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(C)Luciano Mortula-LGM - stock.adobe.com 大正14年5月30日(1925年。
中国・上海(Map→)の租界で、「 租界とは、国を通さずに、外国の商人が中国の土地所有者から直接借りた地域です。なのに、租界内では外国人が警察権を含む行政権を握り、中国人を支配。租界内の中国人労働者は、昼夜二交代で12時間労働をしいられ、極度の低賃金に甘んじていたのです。トイレにも自由に行けませんでした。 「五・三〇事件」は、こういった劣悪な労働環境に抵抗して中国人がデモを起こしたところ、「
当時、香港近くの
それにしても、租界なるものが、なぜ、できてしまったのでしょう? 100年ほど前(1800年代初頭)、中国(清朝)が衰退してくると、英国をはじめとする列強が、中国を食いものにし始めたのです。 中国(清朝)は貿易港を広州一港に制限していましたが、英国が「アヘン戦争」(1840-1842)をおっ始め、中国を叩きのめして「南京条約」を締結、 香港島を割譲させ、上海などの5港を無理やり開港させ、治外法権も認めさせ、関税自主権も奪ったのです。そして、1845年から、英国は上海にも居住地(租界)を作り始めました。こういった暴力主義(「帝国主義」などという綺麗な言葉に誤魔化されてはいけない)は、極めて非人道的なものです。 3年後(1848年)には米国の租界が設置され、その翌年(1849年)にはフランスの租界もできました。 英国と米国の租界が合併して「共同租界」となると、ニュージーランド、オーストラリア、デンマークも共同管理に参入、共同の施設や、共同の警察力、「万国商団」という軍事力を持つまでになりました。このようにして、上海は、複数の国からの外国人が行き交う多国籍都市となっていきます。 日本人の上海入植者は明治3年で7人でしたが、日露戦争(明治37-38年)後になると、紡績業などの進出で2,000人を越し、第一次世界大戦(大正3-7年)頃からは疲弊したヨーロッパに代わって進出、一番多かった英国人を越えました。 芥川龍之介(29歳)が中国にわたり、上海にも滞在したのはその頃(大正10年)です。芥川は上海での見聞を『上海
『上海游記』にもある上海の「パブリック・ガーデン」(現・
上海での日本人人口が膨れ上がった大正末期に、冒頭にあげた「五・三〇事件」が起きました。事件の発端は、15日前(5月15日)に起きた、上海の日本資本の紡績工場「内外綿株式会社」でのストライキを指導した
昭和に入ると、上海の外国人の半数近くが日本人になります(2万6,000人ほど)。 昭和3年には、芥川に上海行きを勧められた横光利一(30歳)も、1ヶ月ほど上海に滞在、『上海』(青空文庫→ NDL→)を著しました。横光は、1ヶ月ほど前に起きた民主主義の大弾圧「三・一五事件」から逃走するかのごとくでした。仲間の左傾が続く中、一緒にされてはたまんらないといった感じだったのでしょうか。『上海』にも「五・三〇事件」が出てきますが、あくまでも傍観者的なスタンスを保っています。 同じ頃、吉行エイスケ(辻 潤らと行動をともにしたダダイスト。吉行あぐりの夫、吉行淳之介・吉行和子・吉行理恵の父)も上海を舞台にした5部作を書いています(その1つ『地図に出てくる男女』青空文庫→ NDL→)。彼は、何度も上海にわたり、住所を上海にしていただけあって、作品で、民衆の生の声を拾い、社会的状況や政治情勢にも迫りました。 昭和6年、日本が満州事変を起こすと、あからさまになった日本の侵略行為を諸外国も批判するようになります。そこで、日本がやったのは、さらなる謀略。諸外国の利害が渦巻く上海でことを起こし、満州に向いている批判の目をそらそうとしたのです。中国人に金をわたして上海にいる日本人僧侶を襲撃させ、中国の仕業にし「犯人を出せ」と迫ったのです。身に覚えのない中国は当然、反発。日本は戦闘が拡大させました(「上海事変(第一次)」。昭和7年1月28日-3月3日までの1ヶ月強)。「事変」と軽く言われますが、分かっているだけでも中国側に6,000人あまりの犠牲者と、120万人あまりの避難民が出ています。日本側にあまりに酷い所業があったためか、これらの事実を令和の現在でも認めることができない人がけっこういて、その多くがいまだに中国を「悪者」扱いすることに血道をあげているような? その後、日本が日中戦争を拡大させ、
昭和16年、アジア太平洋戦争を始めた日本は、他国の租界にも進駐、それを支配しました。その支配は、日本がポツダム宣言を受諾し、租界が中国に返還されるまで続きます。 戦争に乗じて一攫千金を狙う人や出稼ぎの日本人などが上海に殺到し、10万人もの日本人がいたこともあったそうです。 現在、中国最大の都市として栄える上海ですが、この街がたどってきた負の歴史を、特に租界での「支配者」だった国の人たちは忘れてはならないでしょう。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |