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多国籍都市、上海(大正14年5月30日、「五・三〇事件」が起きる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大正14年5月30日(1925年。 中国で「 五・三〇 ごう・てん・さんぜろ 事件」が起き、草野心平(22歳)が帰国します。草野が中国にいられなくなるほどの「五・三〇事件」とはどういった事件でしょう?

五・三〇事件」とは、租界(中国における帝国主義列強の半植民地)に対して反感を募らせた上海市民のデモに「 工部局 こうぶきょく 」(上海共同租界の行政機関)の警察が発砲、13人の死者が出た事件です。背景には、中国人労働者の劣悪な労働環境(昼夜二交代でそれぞれ12時間労働。極度の低賃金。トイレにも自由に行けなかった)がありました。

顧正紅
顧 正紅

発端は、15日前(5月15日)に起きた、上海の日本資本の紡績工場「内外綿株式会社」でストライキを起こした 顧 正紅 こ・せいこう の死亡事件です。工場側(工部局?)の発砲で死亡したのです。1日前(5月29日)にも、 青島 チンタオ Map→の日本の紡績工場でもストライキがあり、日本軍と北京政府(中華民国政府)が弾圧、8名の死亡者が出ました。こういった支配層の残虐な対応に反発して「五・三〇事件」が起きました。「五・三〇事件」前後のこれら一連の抵抗を「 五・三〇 ごう・てん・さんぜろ 運動」といいます。こういった抵抗を単に「排日運動」とする日本の書籍が今もあるようですが、帝国主義列強の暴虐(搾取と圧政)に対する中国民衆の抵抗だったことを十分説明しないのなら、読者は理解を誤ることでしょう。「排日運動」(善良な日本側があたかも排斥されたイメージとなる)ではなく、せめて「対日抵抗運動」と記すべきです。

草野がいた嶺南れいなん大学Map→は香港の近くで上海からは距離がありましたが、日本人に対する抵抗運動は中国全土に広がり、草野もいずらくなったのでしょう。

ところで、なぜ、中国と中国人を食いものにする租界なるものができてしまったのでしょう?

1800年代に入って中国(清朝)が衰退すると、英国をはじめとする列強が、中国を食いものにし始めます。日本も、両属関係にあった琉球を(琉球は薩摩藩の支配下にあったが、名目上は清朝に帰属していた)、強引に日本の領土に組み入れました(「琉球処分」)。

林 則徐
林 則徐

1840年(黒船来航13年前)には、中国との貿易を独占していた英国が、1%の大義もない戦争アヘン戦争」(1840-1842)を引き起こしました。英国はインドでアヘンを作らせ、それを中国に大量に送り込みました。清朝政府がアヘンの輸入を禁じても、密輸出の形で続行、アヘン吸引の悪習を中国に蔓延させたのです。憂国の士・ 林 則徐 りん・そくじょ (欽差大臣)が2万箱のアヘンを没収し焼却したところ、英国は遠征軍を派遣、「アヘン戦争」をおっ始めたのです(英国内にも強硬な反対論はあったが)。こういった「帝国性暴力」は日本にも忍び寄りますが、しばらくして、軍事力を持った日本は帝国性暴力を行使する側になっていきます。

圧倒的な軍事力で中国をねじ伏せた英国は、「南京条約」で、香港島を割譲させ、上海、寧波など5港を無理やり開港させて(それまでは広州1港のみの開港だった)、治外法権を認めさせ、関税自主権を奪い、最恵国待遇を取り付けました。不平等な条約です。そして、1845年、英国は上海に租界を作り始めます。

租界とは租借料を支払って借りる土地ですが、そんな行儀のいいものではなく、行政権、司法権、警察権も認めさせたので、一種の外国領のようなものです。英国は、嫌がる中国をアヘン漬けにして、さらには侵略したのです。その後、米国、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、ロシア、ベルギー、日本が同様の侵略行為をなし、中国は虫食い状態になっていきます。

後の中国の共産党や国民党に同意できない点が多々あるにしても、それらがこういった列強の「帝国性暴力」に抵抗する中で育っていったことは理解しなくてはなりません。

上海に、英国、米国が共同で運営する「上海共同租界」が形成され(1854年。黒船来航の1年後)、その後、ニュージーランド、オーストラリア、デンマークも共同管理に参入、共同の施設や、警察力、「万国商団」という軍事力を持つまでになりました。上海は、複数の国からの外国人が行き交う多国籍都市となります。

上海の日本人の人口は、明治になった頃(明治3年)は7人でしたが、日露戦争(明治37-38年)後は、紡績業などの進出で2,000人を越し、第一次世界大戦頃からは疲弊したヨーロッパに代わって進出、英国人を越えて一番多くなり、昭和に入った頃には半数近くを日本人が占めます(2万6,000人ほど)。冒頭にあげた「五・三〇事件」が起こるのはその頃です。

昭和6年、日本軍が満州事変を引き起こすと、それまではロシアの南下政策を食い止めるためと日本を好意的に理解していた諸外国も一転、あからさまになった日本の侵略行為を批判するようになってきます。そこで、日本軍がやったのは、さらなる謀略。諸外国の利害が渦巻く上海でことを起こし、満州に向いていた批判の目をそらそうとしたのです。中国人に金をわたし、上海にいる日本人僧侶を襲撃させ、中国の仕業にし、賠償と、抗日団体の即時解散を要求したのです(満州事変を首謀した板垣征四郎と石原莞爾の指令で、上海日本公使館付きの陸軍武官補佐官・田中 隆吉りゅうきち と“男装の麗人”川島芳子が暗躍)。さらには、日本軍は中国人の工場が密集する「 閘北ざほく 」を爆撃しました。日本は上海の 虹口ホンキュー Map→を主な拠点としていましたが、日本軍は作戦本部を「 越界路 えっかいろ 」(租界から延ばされた道路に面した部分に租界当局の主権が及ぶとしたもの)地域に置いて、武装中立地帯をも破っていきます。この謀略で、わかっているだけでも中国側に6,000人あまりの犠牲者と、120万人あまりの避難民が出ました(「第一次上海事変」(昭和7年1月28日-3月3日))。

和平を望んだ犬養首相は同年(昭和7年)5月15日、海軍中尉・古賀清志らに暗殺されます(「五・一五事件」)。昭和天皇も平和論者でしたが、天皇に平和を吹き込んでいるとされた取り巻きは“ 君側くんそくかん ”(天皇の周りにいるけしからん奴ら)として軍部の標的となります。この時代、「平和」は“悪”だったのです。

その後も、日中戦争勃発後、虹口と閘北は日中間の激戦地となりました(「第二次上海事変」(昭和12年8月13日-))。

こういった負の歴史をもつ上海ですが、二つの事変を経ても“夢あふれる国際都市”として、太平戦争にかけ、戦争に乗じて一攫千金を狙う人や出稼ぎの日本人などが殺到、10万人もの日本人がいたこともあったそうです(もっとも太平洋戦争期「外地」で暮らした日本人は600万人にも達したが)。

上海は揚子江流域を後背地として、産業都市、外国航路と連絡する貿易港として発展、現在、中国最大の都市として栄えています。

榎本泰子『上海 〜多国籍都市の百年〜 (中公新書)』 木之内 誠 『上海歴史ガイドマップ(増補改訂版)』(大修館書店)
榎本泰子『上海 〜多国籍都市の百年〜 (中公新書)』 木之内 誠『上海歴史ガイドマップ(増補改訂版)』(大修館書店)
堀田善衛『上海にて (集英社文庫)』 「ドラゴン怒りの鉄拳」。ブルース・リー映画の最高傑作の1つ。共同租界があった頃の上海が舞台。中国民衆の感情の一端が伝わる
堀田善衛『上海にて (集英社文庫)』 「ドラゴン怒りの鉄拳」。ブルース・リー映画の最高傑作の1つ。共同租界があった頃の上海が舞台。中国民衆の感情の一端が伝わる

■ 参考文献:
●「草野心平」(伊藤新吉)※「新潮日本文学小辞典」(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷参照)に収録 ●「租界」(南里知樹)※「日本大百科全書(ニッポニカ) 」(小学館)に収録コトバンク→ ●「五・三〇事件」(安藤彦太郎)※「日本大百科全書(ニッポニカ) 」(小学館)に収録コトバンク→ ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと 五味 ごみ 文彦、 高埜 たかの 利彦、 鳥海 とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.345-346 ●『詳説 世界史研究』(編集:木下康彦、木村靖二、吉田 寅 山川出版社 平成20年初版発行 平成27年発行10刷参照)P.412-414 ●『上海 〜多国籍都市の百年〜(中公新書)』(榎本泰子 平成21年発行)P.147-154 ●『昭和史(1926-1945)(平凡社ライブラリー)』(半藤一利 平成21年発行)P95-102 ●「『上海』ならびに『支那』 〜五・三〇事件の余燼と創造〜」(田中益三)法政大学学術機関リポジトリ) ●「顧正紅記念館」Shanghai memo→ ●「上海」(船越昭生)※「日本大百科全書(ニッポニカ) 」(小学館)に収録コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
2023.5.30

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