訳すると、「罪のない清兵を皆殺しにしたのはかわいそうだけども、それも世界の進歩のため、腐敗した国に生まれたのだから諦めろ、もしこの戦争で目覚めたら、きっと日本に感謝するだろうよ」。「どこぞのへイター(差別主義者)?」と言いたくなるような文章ですね。

福沢と言えば「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(福沢諭吉『学問のすゝめ』)を思い浮かべ、平等主義の権化のように思うかもしれませんが、上のような一面があったのですね。愚かしくも今なお根深い「中国を含むアジア蔑視」の源流に、「一万円札の人」がいたとは驚きです(一万円札の図柄が、中国・朝鮮からの文化を尊重し福祉の祖とも言われる聖徳太子から、福沢に替わったのは、昭和59年。中曽根康弘内閣(1〜3次。昭和57〜62年)のとき)。福沢は10年ほど前(明治18年頃)から、清国や朝鮮とまともに付き合うのをやめ、西洋人がそうしているように両国を「処分すべき」とする「脱亜論」を唱えていました。

日清戦争は、この社説が発表された4日前(明治27年7月25日)から始まっていました。

日本は幕末より、欧米列強の東アジア進出に危機感を募らせてきました。清国(中国)は英国らの「帝国性暴力」によってねじ伏せられてすでに頼りになる存在ではなくなりました。そこで、日本が着目したのが朝鮮です。朝鮮を清国から独立させ(清国は朝鮮を属国とみなし宗主権を主張していた)、さらには朝鮮を日本の支配下において、ロシアを含む欧米列強の進出の防波堤にしようとしたのです。鎖国政策を取る朝鮮に対し日本は高圧的でした。米国からされたように、軍事力を背景に開国を迫るべきとの「征韓論」を西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが主張、内治ないちを優先すべきとの大久保利通・木戸孝允らの反対にあって、西郷らは一斉に辞職しました(「明治六年の政変」)。

閔 妃
閔 妃

朝鮮で実権を握っていた 閔妃 びんひ (李氏朝鮮 第26代王・ 高宗 こうそう の妃)は、日本から軍事顧問を招くなど最初親日でしたが、「壬午じんご事変」(明治15年。高宗の実父・大院君だいいんくん のクーデター。清国の出兵で平定)後、日本が守備兵を朝鮮内に駐留させるようになったこともあり、日本に対して不信感を募らせ、急速に清国に接近。

日本は朝鮮の反閔妃派の金 玉均きん・ぎょくきん朴 泳孝ぼく・えいこうらを支援し、 閔妃政権打倒のクーデター(「甲申こうしん 事変」。明治17年)も援助しましたが、またもや清軍の出動によって失敗に終わります。ここらあたりから、閔妃が頼る清国と、閔妃を倒そうとする日本との対立が際立ってきます。福沢らが「脱亜論」を唱え、清国に「野蛮国」のレッテルを貼り始めるのはその頃からです。

日清戦争開戦の年(明治27年)の5月、朝鮮で、東洋文化(儒教、仏教など)を尊重する農民を中心とする東学による、減税と排日を要求する蜂起があり(「甲午こうご 農民戦争」)、閔妃はそれを平定するためにまたしても清国に援軍を要請。日本も頼まれてもいないのに(?)派兵(名目は公使館警護と在朝日本人の保護)。蜂起収束後、朝鮮は日清両国に撤兵を求めましたが、日本は応じず、代わりに日清共同で朝鮮の内政改革することを清国に提案しますが、清国は「日本の撤兵が条件」とそれを拒否。日本は、閔妃の夫(高宗)を押さえてその実父(大院君。閔妃に追放され彼女とは20年以上対立)を担ぎ上げて、大院君をして日本に清軍の掃討を依頼させます。そうこうして日清戦争が始まりました。

福沢の「時事新報」はじめ「東京日日新聞」「東京朝日新聞」「報知新聞」なども日清戦争を肯定、その旗振り役となりました。当時の知識階級の多く、森 鴎外夏目漱石堺 利彦内村鑑三も日清戦争には賛成しています。当時はまだ反戦という発想そのものが稀薄だったのかもしれませんし、当局が主張する「清国から朝鮮を独立させる」を 鵜呑 うの みにしたのかもしれません。後のこととなりますが、日本は、朝鮮を独立させるどころか、その主権を奪い支配下に置くようになります(明治43年「日韓併合」)。

勝海舟

一万円札の人とは違って、断固反対したのが勝 海舟(日清戦争開戦時71歳)です。

・・・日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押し掛けてくる。ツマリ欧米が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。

一体支那五億の民衆は日本に取っては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。

おれなどは維新前から日清韓三国合従がっしょう の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらゐのものサ。・・・(勝 海舟『氷川清話』(編:江藤 淳、松浦 玲)より ※時の政権におもねってかこの部分が省かれている『氷川清話』もあるので注意)

勝 海舟から学ぶことは、いろいろありそう。

月脚達彦『福沢諭吉の朝鮮 〜日朝清関係のなかの「脱亜」〜 (講談社選書メチエ)』 大谷 正 『日清戦争 (中公新書)』
月脚つきあし 達彦『福沢諭吉の朝鮮 〜日朝清関係のなかの「脱亜」〜 (講談社選書メチエ)』 大谷 ただし『日清戦争 (中公新書)』
渡辺延志『日清・日露戦史の真実 〜『坂の上の雲』と日本人の歴史観〜 (筑摩選書)』。司馬遼太郎の『坂の上の雲』の何が問題か 角田房子『閔妃暗殺 〜朝鮮王朝末期の国母〜(新潮文庫)』。日清戦争終結後、日本は朝鮮の支配を強化するため、閔妃を亡きものにした
渡辺延志のぶゆき 『日清・日露戦史の真実 〜『坂の上の雲』と日本人の歴史観〜 (筑摩選書)』。司馬遼太郎の『坂の上の雲』の何が問題か 角田房子『閔妃暗殺 〜朝鮮王朝末期の国母〜(新潮文庫)』。日清戦争終結後、日本は朝鮮の支配を強化するため、閔妃を亡きものにした

■ 馬込文学マラソン:
子母沢 寛の『勝 海舟』を読む→

■ 参考文献:
●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと五味文彦ごみ・ふみひこ高埜たかの利彦、鳥海とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷)P.344-345、P.370-371 ●「日本人のアジア観 日清戦争で「蔑視感情」広がる」(吉沢龍彦)asahi.com→ ●『明治大正史(下)』(中村隆英たかふさ  東京大学出版会 平成27年初版発行 同年発行4刷参照)P.3-21 ●「日清戦争開戦前夜の思想状況 ~金 玉均暗殺事件をめぐる一考察~」(小林瑞乃みずの )※「青山学院大学 紀要(第64輯)」に収録CiNii→ ●『パンとペン』(社会主義者・堺 利彦と「売文社」の闘い)(黒岩比佐子 講談社 平成22年発行)P.55 ●「 乙未いつみ 事変(閔妃虐殺事件)」(宮田節子)※『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)に収録コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
2024.7.29

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